第2話
7月18日 - 2025年日本国際博覧会開幕まで1000日。2025年日本国際博覧会協会は公式キャラクター名を「ミャクミャク(MYAKU-MYAKU)」に決定したと発表。
この日の午後4時、織田晃が永眠した。
通夜は2日後、松伏町内の葬儀場で執り行われた。
僧侶が読経を始め、しばらくすると親族や会葬者により順次焼香が行われる。読経の終了後に僧侶が法話を行う。
また、晃とともに最後の食事を行うという意味で通夜ぶるまいが行われた。大人になってからはあまり一緒に食事をすることはなくなったが、小さい頃はよく祖父の家で食べた。晃は山かけごはんが好きだった。
弔問客が帰ってからも親族が交代で死者を守った。
翌日の午後1時、葬式が執り行われた。
松伏町には埋葬した死霊が付いて来ないよう、火葬場に向かう道と帰り道は同じ道を通らず、一本道で難しい場合であっても可能な限り同じ道を通らないようにする風習がある。
晃の遺体の胸の上には魔除けとして刃物を置かれてある。これを「守り刀」と呼ぶ。和樹は大学時代に葬儀場でバイトをしていたから詳しい。武士の社会で刀によって魔を斬るといった意味や、魔物の使いとされていた猫が光り物を嫌がるため、刀を置くことが魔除けとされたことに由来する。
和樹は晃の遺影を眺め、涙をこぼした。
神道での葬儀は神葬祭と呼ばれる。神道では死を穢れたものと考えるため、聖域である神社では葬式は通常おこなわず、故人の自宅か葬斎場で行うことが多い。現在の形の神葬祭は、仏式の葬儀が一般化した江戸時代でも神葬祭を伝えてきた神社での祭式を引き継いでいる。 式の際には、中央の祭壇の脇に遺影を置き、祭壇の奥に置かれた棺の後方に、銘旗と呼ばれる故人の名前が書かれた旗が立てられる場合が多い。そしてその周りに灯明、榊、供物などをあしらえたりする。
式の一般的な大まかな流れは、まず神職が塩湯や大麻等によって遺族と参列者および会場を祓い清める修祓を行う。そして神職により祖霊に供物である神饌を供する。神職は祭詞を奏上し、故人の生前の業績を述べ遺徳をしのびつつ、祖霊となって遺族を守ってくれるよう願う。参列者は玉串をささげて、二拝二拍手一拝をおこない故人をしのぶ。このとき拍手は、音を立てない「しのび手」でおこなう。
また、神道では、墓所を「奥都城」「奥つ城」(おくつき)と呼び、墓石にも「○○家之奥津城(奥都城)」と表示している家が多い。墓石の頂点を烏帽子に見立て、尖らせる等の外観上の違いもある。「霊爾」(れいじ。仏教の位牌にあたる)を祀る場合は仏壇の代わりに御霊舎(みたまや)を置いている。
晃は火葬され、お骨拾いを行った。
もう、会うことが出来ない。
葬儀から5日後、『extermination』に客が来た。何と、有田蜜柑だった。6年前和樹は賞金を手に入れる為にデスゲームを宇和島の『奇神館』で行ったのだが、蜜柑も参加していた。2人とも賞金を手にすることが出来なかった。あのとき、12歳だった蜜柑も18歳だ。
「意外なところで会うな?」
蜜柑はどことなく加藤清史郎に似ていた。
「こんなところにいたとはねぇ……」
「で、こんなところに何のよう?」
蜜柑は松伏町内にある高校に通っているらしいが、バイトを探していたらしい。
「ウチはメチャクチャ厳しいぞ?なんたって、相手は妖怪だからな?」
「僕、中学時代から剣道をはじめてるんです」
あのときは名探偵コナンに似たヒョロっとした奴だったが、ガタイがよくなっている。
「そりゃ頼もしいな?」
桜海老が言った。
蜜柑は即、採用になった。
鬼哭丸は悪人を倒すことによって能力を発揮する。松伏町郊外のスラム街にピアスをしたヤバそうな奴がいた。が、彼が悪人である証拠はどこにもない。殺した結果、彼が一般人だったらエラいことになる。考えあぐねた結果、埼玉県警に勤務している、恋人の日高川林檎に頼ることにした。
7月25日の夜、和樹は『extermination』近くのアパートに林檎を呼び寄せた。
エッチの後、林檎は如月久美という悪徳業者の情報を和樹に教えてくれた。
厚生労働省の第150回 疾病・障害認定審査会 感染症・予防接種審査分科会は、COVID-19ワクチン接種後に死亡した、接種当時91歳の女性の死亡一時金と葬祭料の請求を認めた。予防接種健康被害救済制度に基づき認定されたのは初。
