第62話 ディープオッソ
俺が森の奥に逃げ出すと同時に、ディープオッソは俺に体を向き直した。
「ジェイド! そっちは反対!」
ヴェラのそんな声が聞こえてくるが、俺は無視をして森の奥へと逃げ込んでいく。
そんな俺をディープオッソはまんまと追いかけてきて、みるみるうちにヴェラとは差が生まれた。
それから、ディープオッソがギリギリ追いつけない速度で走ること約五分。
この辺りまで来れば、ヴェラに悟られることなくディープオッソを倒すことができる。
両膝に手を置き、あからさまな疲弊した様子を見せて油断を誘う。
流石のディープオッソも長い距離走ったことで疲れているのか、息遣いが非常に荒くなっているのが分かる。
普通ならば一度息を落ち着かせ、体力がある程度戻ったところで仕留めに動くと思うのだが、ディープオッソは本当に腹が減っているようで息を戻すことなく、そのまま俺に突っ込んできた。
ディープオッソから見た俺は、背中を見せて膝に手をつき、もう逃げる体力のなくなった弱い人間。
そんなこともあってか、何の駆け引きも行うことなく直情的に襲いかかってきた。
ここまで気配が駄々洩れで、息遣いも足音も大きい相手の動きなど、わざわざ確認せずとも完璧に把握することができる。
疲れたように膝に手をついているが、項垂れる俺の顔は全くの無表情。
一種の作業のようにタイミングを見計らい、ディープオッソが覆いかぶさる形で噛みついてきたところで――懐に潜り込むように動き、心臓目掛けて拳を合わせた。
鍛え抜いた剣よりも信頼できる俺の拳。
こちらの力は一切入れず、相手の全ての力を一点にして心臓に返した完璧なカウンター。
狙い通り、ディープオッソの体を貫くことなく、心臓に多大な負荷をかけて外側から破裂させることに成功。
俺の力も使って攻撃してしまうと体を貫いてしまい、どう頑張ってもディープオッソの血液が体に付着してしまう。
ソロでディープオッソを狩ったなんてことをヴェラにバレるのは勘弁したいところだし、面倒くさいが仕留めるのにこのやり方を取らせてもらった。
背後を取って頸椎をへし折っても良かったのだが、ディープオッソの臭いは強烈だからな。
接地面積が一番狭く、瞬殺する方法はこの殺し方だったという訳だ。
それから俺は、死んだディープオッソを見下ろしながら、色々と考え込んでしまう。
何故、この森で一番厄介な魔物と言われているディープオッソが腹を空かせていたのか。
森の入口付近まで姿を見せるということは、森の奥で“何か”があった可能性が非常に高い。
色々と体を分解して調べたい衝動に駆られるが……それをやってしまったら本末転倒もいいところ。
拳を布切れで丁寧に拭いてから、俺はディープオッソの死体に背を向けてヴェラの下へと急いで戻った。
どうやらヴェラは先ほどの位置から動かず待っていてくれたようで、ディープオッソを討伐してすぐに合流することができた。
「ひとまず無事で良かった。……けど、ジェイド何してるの? 森の奥へ逃げるなんてあり得ない」
「ヴェラを仕留められないと分かってから、明らかに俺を狙っていたのが分かった。外に逃げたらディープオッソを森の外に出してしまうからな。俺は逃げ足には自信があったから、森の奥に誘導してから撒いた方が良いと思ったんだ」
「………………」
その説明で納得はしたようで、口をへの字にさせながらもゆっくりと頷いた。
「でも、ジェイドが危険を被ることはない。見ず知らずの他人が襲われても別に構わないでしょ」
「俺はそうは思わないから森の奥に逃げたんだ。ヴェラは自分の命を最優先で考えていい。俺はもうおっさんだし、他人の命にも目が向けられる」
「でも……ジェイドが死んだと聞いたら、レスリーはきっと悲しむ」
その言葉を聞いて、少しハッとした気分となる。
俺が死んで悲しんでくれる人がいる。そのことに今の今まで思考が回っていなかった。
ずっと牢屋で暮らしながら、使い捨てのようにコキ使われていた日々。
死なないことはもちろん意識していたが、そんな生活のせいで死んでも構わないという意識でいた。
今更、戦闘中の意識を変えることはできないだろうが、俺が死んだら悲しんでくれる人がいるというのは嬉しいものだな。
「なんでそこでニヤつく。気持ち悪い」
「ヴェラとの戦闘を見ていたから、確実に逃げられる算段はついていた。あと、気持ち悪いはやめてくれ」
「事実だから仕方がない。あとで水面に写る顔を確認した方がいい。……採取は終わったから、もう戻ろう」
ヴェラの棘のある一言は毎回チクッと刺さる。
……俺の笑っている顔ってそんなに気持ち悪いのか?
言われてみれば、三十年以上ほとんど笑うことなく生きてきた。
ここ最近の生活のお陰で、少しずつ“笑う”という行為を行うようになってきたことだからな。
ぎこちなさ故の気持ち悪さなのかもしれない。
ヴェラの何気ない一言をあれこれ考えながら、俺とヴェラは西の森を後にしたのだった。
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