ビー玉が溶けるまで
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ホームに突っ立って、数分を待つ。
やがて停車した車両に乗り込み、俺は降車口の端に寄った。一瞥した車内はまばらな客足、そこかしこの席に空きがあるが、なんとなく座る気にはならない。結局、青色をバックに住宅街を流しはじめる窓に、すこしだけ体重を預けることにした。
服越しにガラスへ触れる瞬間、すこしだけ躊躇する。身震いみたいな悪寒が肌を滑った。
怖い、とは違うのだと思う。
なにか繊細なモノに触れてしまった恐れ多さみたいに、腰が引ける。つい数週間まえに教会で目を覚まして以来、変な違和感がある。ある種のデジャヴくらいの変化で、生活になんら支障はない。
……いや、それ以前に、教会で寝ていたということ自体が異常なのだけど。でも、実害がないし、日常は平常運行。きっと、俺は白昼夢でもみていたのだと思う。
車窓の変わらぬスクロールを眺め、そんな風に思った。
「……。」
青色を背景に、特徴のない自身の顔が映り込む。
反射した車内。向こう側を流れる街並み。どれをとっても、変わり映えしない。
人々は、今日に何の疑問も持たず生活している。
俺たち人間は、教科書や偉い大人から、「海の向こうには普通の生活すら送れない人がいる」と教えられる。例えば戦争。例えば貧困。歴史は人類に課された数々の試練を刻んでいる。
でも、そのどれもが遠くの世界の話のようで。
結局のところ、愚かな俺たちは「そうなのか」と平和ボケした思考を繰り返す。
平和ボケしたそいつらの命は、価値を損なうだろうか?
同じ地表に生きる同じ人類のことさえ想えないヒトを、嘲るに値するだろうか?
とてもそうは思えない。
環境がちがう。言葉がちがう。目の届く生活圏の人々は、とても安定した生活を続けているようにみえる。だけど、どいつもこいつも必死で。それぞれが自分なりに足掻いていて。ろくなことをしてくれない運命に抗っている。
そしていつか、人生の転機ってやつにぶち当たって――それで、当たり前な時間に幸運を見出すのだ。
要は。みんな、闘っているのだ。異なる苦しみに抗っているのだ。
俺はどうだろう?
俺には、そういうものがない。流れているのはなにも変わらない、平行線の時間のはずなのに。ボタンを掛け違えたような、でもそのボタンが何個目なのかがわからないような違和感がある。例えば、花瓶の中身が全部流れ落ちたみたいに、不思議でもの悲しい浮遊感のまま、俺は揺られていた。
『まもなく、鐘之宮――お出口は、左側です』
我ながらアンニュイなことを考えている。それもこれも、つい数日まえの奇妙な体験が原因なのだった。
俺は窓ガラスから肩を離し、空気混じりの扉を抜けた。
鐘之宮駅を出て、高校とは反対側の方向へ歩くこと数分。
人気の薄いビル群の一角に、そのカフェは佇んでいる。指定を受けたその店構えは、快晴もあってとても映えた。店先に出されたブラックボードにはアイビーの鉢植えが添えられていて、葉先の水滴ひとつでさえも洒落た雰囲気を際立たせていた。
周囲を見渡す。
ビルの影を、キャリーバッグを引いた女性や緩い服の男性が歩いていく。客で賑わうモールとは離れているため、この辺りは人通りが落ち着いている。ランチには早すぎる時間帯だ。当然といえば当然の風景だった。
『たぶん遅刻する』
携帯を震わせた木陰からの連絡に、俺はかるくため息をつく。
もう先に入ってしまおうと決めて、頭をかきながら、俺はレンガ調の入り口を潜った。
からんからん、とドアを開け、店内にはいる。明るい外の光が和らげられ、コーヒーの香りとジャズ音楽が出迎える。出迎えたウェイターに丁寧に答える。
ひとりです。禁煙で。
◇◇◇
席に案内され、緑の色ガラスを混ぜ込んだ窓際へ座る。向かいの背もたれは空席で、そのさらに向こうは別のテーブル。けれど、並べられた観葉植物によって、心地よい
店内を流れるささやかなジャズ。カウンターの向こうから漂う珈琲の香り。自然、客たちの声は潜められる。
ひらいたメニューのありきたりで味のある羅列が色付いてみえるほど、息をつきたくなる空間だった。
