4-3
夕暮れの教室に立っていた。
校舎のどの位置にあったか、もう思い出せない。そこが東から数えて何個目の教室なのかも忘れてしまった。けれど確かに覚えてはいて、私の胸の奥底で、とくんと波紋が揺れた。
息切れは、いつのまにか収まっている。さきほどまで血反吐をはきながら走っていたのは夢だろうか? そう思わせるほど穏やかな目覚め。しかし意識を自身の姿に寄せれば、夢ではなかったと思い知る。
何度か転んだ
まあ、今さらどうということはない。どうせ今日が最後なのだから。
私は静謐な空間を見渡した。
差し込む夕陽が、オレンジ色に染まっている。ガラス窓を透過し、一日に潜む鮮やかな時間を創りあげている。遠方にみえる建造物や木々のシルエットを目で細めてみると、以前もこの角度で眺めたことがあった気がした。
木目調の床に、陽は反射する。ワックスの匂いはさすがにしない。でもツヤは健在で、教室全体を暖かく照らしている。黒い装いの私は、さぞ目立っていることだろう。
机やイスは散乱していた。教室の中心部から、外側に押し出されたように。ひとつの暴風が過ぎ去ったあとのように。規則正しい並びを崩していた。
「……。」
黒板。チョークは消され、深い緑が埋め尽くす。
壁のプリント。いつかの「おしらせ」が画鋲で縫い付けられている。
時計。針は午後五時で止まっている。
足下に目をやると、空のペットボトルが転がっていた。
忘れもしない。あの日私が飲み干した蒼矢サイダー。ダイヤカットの装飾、変わらぬ蒼いラベル。光を受けて、床に色を落としている。
それがここにある意味を悟った。まさか、とは思っていたけど、ここまでみせられると疑いようがなくなってしまう。置かれた状況、立っているこの場所。感じられるすべてが指し示す意味に、手のひらが緩み、力が抜けていく。
ここは喧噪から隔絶された現実の隙間だ。
時間の停滞があって、思い出の情景をそのまま額縁に取り込んだような場所だった。
海中時計を取り出してみても、結果は壁掛け時計とかわらず。つい数分まえの騒がしさから一転した空間に、私は吐息をこぼす。背後を振り返ってみると、教室後方の戸が開け放たれていた。
……すこし、校内を歩いてみようか。
鐘之宮高校から、なぜ鐘之宮中学へ飛ばされたのか。どうして時間が止まっているのか。疑問は絶えないけれど。
そんな風に考えて、そちらへ一歩、踏み出そうとしたときだった。
「――魔法使い?」
息を呑む。
低い、落ち着き払った声色。背中――窓側から撫でる風の動きに、固まってしまう。
ずっと求めていたものが、今、耳を刺激した。振り返って大丈夫なのだろうか。泡のように消えてしまったりしないだろうか。冷たいシーツの上で目覚めたりしないだろうか。どんな顔で向き合えばいいのだろうか。
葛藤ともちがう怖さが、今さらになってせり上がってくる。緊張とともに、教会での一瞬が脳裏をよぎっていた。
「――、」
胸に手を置き、自身の動悸を落ち着かせる。
それから、ゆっくりと、右足からつま先を翻す。怖さも緊張も抱きながら、目頭が熱くなるのを我慢しながら、眩しい夕陽に目を細めた。
「……。」
「…………。」
いつか、オプシディアンに例えた彼の瞳が、私を映していた。
光を背に、すこしだけ伸びた背丈でこちらを見下ろし。袖が捲られた右手の甲には、深い青色の絵の具跡。黒い髪が、つい数ヶ月まえ、数秒だけ刻んだ光景を想起させる。
教会のステンドグラスを割り、私を復活させた少年。
同時に命を燃やしてしまった、私の宝石。
大切ゆえに、幾度も、何度もウソを重ねてしまった相手が、ここにいる。視線を独占する驚いた表情がなんだか可笑しくて、彼にしてははっきりした感情で、それで、それで――。
「ハル、マ……」
震えた声で、そう呼ぶ。
記憶から呼び出した影法師でもない。過去の記憶でもない。正真正銘、私が求めた三上春間がそこにいる。押さえ込んだ心が、これでもかと熱を持つ。遠い場所に消えてしまい、それでもたぐり寄せた存在が、そこにいる。
いつの間にか、窓ガラスはあいていた。
風が入り込み、カーテンを揺らしていた。
互いの視線はまるではじめから定められたようにぶつかっていた。
服の
……なにを話せばいいんだろう?
