鬼哭丸①

鷹山トシキ

第1話

 7月7日

 織田和樹は祖父が亡くなる寸前、埼玉県松伏町にある祖父、あきらの家にやって来た。この日の晃は不思議と元気そうだった。押し入れから刀を出した。

 和樹は8月で40歳になる。

「それで俺をどうしようってんだ?」

「コイツは鬼哭丸きこくまると言ってな?代々、織田家に伝わる刀でな? 悪人を殺すと悪魔を殺すことが出来る」

「善人を殺すとどうなるんだ?」

「呪われちまう。幕末、徳川家に仕えた織田伊蔵おだいぞうは将軍の命を狙う、倒幕派の田中新兵衛瓜二つの男を誤って斬ってしまった。その男は寺子屋を営み、子供たちから慕われていた。伊蔵は熱病で苦しみながら死んだ」

「アニメみたいな話だな?」

「信じる信じないはおまえの自由だがな? 8月にこの国に異国から魔物が攻めてくる。そいつに勝つには、その刀が必要だ」

 じーさん、病気の症状がよほど深刻なんだな?

「俺、戦いとか嫌いだから」


 和樹は松伏町を散策することにした。

 南北に長い形状をしている。田島、金杉付近は吉川市境と入り組んでいる。北東部の築比地は江戸川によって分断された下総台地の一部の金杉台地であるが、それ以外はほぼ平坦な地形。僅かに古利根川沿いの河畔砂丘による微高地が周辺より高く、町役場などはこの上にある。町域は約16平方キロメートル。


 横浜流星、羽田英介、石川遼などが松伏町出身だ。


 風車がクルクル回ってる。ドン・キホーテになった気分だ。鉄道路線はない。松伏町では、周辺自治体とともに地下鉄8号線(有楽町線)の誘致活動を行っている。和樹は運転が出来ない。その為、林檎のフェアレディZでやって来た。

 林檎は明日、迎えに来てくれるらしい。

 和樹は埼玉県浦島市ってところの食品会社に派遣されていたが、パワハラに遭っていたので辞職した。それ以降、仕事がない。祖父は妖怪退治を生業にしていた。『extermination』っていう、退治って意味の会社だ。桂馬小梅、桜海老静夫、須賀川荘司、武田長太郎という4人の部下を持っている。

 祖父は渡哲也、小梅は高橋惠子、桜海老は大泉洋、須賀川はユースケ・サンタマリア、長太郎は柴俊夫に似ている。晃は死期を悟っており、長太郎に後を託していた。和樹の父親、翼は弁護士をしており、家業を継ぐ気はなかった。祖父に妖怪退治をしたいと相談したら、長太郎に話を通しておくとのことだ。


 次の日の15時、和樹は林檎とまつぶし緑の丘公園にやって来た。埼玉県北葛飾郡松伏町にある埼玉県営の都市公園(総合公園)である。林檎とデートした。


 公園の所在地は元々田園地帯であった場所を1998年(平成10年)に都市計画決定26.5ha、2007年(平成19年)4月に一部5.6haを開設した。公園造成以前は現在の公園北部を八間堀悪水路(八間堀)が西から東へと流下していたが、造成に伴い公園北部を縁どるような流路へと付け替えられた。


 園内には芝生広場などの「広場ゾーン」、県内の公共工事で発生した残土を利用している「里山ゾーン」(造成中)、ヨシ原・トンボ池などの「水辺ゾーン」の3つからなる。管理センター内には特産品等販売所(毎週日曜日のみ)が開設される。また、園内は常時開放状態で、駐車場の料金は無料で約135台駐車できる。


 その頃、桜海老は河童を生捕りにして、晃に差し出していた。晃は、新鮮な河童の肉を食べ続ける事で命を永らえていた。


 デートの途中で晃から和樹のスマホに着信があった。「武田がこれから面接とちょっとした訓練をすると言っとる。来れるか?」

「大丈夫だよ」

 