木陰はどれくらい遅刻するのだろう。ウソか本当かもわからない、画面の簡素な謝罪が、ブルーマウンテンという響きに上書きされていく。こういうのに落ち込むほど、俺という人間はできていなかった。こと人間関係においては淡白なのであった。
水滴を滴らせるグラスの水に目を細めた。
電車からこっち、感じていなかった鳥肌が燻りかえす。凝視すれば思い出したように、自分の知らない何かが反応するのだ。
その正体を掴めず、ナポリタンあたりで紛らわしてしまおうかと考えていたとき、平穏な空気を鐘が揺らした。
カラン、カララン──と、外の風が舞い込む。秋の乾いた気温が観葉植物を揺らし、足下を通り抜けた。
思わず身体を傾けてまで様子をうかがってしまったのは、そいつが息を切らしていたからだった。木陰の到着だろうか、とも思ったが、その予想は外れた。
ひとりの少女だった。
数時間まえに忘れ物でもしたのか、あるいは恋人と待ち合わせでもしているのか。電車と間違えて駆け込んできたかのように、彼女は
黒いパーカーとスカート、ソックス。覗いた肌色とベージュのトートバッグが映える装いだった。懐から取り出したソレを凝視する佇まいは、昼間にできた日陰のようで、なんだか見ていて落ち着く。
懐中時計だなんて、今どき古風だな、と思った。でも不思議と嫌いじゃない。様になっている。
俺と同様にウェイターが出迎え、一言二言を交わす。彼女のきょろきょろと辺りを見回す仕草は、どうやら遅刻の
俺はそっと、観葉植物の陰にもどる。
世界は正常にまわっている。ああいう、本人からしてみれば大変な状況も、俺からすると平凡で平穏な日常の一部だ。ありきたりな日々のひとりとして、俺もメニューと向き合おうと思った。
何事もなければ、ウェイターが彼女を案内するのを待って、呼び鈴を鳴らしていたことだろう。
けれど、そうはならなかった。
メニューの文字を追う。
気配がちかづいてくる。
ページをめくる。
コッ、と、茶色いブーツがテーブルの傍に立つ。
視界の端に暗い装いが入り込んだ。
彼女は、真っ直ぐ俺の席へとやってきていた。「なんだろう」とゆっくり顔を上げた俺を――夜空と似た色の瞳が、見下ろしていた。
「ここ、良い?」
「……は、」
唖然とする。
唐突すぎる問いに、言葉を失う。
名前も知らない彼女は、なぜ俺のところへ来る? 脳内で理由を探すも、すぐに諦める。
助けを求めるつもりでウェイターへ目を向けると、そちらはなぜか穏やかに微笑むのみ。思い出したように、追加のお冷まで準備しはじめる始末だ。まったくわからない。
「座るわよ」
そうこうするうちに、態度を肯定と捉えたのか、彼女は迷いのない動きで対面に腰かけた。
そして、水と一緒に運ばれてきたメニューを、何食わぬ顔でひらいた。困惑するこちらなどお構いなしに、じ、とドリンクの文字を睨む。垂れた前髪の隙間から、難しそうな表情が覗く。まつ毛の長さが少女の雰囲気を際立たせて、身構えていなかっただけに、どう振る舞うべきか悩んでしまう。何も言えなくなってしまう。
店内のジャズが、ピアノを基調とした曲にかわる。
俺は自身の注文などそっちのけで考察していた。
焦って入店してきておいて、俺のところへやってくる理由はなんだろう? 待ち人に約束を
どちらにせよ、理由は訊ねるべきだ。俺はすこしだけ勇気を出して、口をひらいた。
「席、間違えてないか? あるいは人違い。俺は友人と待ち合わせしてるんだけど」
メニューから顔をあげ、彼女は目をしばたいた。まさにきょとん、といった風に。
しかし、その瞳は一度伏せられて、じっと俺に向きなおる。数秒の無言を、通った声がさえぎる。
「間違えてない」
口は引き結ばれていた。きっぱり告げた
考えを巡らせる。
「木陰──あー、成海かおるって男は知ってる?」
メニューを押さえる彼女の指が、離れる。ちいさい頷きが、ことの詳細を明らかにした。
つまり。今朝、携帯を震わせた木陰からの呼び出しは、目の前の少女と俺を引き合わせるためのものだったということだろう。俺は事情も知らされず引っ張り出され、張本人は遅刻をかましたわけだ。
と、そこで彼女は補足した。
「たしかに私は知り合い。でも、ほとんど接点はない。たぶん、あなたよりもずっと少ないわ」
よくわからないことを言われた。つい小首を傾げてしまう。
「……俺、よりも?」
「ええ」
――なんだ?