目の前で彼がいなくなったあの日から、私はハルマの過ごした時間をできるかぎり辿った。もちろん、すべてとはいえない。理解と呼んでいいものかもわからない。
だけど、少なくとも感傷と後悔は知ったつもりだ。
日記の文字を指でなぞり、確信した。
『私』がもみ消してきた会話の数は、裏切りの数と同義である。その末、大事なことはなにも言わず消えたのだから弁明のしようがない。私は文字通り、置き去りにしたんだから。思い悩んだ彼の三年間は、私が与えた呪いそのものだった。
それだけに、なにを言ったらいいのかわからない。
感謝? 謝罪? それとももっと別の、他愛のないことから切り出すべき?
最適解はなくて、私は視線をさげた。葛藤は捨ててきたはずなのだけど、不甲斐なさに顔をしかめてしまう。
「感動のご対面、と思っていたのだけど?」
私の声音で放たれた、別の声。
弾かれたように顔を向けるハルマに対し、私は睨みを効かせた。
位置のズレた机に――『ガラスの魔女』が座っていた。
黒いケープに大きい魔女帽子が、夕陽に新たな影を落とす。投げ出された脚は、優雅にぶらぶら揺れている。床に転がる蒼矢サイダーとは別の、気泡を発する炭酸を傾けながら、彼女はダイヤカットを眺めていた。
また、独り言みたいにつぶやく。
「てっきり、出会い頭にハグでもするんじゃないかと思ってたわ」
自分をカタログに載せればこんな風にみえるのではないだろうか。校内を駆け回ったとは思えない装いだ。埃をつけていなければ服に穴も開けてもいない、あらゆる接触を阻みそうな雰囲気が、魔女にはあった。
涼しい顔が、ちらりと私たちへ視線を投げる。
「……あんたが居なければ、今ごろ抱きしめてたかもね」
そう毒づくと、魔女はおどけたように言う。
「わあ怖い。我ながらすごい執着ね。そう思わない? ハルマ」
ハルマをみる。
彼は気を引き締めた様子で返した。
「魔法使いはそういうやつだよ。俺はもう思い知っているし、受け入れてもいる」
「そ。嬉しいこと言ってくれるのね。私冥利に尽きるわ」
トン、と軽い足音で、魔女が飛び降りる。そして、一口炭酸を煽り、「ぷは」と余韻に浸った。
薄い瞳が、ハルマの足先から頭の天辺までを、舐めるように観察する。
「ガラスの魔女があなたに執着しているというのなら、私も例外じゃない。それはおわかり?」
「ああ……君は、俺が宝石によって想像した魔法使いだね?」
「解るのね」
「解るよ。いわば創作物さ、君の雰囲気を忘れるわけがない。俺は美術室で描いた絵を、しばらく覚えている人間だ」
「仰るとおり。私はあなたに想像された『魔法使い』。図らずも――いや、必然なのかしらね。再現された私は限りなく本物に近いニセモノとして生まれた。中身も、外見も、貴方に対する感情も、きっと見分けがつかないレベルで」
魔女が私を一瞥し、嘆息した。
今度は矛先がこちらへ向かう。
「みすぼらしい格好ね、『魔法使い』?」
気に入らない。気に入らないけれど、尊大な態度も口調もなにもかも、私そのものだ。
思わず笑いをこぼして、答える。
「こちとら会うのに必死だったんだから当然でしょ。そっちは綺麗すぎて人間味がないわ」
「あら、言うわね。でも彼の理想よ?」
――理想。
宝石騒動にて使われた魔法は、使用者の理想の姿を再現する魔法だった。つまり、当時の三上春間が望んだ姿として生まれたことになる。
たしかにハルマの理想とする魔女そのものだ。
……手のひらに目を落とす。握り込んでいたブルーローズの葉が、淡く光りを放っている。彼が私を復活させるために用いたアンカーであり、歩いた年月の結晶でもある。
私は視線を持ち上げ、不敵に告げる。
「その理想は、三年まえのものでしょう?」
魔女が、きょとんとする。
驚いた顔で、ハルマが私をみる。
それらに動じることもなく、私は真っ直ぐ見据えて答えた。
「今の私の方が、ハルマの隣に相応しい」
告げよう、この瞬間に。
「私は三上春間が好き」
晒そう。私のすべてを。
「魔女でなくてもいい」
解き放とう、隠してきた本心を。