 面接をした結果、武田は和樹に「やる気がありそうだ」と好感触だった。桜海老は空手の有段者だ。

 陸段で帯の色は黒、称号は錬士。

 空手の起源に関しては諸説あるが、主なものは下記の通りである。


 那覇の久米村(クニンダ、現・那覇市久米)に、1392年、当時の明の福建省から「閩(ビン)人三十六姓」と呼ばれる職能集団が移住してきたとされる。彼らは琉球に先進的な学芸、技能等をもたらしたが、この時、空手の起源となる中国拳法も同時にもたらされたとする説。ただし当時は中国でも拳法が未発達だったことが知られており今日ではこの説に疑問を呈する見解もある。同じ中国伝来説に、禁武政策以降にもたらされたとする「慶長輸入説」や『大島筆記』の記述を元に公相君が伝えたとする「大島筆記説」等もある。


「舞方(メーカタ、前方とも)は、琉球舞踊の一種である。沖縄の田舎には舞方と呼ばれる音曲にあわせて踊る武術的な舞踊があり、戦前まで各地に見られた。また、日本の「奴(やっこ)」のように、舞踊行列において前払いをする者は前方(メーカタ)と呼ばれ、行列の先頭で音曲に合わせて空手のような武術的な踊りをしていたともいう。こうした武術的要素をもった舞方から「手(ティー)」が生まれ唐手へと発展した、ないしは舞方の中に唐手発達以前の「手」の原初的姿が残されている、とする説。安里安恒やその弟子の船越義珍がこの説を唱えている。


 この「手」に中国武術が加味されて唐手へと発展したとする説は今日の主流になっている。本部朝基の「(支那拳法が)琉球在来の武術と合し、取捨選択洗練の結果、唐手として隆々発達を遂げた」とする説や、宮城長順が記す「慶長輸入説」のうち、「外来の拳法が在来の『手』と合流して異常の発達を遂げ」たとする説もこれに該当する。


 他にも、沖縄角力(シマ)からの発展説、本土から伝来していた柔術が起源とする説などがある。

 

 桜海老は打撃技について教えてくれた。

 自らの体の一部分を相手の体にぶつけることにより、そのときの衝撃で相手にダメージを与える。相手にかわされたとき、空振りとなるが、そのときに自爆により自らにダメージが来てしまうものもある。また、場合によっては相手にダメージを与えるだけでなく、ぶつけたときの衝撃で自らが負傷してしまう場合もある。


 打撃技は多くの格闘技・武道・武術において使用されており、その種類も多岐に渡る。


 また、極め技や飛び技(空中殺法)との複合技も多く、特にプロレスにおいては多くの派生技が考案されている。なお複合技は、場合によっては打撃であっても、飛び技や極め技など、複合しているもう片方の技の要素に分類されることがある(例:ミサイルキック = 打撃技+飛び技→飛び技に分類する場合あり)。

 最初は殴打技を習った。

 殴打技(おうだわざ)とは、武術・格闘技において、様々な方向へ腕を繰り出すことにより、手や拳など腕の一部による打撃により攻撃・防御を行う技術であり、腕を使った打撃技の総称である。殴り技(なぐりわざ)、打突技(だとつわざ)、手技(てわざ)などとも呼ばれる。


 おおまかに突き技(つきわざ)と打ち技(うちわざ)とに大別できる。なお、打ち技は突き技の派生とする見方と、打ち技と突き技は別のものという見方がある。


 手は足よりもリーチが短く、また体重を支える心配がないため、蹴り技よりも殴打技の方がバランスがとれている。その反面、立ち位置から手技を放つ際には、両足で支えるため、下半身を狙われるという欠点がある。