困った風に微笑む顔が、なんだか胸の奥に刺さる。
ガラス窓の一部にはめ込まれた緑色が、テーブルのこちら側を薄く照らす。対面の彼女の佇まいは暖かな陽光を浴びていて──その差が、どこかもどかしい。
タイミングをみて、ウェイターが注文をうかがいにくる。
「ココアを。ホットで」
彼女は一言、そう伝える。
「あなたは?」と視線で問われ、メニューに目を落とす。食べ物……は後でいいか。
「お、オレンジジュースで」
咄嗟に目にとまったのが、ソレだった。背伸びしたい年頃にしては、少々子供っぽかったかな、なんて思うけれど、別段相手は気にしていないようだ。それどころか、ほっとしたみたく目を細めていて、なおさら理解できない。
ウェイターが引き下がる。
テーブルに再び、沈黙が流れる。メニューという、気を紛らせるツールがなくなったことで、互いに言葉を探した。
木陰は、なぜ俺を彼女と引き合わせようとしたのだろう? それは、三上春間本人の事情による理由からだろうか? それとも、彼女側の事情による理由からだろうか? メールで確認することもできるが、どうしてか気が進まない。
……もしかして、アレだろうか。木陰が気を利かせて異性を紹介してくれたという可能性はないか?
思えば、最近のあいつは変わりすぎている。シスターと仲良くなって、ぼかすような物言いもなりを潜めて。良い意味で、彼は人間らしくなっていた。収まるべきところへ収まったといえよう。
もしかしたら木陰は、「お前もいい相手みつけなよ」なんてお節介を焼いたのかもしれない。それならこの状況も納得でき、
「……いや、それはないな」
「え?」
「ああいや、何でも。ちょっと考え事をしていた」
「そ、そう」
首のうしろをさする。
テーブルに視線を落とす彼女。俺たちのテーブルが、居たたまれない空気に包まれる。窓から差し込む陽光も、心を和らげる頭上のランプも、周囲の観葉植物も、意識から外されてしまう。
と、そんな俺たちのテーブルにウェイターがやってくる。トレイからココアとオレンジジュースをそれぞれの目の前へ置き、頭を下げて戻っていく。
グラスに入った黄色いドリンクが、ステンドグラスのもたらす色彩に新たな色味を挟んだ。コースターを乗り越えて、表面に反射が散らばる。
穏やかな時間。
見えないところで、時計が針を運ぶ。
すこしだけ、互いを探りあう。
かけるべき言葉をさがす。
ストローを刺すが、まだそれには手をつけられなかった。自分が先に口をつけるのはどうなんだ? なんて、格式ばったくだらない思考がよぎった。普段の俺とは縁がない空気だけに、余計な気をまわしてしまう。
だから、すこしだけ様子を伺い──
世界の
ココアから立ち昇る湯気。
カップに口をつける仕草。
ステンドグラス越しに外へ投げる視線。
すこしだけ素っ気なさを感じさせる横顔。
ああ──どうして。
彼女から、目が離せない。
柑橘を味わおうと開きかけた口が、塞がらなくなる。呼吸を忘れそうになる。言葉にできない、得体の知れない衝撃が、身体の芯から全身にひろがる。力の抜けた指先に血が通ったような熱さに見舞われる。これをなんと呼べばいい? デジャヴにも似たこの感覚は、辞典に載っているだろうか?