「彼と添い遂げたい」
ブルーローズの葉が、とくん、と震える。それを手放し、代わりに懐からガラスペンを取り出した。
「――っ、魔法使い」
「……」
息を呑むハルマ。無言で目を細めるガラスの魔女。
私はペン先を『綺麗な自分』へ向けたまま、言い放つ。
自分を――否定する。
「『ガラスの魔女』。私はもう、あなたを捨てる」
魔法はいらない。奇跡なんか役にも立たない。現実をねじ曲げればねじ曲げるほど、人生がおかしくなっていく。失われるべきでないものばかりを消費して、私から時間を奪っていく。
だから、もう魔女なんてこれっきりだ。
この瞬間が最後だ。
しかし、その選択を許容できない存在がいた。それは私でもなければ、ガラスペンの矛先に立つ彼女でもなかった。
足音が、私たちの間にはいる。
「やめてくれ、魔法使い」
悲痛な表情で、立ち塞がるハルマ。背後の魔女を護る立ち位置で、私と向き合う。絞り出すように訴える彼に、思わずペン先が鈍った。
……木陰少年の言う『失敗』とは、やはりそういうことなのだろう。
心の傷みに耐えながら、
「どうしてよ」
「だめなんだよ」
「ダメって、なにが?」
「俺が許せない」
「……あなたは、背負いすぎよ。ハルマは何も悪くな、」
「俺の所為だろ」
あまりにも切なる感情をぶつけられ、私は黙り込む。
「俺が君にそういう選択をさせた。俺がそういう風に選ばせてしまった。もう解放されるべきだ、魔法使い。君は俺なんかに縛られちゃいけない」
「――ッ、絶対、イヤ」
だって、だってあんな現実、色味がなさすぎてどうにかなりそうで。
私ひとりじゃあ、きっと永くは保たないから。
だから。
「私はあなたを失いたくない。ずっと手元に置いておきたい。手の届く範囲に生きていたい!」
声が、自然と強くなってしまう。
「好きなの、ハルマ。あなたが思う以上に、魔法使いは貴方に入れ込んでるの!」
教会で再会したあのとき、すべてを理解した。自身の抱く感情を受け入れた。素直になろうと誓った。
「私を好きだと言ってくれて、嬉しかった! これ以上ないくらい胸が弾んで、喜びで満ちあふれて、何かもう、どうにかなりそうで――哀しかった!」
あんな再会は、もう御免だ。
「だからッ――私は『魔女』をやめるッ!」
「魔法使いは!」
「――、」
「魔法使いは、全部が綺麗だった。立ち振る舞いも、生き方も、そして扱う魔法も。残酷な凶器であることを忘れさせるくらいに目を奪う魔法で、俺の現実を色付けてくれた。魔法使いが顔を歪めてしまうような使い方はしてほしくないんだよ。そんなことをさせてしまったら、きっと俺は、」
「それでもっ」
ペン先をさげる。
ハルマの右辺りの空間へ向け、横に払った。
「ぐっ!?」
ぐい、とハルマの身体が吹っ飛ぶ。窓側の机に背中からぶつかり、ガシャ、というけたたましい音と、苦悶の声が耳に届いた。罪悪感に襲われ、それでも意思は曲げない。すこしくらい痛めつけてでも、手に入れたくて。
唇を噛み、訴える。
「私はちゃんと、あなたに名前を告げたい!」
「魔法、使い」
「ちゃんと互いの響きを交換しあって、ちゃんと足跡の残る時間を重ねて、ちゃんと順序を追ってあなたのとなりに立ちたい! もう感情を隠したくない!」
告白に、ハルマが呆気にとられる。私を見あげて、言葉を失っていた。
と、今度は沈黙を保っていた魔女が指を振った。
「な、」
カーテンが破かれる。布地は意思をもったように、しゅるりと彼の手足を縛り上げた。
ガラスの魔女が、申し訳なさそうに、けれど確かな強さを秘めた微笑を浮かべる。根底にある、心配させまいという感情が、こちらの私にも伝わってくる。
ああ、あなたは間違いなく、私だ。
「待て、魔法つか――」
ガラスペンを握りなおす。
自然と、自分と向き合っていた。
魔女の悟ったような瞳が、私をみつめていた。行動の意味を理解してか、受け入れるように手をひろげた。魔女帽子の下、夜色の瞳が決意した顔を映し出す。
「やめてくれ」
時計の針は進まない。伸びた影は長さを変えず、流れ込む微風が互いの髪を揺らす。