 殴打技を主体にした武術には、ボクシングや空手等があり、他にもキックボクシングやプロレスなど非常に多岐に渡る。


「正拳突きについて教えてやる」

「水曜どうでしょうに出てませんでした?」

「何を分けの分からんことを言っとる」

 正拳突きには拳(こぶし)を握り固めたとき、人差指と中指の根本部の関節(指の先端から3番目の関節部、拳頭と呼ぶ部位、大拳頭ともいう)の前側を用い、拳の手の甲側を上(手のひら側は下)に向けた形の拳(すなわち正拳)で打撃対象に当てるのが正拳突きである。拳頭の背部や指のその他の関節部を使用するものは正拳突きには含まれない。   


 空手の基本動作では、構えの姿勢から突く側の拳を脇の下(または胸部の横位置)まで引き(これを引き手と呼び、この時の拳の手甲部は下向きになる)、同時に突き手と逆側の手は正拳を前に出した形もしくは受けの形をとる。


 引き手とした拳を腰の回転を切り返しつつ(腰を入れるという)、対象までまっすぐ突き出すが突き出した時は拳の手甲部は上向きとなる(突く動作と同時に逆側の手は脇の下に引き手を取る)。つまり、正拳突きは引き手位置から拳を180度の螺旋回転を加えながら目標に到達させる動作である。この一連の動作を瞬時に行えるように反復練習をする。


 なお、突いた時に正拳突きとは逆に拳の手甲部が下向きになるものは裏突きと呼び区別される。


 また、基本練習や型で使われる場合と、組手・試合などで使われる場合は動作がやや異なる。すなわち基本動作はより大きく長く使い、組手・試合ではそれよりも短くより迅速に使われる傾向がある。


 正拳突きの威力は腰の回転力と拳の螺旋回転の力を正確に拳頭に集中してヒットさせた時に生じる。組手や試合あるいは実戦の際には、これに出足や重心移動にともなう力も加えられることになる。型や仕組みは異なるが、ボクシングのコークスクリュー・ブローと同じ原理である。


 須賀川は忍術について教えてくれた。彼は甲賀忍者の末裔らしい。

 甲賀流は、近江国甲賀(現在の滋賀県甲賀市周辺)に伝わっていた忍術流派の総称。南東へ山を隔てた伊賀国(現在の三重県西部)の伊賀流と並び、最も有名な忍術の一派として知られる。甲賀流、伊賀流ともに伝系に関しては仮託の説が多く、信用できるものはあまりない。甲賀忍者と伊賀忍者の対立・対決を題材とした多数の創作により形成されたイメージの影響も大きいが、民家で史料が発見されるなど実像の研究も進み、少なくとも江戸時代には確実に存在したとされている。なお、「甲賀流」という名称の単一の流派は存在せず、あくまで甲賀に伝わる複数の流派があわさって甲賀流と呼ばれているにすぎない(甲賀の地侍は「甲賀衆」と当時から呼ばれた)。


 地名から甲賀流を「こうか」と読む場合があるが、現在では「こうが」の読み方が一般化しており、こちらを正式と認識されることが多い。


 平安時代に鈴鹿関が設けられ、東国への重要な関門である甲賀には、武士たちが土着した。古代、大伴氏の一族である伴宿禰が甲賀郷長となり、この地方の豪族として在任していた。その末裔が派生して武士化し、次第に甲賀武士が形成された。


 戦国時代の甲賀は小領主達が「同名中」《どうみょうちゅう》という一族集団を形成していた。独立性が高く、甲賀には屋敷を土塁や堀で囲んで外敵に備えた城館や城砦が180以上あった。後述するように六角氏を助けて戦ったものの、その支配は十分に及ばなかった。後に織田信長が台頭して来るとそれら甲賀の侍衆たちは甲賀郡を単位とした連合体を結成する。それが甲賀郡中惣である。