厚生労働省などは、ヨーロッパに渡航歴がある男性1人がサル痘の検査で陽性を示したと発表。国内1例目のサル痘患者。
「日本における2022年のサル痘流行状況」も参照
7月26日
外務大臣の林芳正が、各国の外相と共に「ミャンマーにおける民主化活動家及び反体制派指導者への死刑執行に関する共同声明」を発出。
秋葉原通り魔事件(2008年6月8日発生)で死刑判決が確定していた死刑囚・加藤智大に対する死刑を東京拘置所で執行。古川禎久法務大臣の執行命令(22日付)によるもの。加藤は第2次再審請求中だった。
青年ホームレスの武田敦夫は、いつものごとく酒を飲みながら夜の松伏町を放浪していたが、車に片足を轢かれてしまう。そこに通りかかった女は恋の痛手と失明の危機から家出放浪中の女画学生、宇治英莉。敦夫は英莉の美しさに初めて恋の心地を知り、廃墟を仕切っている浮浪者の須賀川にこの家出娘の英莉を置いてくれるように頼み込む。そして二人のホームレス生活が始まる。虎尾真という刑事への恋の未練と画家としての失明の恐怖を両手に抱えた英莉と、他人との繫がりをあまりにも持たずに生きてきた敦夫との間にも徐々に愛情に似た親愛が芽生え始める。コロナ復興を願う夜の街に花火や音楽が乱れ交う。敦夫は見物客に手品を披露して、英莉も感動する。眼の病気は治るからこの人を捜してという、英莉を探すポスターが町中に貼られるようになり、敦夫は英莉に見られないように一つひとつはがしていくが、ついにはこのポスター張りの仕事をしている車を燃やし、業者も焼死する。その業者とは恩田勝馬だった。
そんな最悪な生活にも慣れてきたある夜、英莉は携帯ラジオから自分を探すアナウンスを耳にする。敦夫は警察に捕まり、服役中に眼を直した英莉が会いにきて、廃墟で再会しようと約束する。
7月29日 - フジロックフェスティバルが苗場スキー場で開催。31日まで。
警察の存在に気づいた久美は同じ、埼玉県内にある志木に逃れていた。
志木市は、埼玉県の南部に位置する市。地名は隣接する新座市と共に新羅郡に由来する。
埼玉県南東部の荒川西岸に立地する。
江戸時代、市内を流れる新河岸川の舟運により引又河岸(現在の市役所付近の新河岸川周辺)が商業地として発展した。この周辺の経済基盤を背景として、大正期には東武東上線が誘致され、その開業と同時に志木駅が設置された。昭和後期には、館の柳瀬川河畔に志木ニュータウンが造成され柳瀬川駅が開業し、現在は東京圏のベッドタウンとなっている。
面積は日本の市の中で6番目に小さい。
全国に先駆け、2002年(平成14年)より市独自に小学校低学年の少人数学級を導入した。ほかにも、新成人自らが毎年企画・運営して成人式を開催するなど、進んだ教育施策をとっている。 こうした取り組みは、周辺自治体から一定の評価を受けたようで、2004年(平成16年)に内閣府経済社会総合研究所が全国自治体を対象に実施した「生活者の視点による地域活力・活性化に関するアンケート調査」において、当市は「目標とする自治体」の全国第4位となっている。
市内を新河岸川および柳瀬川が流れ、両川は市内で合流する。市東端のさいたま市境には、一部を除き荒川が流れる。秋ヶ瀬橋の上流側で当市域の一部が東岸(左岸)に突き出ており、その突出部に秋ヶ瀬取水堰がある。
当市は荒川と新河岸川に挟まれた荒川低地、駅周辺を含む武蔵野台地、武蔵野台地が柳瀬川によって浸食されてできた柳瀬川低地の3つに分けることができる。荒川低地は標高5メートル程度、武蔵野台地は標高10-20メートルである。
久美は荒川沿いで明治生まれだという河童に遭遇し、志木の歴史について教わった。
1876年(明治9年) - 上宗岡の浅間神社に富士塚が築造される。
1878年(明治11年)7月22日 - 郡区町村編制法制定に伴い、新座郡志木宿となる。
1880年(明治13年) - 三上屋が廃業。その数年後に高須廻漕店が開業する。
1884年(明治17年)4月1日 - 志木消防組が設置される。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制が施行され、志木宿が改められ新座郡志木町となる。
1893年(明治26年)1月1日 - 宗岡尋常小学校と改称する。
1894年(明治27年) - 宗岡尋常小学校の校舎が新築される。