きっとこれは、なんてことない瞬間で。
平凡な日常に詰め込まれた、刹那のごとく数分間の出来事で。
でも、きっと記憶に刻まれる。
おそらく永く残される。
他のだれにも邪魔できないこの一瞬は、俺と彼女だけが体験し、記憶する隙間時間だ。
「あの」
「……? なに?」
ほとんど無意識に、口をひらいていた。
どんなことを訊きたいのか。なにを話したいのか。会話をはじめるまえに実行すべき頭の整理もせず、衝動的に。
直感が『それが正しい』と告げる。正体不明の直感だが、俺は身を任せてしまう。
「君、名前は?」
──彼女が、身体を硬直させた。
傾けたカップをそのままに、目を丸くした。前振りもなく切り出した俺の問いかけを受けて、心底驚いたような反応をした。
カタ、とカップが置かれ、俺は戸惑った。
「──、」
夜色の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「え、ちょっ、ごめん! 俺なんかしたかな……?」
ふるふると、目元を拭いながら首を振られる。
考えもせず訊いておいて何だが、名前を尋ねるのは自然なコミュニケーションなのでは? だけど、彼女は涙をこぼした。こぼすほど、その行為に、なんて事ない過程に意味を見出していた。
それは――彼女にとってだけの価値だろうか?
普段の俺はこんな考え方をしないだろうけれど、今はどうしてか、自分自身に疑問を抱いてしまう。
この当たり前のやりとりが、俺のやるべきことなんじゃないか。傍目にみればただの自己紹介が、俺たちが会ってすべきことだったんじゃないか。
……。
…………。
いや、馬鹿げている。今日の俺はどこかおかしい。自問自答が次々と浮かび上がって、一歩一歩踏みしめるように、答えを導き出して仕方ない。
けれど、きっとこれが正しいのだと、腑に落ちるもうひとりの自分がいる。このままでいいのだと、そう
これが俺のすべきこと。かつて俺が願ったこと。正確には思い出せない。何があって、どういう経緯があったのかも分からない。なのに、こう決めた途端に色々なことがしっくりくる。
彼女は知らない他人のはず。この出会いは初めてのはず。それらがどうしようもない感情に押しやられ、否定される。
「ごめ、ん……ちょっと、取り乱しちゃって」
目元を
俺は間違えているだろうか?
いいや。間違ってない。
俺は彼女を知っていきたい。
俺は透明な自分を取り戻したい。
俺はいつか
それは紛れもなく自分の感情で、怖くもない。
すぅ、と息を整える──意味もなく、緊張している。
「いや、こっちが急だった。手順をすっ飛ばしたみたいだ」
くそ、なんだよ、これは。
どうなっている? 俺はおかしくなってしまったのか?
今までの俺が変だったのか?
いや、どうだっていい。
心臓が規則的に熱を伝える。理由は定かではないが、この感情の名前を知っている。
彼女をみる。ずっとみつめてくる彼女と向き合う。不思議と心地良いのが、この想いの裏付けだ。まだ見ぬ響きがほしくてたまらない。
言ってしまっていいだろうか?
もうさらけ出していいだろうか?
ああ、訊いてしまおう。
踏み込んでしまおう。
だってこれは、ずっと待ち望んでいた結末だろう?
「初めまして。俺は、三上春間。君の名前が知りたい」
震えた声だ。情けない。
それを彼女は頷きながら、一字一句まで受け入れて、噛みしめて。すべてを聴き届けてから、傍らのバッグを漁った。
そして──懐かしい、黒くて、大きい魔女帽子をかぶり、言う。
透き通った声音で俺に手を伸ばす。
「初めまして、ハルマ。私はまれ。
暖かな光を受けて、魔法使いが笑った。
頬は仄かに色づいてみえた。
なんだか、目の奥が熱くなった。
儚くて、ガラスみたいに軽くて。でも、たしかに君はそこに生きている。俺は目を細めて眺めている。
彼女は、完全からほど遠い。
けれど、透明な魔法がひとつ残らず溶けるまで、きっとここにいる。
それだけで、満足だった。それだけを、受け入れた。
そうやって。
ふたり、綺麗で残酷な日々を生きていくのだろう。
魔法のようで、ありふれた数分を、繰り返しながら。
――fin.
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