 室町時代後期、観音寺城に本拠を構える近江佐々木六角氏が着々と力を蓄え、室町幕府の命令を軽視あるいは無視し始めたことから、長享元年(1487年)に将軍足利義尚がこれを征討するために軍を発し、六角勢との間に戦いが行われた(鈎の陣)。義尚が諸国の大名を動員して六角氏の本拠観音寺城に迫ると、六角高頼は幕府軍との直接対決を避けて甲賀城に移動した。そこで義尚は本陣を栗太郡に位置する鈎の安養寺へ移し、甲賀城を攻めてこれを落城させるのだが、脱出した六角高頼は配下の甲賀武士達に命じ、山中でゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。「亀六ノ法」という、高頼の考え出した戦法がある。敵が攻めてきたら、亀のごとく甲賀山中に隠れ、敵が長陣に疲れ果てるのを待って、亀が手足を出すがごとく突然現れて攻撃するものである。その他、甲賀武士達は山中でその地の利を生かして様々な奇襲をかけ、また時には夜陰に乗じて義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、幕府軍を散々苦しめたという。そのためなかなか決着はつかず、長享3年(1489年)には義尚が陣中に没したため、足かけ3年にわたった戦いは終結、六角氏は生き残った。そして、この戦いに参加した五十三家の地侍達を「甲賀五十三家」と呼び、さらに五十三家の中で六角氏より感状を貰い重きを置かれた家を「甲賀二十一家」と称される。


 以後、甲賀の侍衆は六角氏と行動を共にした。六角義賢が観音寺城の戦いで織田信長に敗れると、甲賀へ逃れて信長と戦うことになったが、野洲河原の戦いで甲賀の侍衆が加わった六角軍は信長に敗退した。その後も戦は続くが、やがて六角氏が没落すると甲賀は織田信長の支配下に入ることになる。信長の家臣の滝川一益は、甲賀出身という説もある。本能寺の変の際は、信長とともに討たれた森蘭丸の弟である森忠政とその母・妙向尼を甲賀の侍衆の伴惟安が甲賀の自領で匿った。後に伴氏は森忠政の家臣となる。本能寺の変を知り、本国三河へ帰還した徳川家康の伊賀越えでは、山口光広が家康に同行していた信長の家臣の長谷川秀一の求めに応じ、実兄の多羅尾光雅とともに甲賀の侍衆などを率いて家康一行の道中を警固した。

 

『extermination』の建造は、一見普通のビルだが、内部には縄梯子、落とし穴、回転戸、地下道などが仕掛けられている。 甲賀市甲南町竜法師2331番地に、甲賀五十三家の筆頭格であった望月出雲守の元禄年間建築の旧居が甲賀流忍術屋敷として残る。


 須賀川は万物に流れる『気』を利用する中国の気功術に近い、技を教えてくれた。己の気を相手に撃ち込み、相手の気の流れを止めることで内部から血肉を破壊する術だ。術者は次第に五感が機能しなくなり、最終的には死亡する。


 3人目の師匠は桂馬小梅だ。彼女は元カーレーサーだ。ドライビングテクニックについて学んだ。

 お尻とシートに隙間ができないように深く腰掛け、左足をフットレストに置き、右足がアクセル・ブレーキペダルをいっぱいに踏んだ状態で、膝に少し余裕ができるくらいの位置でシートスライドを前後調整する。 ・加減速時の前後方向の揺れに対して、腰と左足でしっかり、身体をシートに固定させる。


 和樹は小梅のポルシェの助手席に乗り込んだ。

「コーナリングについて教えてあげる」

 ポルシェは国道を疾駆した。

 コーナリングとは、自動車が道の角を曲がる動作のことである。 モータースポーツでは、カーブを曲がる際の旋回運動を表すために用いられる。 なお、旋回時、進行方向に対して横向き(直角)に働く力をコーナーリングフォースという。

「僕、テレビでたまにF1見るんですけど、コーナリングパワーって何ですか?」

「コーナリングパワーっていうのは、横滑り角(スリップアングル)によって生じたコーナリングフォースが、この角度に応じ増加する、増加率のことをいう。 横滑り角0度または0~1度の値が用いられるの。 なお、略称はCPで、表示は1kN/degとなっているのよ」

 