「わたしがもらう」
日記に刻んだ文字と一字一句同じ言葉を、魔女が告げる。
どう返すのが正解だろうか。頭の隅で密かに考えていた。
私なら、どんな風に答えるかな。記憶を検索しても、誰かと取り合ったことがないからわからないや。
でも、遠慮はきっと必要ない。躊躇わず、断固たる意思で示せばいい。そのためにあらゆる選択肢を無視して、ハルマの犠牲すらも受け入れて、この未来を選びとったのだから。
なら、こう答えるのが正解だろう。
「だれにも渡さない」
魔女帽子の下、口元が笑みを深める。まるで最初から知っていたかのような反応を最後に、私は息を止めた。
ペン先を引き、身を屈め、脚を踏み出す。
魔法は必要ない。余計な動作をすべて省き、ガラスの魔女に肉薄する。わずかな葛藤を否定して、ハルマの声を否定して、ナイフを突き刺すように。
躊躇を噛み殺す。ぐ、と苦みを覚え、内心でごめんと謝罪する。
時間のながれがゆったりとする。
静かな教室、夕陽を反射した切っ先が、
ずぶり、と――生々しい感触を、腕に伝えた。
◇◇◇
視界一面の夜に、星々が散りばめられている。
この光景をジグソーパズルに印刷してみたら、星の瞬きがプリントされないピースはないだろう。紺色の背景と星だけの何千、何万の図面――きっと埋めるのは一苦労だ。
けれど、この時間を再現できるのであれば、私は何年かけても完成させるだろう。
無人の屋上。星座もわからず、これといった知識もない。でも、ハルマと並んで寝転がり、他愛もない会話に胸を弾ませるだけで十分だった。穏やかで、満ち足りた時間を享受できた。
「……俺は、別れるだけでも辛い」
ふと、ハルマが本心をこぼした。
柄にもなく弱気な口ぶりで、それが温度の込められた本心に聞こえて、思わず傍らをみやった。
彼は一瞬だけ私の顔を眺めて、空に向きなおる。いつもの読みにくい表情に、すこしだけ陰が落ちてみえた。
「なら……約束」
「約束?」
気づくと、私はそう切り出していた。
ノート越しに釘を刺されたことだとか、冒険心に似た感覚で接する危険性とか、そういう思考を切り捨てていた。
綺麗で澄んだ呪いの響きを、口にしてしまっていた。
「いつか、私とあなたの間にあるガラスを割って」
再度、こちらをみつめるハルマ。夜とは異なる、落ち着く色の瞳が私を映す。
変わり映えのない、端正な顔立ち。現実を等しい高さで見通し、俯瞰するかのように測る視線。それが、私だけに占められている。こちらの内面を奥底まで読み取られるようで、正体不明の高揚が胸を締め付ける。
この崩れかけの身体を、人生を支配してもらえるのなら、どんなに満たされるだろう。そんな未来は、きっと幸せに違いない。
ハルマと見つめあったまま、時間が過ぎていく。
星々は瞬きをやめず、とある夜は流れていく。
「……。」
「…………。」
真っ直ぐすぎた? あるいは解りにくい表現だっただろうか。でもまぁいいか。本質を伝え過ぎれば、きっと彼は先走ってしまうもの。
――やがて。
私の些細な懸念を、彼はシンプルかつ奥深い音程で、想いを受け入れてくれた。
「ああ、いつか」
◇◇◇
人は、他人の走馬灯でもみることがあるのだろうか。
そんな馬鹿げた疑問を抱き、即座に否定する。
瞬時に脳内で再生され、気づけば夢よりもあっさり消えてしまった光景。声だけは残響のごとく残されていて、私は目を白黒させる。
突きだした腕は、体温に触れていた。
物心ついたころからずっと意識する機会もなかった、ありきたりで気づかないものを今さら感じていた。
「――、……は」
違和感があった。
ガラスを刺した身体は、ガラスの魔女よりも大きく、重みがあった。硬くて、儚さをもっていなかった。鼻先に絵の具特有の残り香がかすめて、ふわりと私の肩に手が置かれた。ニセモノの私に比べれば生命力に溢れていた。ニセモノの私よりも急激に、呼吸が薄くなっていった。
なにより変なのは。
「……? え、」
肩越しに困惑した顔をしている、ガラスの魔女だった。
どう、なっている?