1896年(明治29年)
3月29日 - 新座郡が北足立郡と合併し、志木町の所属が北足立郡となる。
7月9日 - 志木町郵便受取所(郵便局)が開設する。
1897年(明治30年)12月1日 - 第八十五国立銀行が志木町に支店を開設する。
1902年(明治35年)4月1日 - 志木尋常高等小学校と改称する。
1905年(明治38年)4月1日 - 宗岡尋常高等小学校と改称する。
1913年(大正2年) - 宝幢寺の境内に浦和治安裁判所志木出張所(登記所)が置かれる。
1914年(大正3年)
5月1日 - 東上線が池袋駅 - 田面沢駅間で開業し、志木町に志木駅が設置される。
志木に初めて電灯がつく。
1916年(大正5年)6月28日 - 浦和 - 志木間に乗合バスが開業する。
1921年(大正10年)2月 - 細田裁縫女学校(細田学園女子高等学校)が創設される。
1924年(大正13年)
5月15日 - 志木 - 所沢間に乗合バスが開業する。
志木町役場の庁舎が新築される。
1929年(昭和4年)10月31日 - 宗岡閘門及び洗堰ができる。
1930年(昭和5年)
いろは橋が架設される。
新河岸川改修工事の竣工式が挙行される。
1931年(昭和6年) - 県の通船停止令により、新河岸川の舟運が終了する。
1936年(昭和11年) - 埼玉第一飛行場(のち浦和飛行場)が着工。
1937年(昭和12年)10月 - 松永安左エ門によって、東邦電力の研究施設として町内に「東邦産業研究所」が設立される。
1939年(昭和14年)4月7日 - 町立志木商業学校が創立される。
1944年(昭和19年)2月11日 - 北足立郡志木町および内間木村、入間郡宗岡村および水谷村が合併し、北足立郡志紀町が発足する。
1945年(昭和20年)4月3日 - 太平洋戦争下の空襲で、幸町一丁目に米軍B-29が時限爆弾を8発投下。後に爆発して民家の母屋と物置が吹き飛び、防空壕に避難していた5人が巻き込まれ死亡。
1947年(昭和22年)4月1日 - 志紀町に志紀中学校が開設される。
1947年(昭和22年)12月15日 - 慶應義塾獣医畜産専門学校が神奈川県川崎市から志紀町に移設される。
1948年(昭和23年)4月1日 - 志紀町が分離し、合併前の志木町、宗岡村、水谷村、内間木村となる(いずれも北足立郡)。町立志木商業学校の名称を町立志木高等学校と改める。慶應義塾獣医畜産専門学校を慶應義塾農業高等学校に改称する。
1949年(昭和24年)3月29日 - 町立志木高等学校を廃止し、その跡に志木中学校を移設する。
1949年(昭和24年)4月 - 志木公民館が落成される。
1951年(昭和26年)7月16日 - 宗岡公民館が落成される。
1954年(昭和29年)8月11日 - 県道新座川越線(通称「防衛道路」)が完成する。
1955年(昭和30年)5月3日 - 志木町と宗岡村が合併し、足立町が発足する。
1957年(昭和32年)4月1日 - 慶應義塾農業高等学校を普通科高校とし、名称を慶應義塾志木高等学校と改める。
1960年(昭和35年)
立教高等学校が池袋から新座町に移転となり、これに合わせて志木駅に南口が開設される。
埼玉県下で最も早く救急車が備えられる。
1964年(昭和39年)11月 - 水資源開発公団による秋ヶ瀬取水堰が完成する。
1965年(昭和40年)
市場坂上付近の野火止用水が暗渠となり、道路が拡張される。
10月31日 - 志木電報電話局が開設される。
12月16日 - 大字志木(現・志木市幸町4丁目)に国際興業バス川越営業所志木分車庫が開設される。
1967年(昭和42年)
6月 - 足立町消防新庁舎を竣工する。
9月27日 - 足立町消防本部が設置される。
1968年(昭和43年)4月1日 - 志木第二小学校が開設される。
1969年(昭和44年)4月15日 - 柏町に第一保育所が開設される。
1970年(昭和45年)
10月26日 - 市制施行に伴い名称変更、志木市となる。同時に、市章を制定する。
7月30日
国際芸術祭「あいち2022」が開幕。10月10日まで。
日本維新の会は、臨時党大会を開催し、党代表職の辞意を表明していた大阪市長の松井一郎の辞任を承認。初の党代表選挙の実施を決定。