 最後の師匠は武田長太郎だ。

「『西部警察』で大将、演じてましたよね?」

「何の話だ?」

 武田は授業に入った。

鬼一法眼きいちほうげんを知ってるか?」

 和樹は首を横に振った。

「鬼一法眼は、室町時代初期に書かれた『義経記』巻2に登場する伝説上の人物だ。京の一条堀川に住んだ僧侶の身なりの法師陰陽師でな?『六韜』という兵法の大家でもあり、文武の達人とされる。源義経がその娘と通じて伝家の兵書『六韜』を盗み学んだという伝説で有名だ。また剣術においても、京八流の祖として、また剣術の神として崇められている」

 武田はかつて、カリン塔に登り、そこにいる仙猫・カリンの下で修行をした。

「長さん、魔法を使えるようになるにはどうしたらいいんだ?」

「魔法を使えるようになるには、一般的には以下のような方法がある。呪文や魔法陣を使うことで、魔法を発動することができるようになる。呪文や魔法陣は、正確に発音や描写をしなければならないため、正確性が求められる。また、使用する魔法の種類や属性を理解することが必要だ。

 魔法の種類や属性に応じた魔法を使いこなすためには、魔法の種類や属性に関する知識が必要だ。魔法書や先人の記録を学ぶことで、理解を深めることができるようになる。

 魔法を使える人間にとって、魔法の力は自然現象のようなものであり、内面から引き出すことができる。魔法の力に触れることで自らの身体に魔力を集め、それを引き出すことで魔法を使うことができるようになる。

 ただし、魔法の力を自己流で引き出す方法は、非常に危険を伴う。自己流で魔力を引き出すと、魔法を使う際にコントロールができなくなってしまうことがある。そのため、しっかりとした知識や技能を身につけて、魔法を使うことが重要だ。そなたにこれを授けよう」

 長太郎は黒く光り輝く魔法石を和樹に渡した。ペンダントネックレスになっている。

「悪いことをすればするほど、魔法を使えるようになる。警察に捕まらないようにうまくやるんだぞ?」

 これにて訓練が終わった。


 7月15日、恩田勝馬はまつぶし緑の丘公園で野生の河童に遭遇する。公園では河童に追いかけられたりはするものの、なりゆきで一緒に暮らすことになり、次第に勝馬にとって大切な存在となっていく。罠にかかり捕獲されてしまい輸送中に逃走して迷い込んだ河童だったが、一緒に生活をするうちにメディアに取り上げられ、ニュースになってしまう。

 ニュースになったことで悪徳ペットショップによってさらわれてしまったなまはげだったが、河童の専門家の協力によって救出に成功。

 故郷・静岡の山中に返す決意をした勝馬だったが、再び悪徳ペットショップが現れる。

『フェブラリー』の如月久美きさらぎくみはどことなく原幹恵はらみきえに似ている。久美は何故か、勝馬の両親のことを知っており、軽井沢に旅行中ってことまで知っていた。

「河童を明け渡せ。言う通りにしないと両親を始末するぞ」

 勝馬は仕方なく、河童のシロを渡した。


 家に帰ってきてニュースを見た。

  奈良県奈良市の近鉄(近畿日本鉄道)大和西大寺駅付近で、第90・96・97・98代内閣総理大臣の安倍晋三が、第26回参議院議員通常選挙に奈良県選挙区から出馬している自由民主党公認候補の応援演説中に背後から銃撃を受けた。狙撃した人物は殺人未遂罪で奈良県警察に現行犯逮捕された。安倍は心肺停止の状態で奈良県立医科大学附属病院に搬送され、午後5時3分に死亡した。享年67。内閣総理大臣の岸田文雄は、「民主主義の根幹たる選挙が行われている中、安倍晋三氏の命を奪った卑劣な行為は、断じて許されるものではなく、最も強い言葉で非難します」とし、安倍の業績などを語った上で、「突然の訃報に接し、悲しみの念を禁じ得ません。ここに、国民の皆様とともに、心から哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます」とする談話を発表。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る