和樹と蜜柑は久美のアパートを16時頃、発見した。『ゴブリンコーポ志木』3階建て以上の鉄骨造りだ。やや高級な集合住宅を「コーポラス」、略して「コーポ」と称し差別化することもあるが、近年では使い分けが曖昧になっている。
🎤中森明菜は志木市出身だ。和樹は明菜ファンで、『少女A』とか『禁句』とかよく聴く。
久美は志木市を散策することにした。
河童の伝承が残る街として知られ、市内の至る所に河童像が点在している。観光資源は少ないが、柳瀬川沿いの桜並木は東武東上線沿線における著名な桜の名所である。そのほか、世界に1本しかないと注目されたチョウショウインハタザクラ(長勝院旗桜)や国の重要有形民俗文化財である田子山富士塚、国の登録有形文化財である朝日屋原薬局の建築物などがある。また、まちおこしの一環として、この旗桜にちなんだ商品が開発され市内の小売店で販売されている。
朝日屋原薬局という明治20年代創業の薬局は趣きがある。現在も薬局の店舗として使用されている。
田子山富士塚も見事だ。
1869年(明治2年)10月かけて土を盛り、1872年(明治5年)6月に築造された。富士塚の頂上には奥宮が設けられている。また、中腹には親子猿の石像がある。富士塚は2015年から2017年にかけて改修が行われた。
2006年(平成18年)に埼玉県指定有形民俗文化財となり、 2020年(令和2年)3月には良好な状態で保存されるいる点や神事が継続されている点が評価され、国重要有形民俗文化財指定された。富士塚の国の文化財指定は全国で5件目、埼玉県では初となる。
1877年(明治10年)、現在の本町3丁目に建築された。1995年に一旦解体され、2001年に志木市役所の向かい側に移築された。復元工事には約8000万円の費用が掛かった。
堂の近くのラーメン屋で夕食。
蜜柑には予知能力がある。久美の行き先を予めに察知した。行き先を和樹に耳打ちした。和樹は先回りした。蜜柑は尾行を続ける。
いろは樋には、寛文2年(1662年)志木市の新河岸川に架けられた野火止用水の水路橋である。野火止用水の水を新河岸川を跨ぎ越して、宗岡地区に導いた。新河岸川の左岸と荒川の右岸に挟まれた宗岡地区は、度重なる水害と恒常的な農業用水不足に悩まされた。この地域を知行していた旗本、岡部忠直は、現志木市本町(旧引又)から新河岸川に無効用水(末流)が流れていたのを見て、家臣の白井武左衛門に命じ、新河岸川に総延長126間(260 m)の水路橋を架設した。樋は船の通行を妨げないようにするため、水面から4-5メートルの上方に架けられた。
志木市本町市場坂上の信号付近に小枡、大枡、いろは樋、いろは樋の縮小模型(江戸期のもの)が展示され、当時の様子を忠実に再現している。また中宗岡1丁目宗岡交番の脇に明治期の受取口の大枡と宗岡潜管の一部が展示されている。志木市立郷土資料館の敷地内にも、1978年に行われた柳瀬川の改修中に川底から発掘された潜管が展示されている。また、いろは樋が架かっていた場所の近傍に道路橋のいろは橋が架かるが、その親柱にはいろは樋のレリーフが掲げられ、その欄干はいろは樋の桁を模したデザインのものとなっている。
久美が目的地に到着したのは20時過ぎだった。
木陰から忍者みたく和樹が現れ、久美の腹を鬼哭丸で突き刺した。久美は血を口から噴き出し、金魚みたく口をパクパクさせながら痙攣し、やがて死んだ。
和樹は警察から逃れるようにして、蜜柑とともに
1丁目にはテロ組織、マーメイドの本部があるって噂だ。
敦夫が豹変したのもこの頃からだ。セックスを拒むと、英莉を殴ったり蹴るようになった。英莉は密かに敦夫を調べた。彼の父親は武田長太郎といって、妖怪退治を生業にしていた。英莉は松伏町に赴き、織田っていう精悍な男に会って、敦夫を殺してもらうよう依頼した。
「俺は構わんが、長さんはそれを許さないんじゃないかな?」
和樹は長太郎に相談した。
「昔から手がつかなくってな?事故で片足を亡くしてからはさらに凶暴になって、私にまで暴力を振るうようになった。君の手が血で汚れることになるが構わないか?」
汚れた絆だな?と、和樹は思った。
和樹は英莉から依頼金、100万をもらった。
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