じわり、温かさが広まっていく。私の腕に伝わっていく。
間違いなく刺した。それは間違いない。でも見え方がおかしい。刺したはずのガラスの魔女はモノサシほどの距離をおいて、衝撃を受けている。なら、私のガラスを受けたのはだれ?
「――、ぅ、がふっ」
声が、耳の近くで苦痛を訴えた。
見あげて、背筋が凍る。
口の端から血を吐き、力なく笑っているハルマがいた。
「――、ぁ、……あ、」
手元。押し込んだ彼のシャツに目を落とす。
真っ赤に染め上げられたソレが絵の具でないことは明らかだった。
がっちりと岩のようになってしまった腕を、解く。ただでさえ少ない風の音、密着して聞こえる衣擦れの音。それらが一気に遠ざかり、目眩に襲われる。
「なん、で、うそ……ちがう、」
よろけながら、ハルマから離れた。
木目の床に、赤色がぱたぱたと落ちる。夕陽はその色にかき消されるように、明るさを潜めていく。紫紺の気配を混ぜていく。
うずくまり、背中を丸める彼に、頭が真っ白になった。
魔法で拘束されたはず、と窓際の方をみると、カーテンは力任せに破かれていた。
視線を戻せば、
「ハルマ、ハルマッ――! 血が、」
叫びながら声をかけるもうひとりの私。刺されたガラスペンに手をかざして、でもなにもできなくて、混乱している。
彼女にわからないことは、私にもわからない。
傷口を塞ぐ魔法なんて、使ったことがない。まして、どうしていいのかすら浮かばない。汗を浮かべる彼を前にして、為すすべがない。ただカタカタと、染まった自身の腕を震わせることしかできない。
――『君は、失敗する。それがどんな計画だろうと』
木陰少年の勘は、正解だったらしい。
『命の総数マイナス一』。
運命とやらが定めた、世界の人口から魔女の命がひとつ減った状態。それが正しく、正常な状態。私がこの場所ですべきことは、この世界でもう一人の自分、つまり『ガラスの魔女』を殺すことだった。
ここは現実からほど遠いが、完全な非現実というわけでもない。命がカウントされているのであれば、ニセモノの私であろうとひとつの命だ。
今、世界はひとり分の命が多い状態にある。『命の総数マイナス一』より、ひとつ多い。そこから魔女の命を差し引く必要がある。
ハルマが創造した魔女が正しく魔女と認定されているのであれば、そいつを消せば、きっと運命だろうと神さまだろうと騙すことができる。
ふたり居ようと、魔女は魔女。
魔女が死んだのなら、『命の総数マイナス一』という条件はクリアされる。
刺されて死ぬのであれば、ニセモノの私でも、最悪、私自身でもよかった。
……でも、一番刺されてはならない彼が死んだら?
彼の傍にへたり込む。
怒った顔で、哀しい顔で、彼に問いかけた。
「どうして、こんなことしたの」
彼は震える声で、口を開いた。
ニセモノの私に支えられ、苦しげに笑いながら。理解できない。
「なぜ、って……? は、はは、やっぱ俺、勝ち目、ない、のかなあ。げほっ」
呻いて、血をこぼす。
床に広がって、私の服が浸されていく。身体が冷たくなっていく。
「だって、どっちも『魔法使い』だから……俺にとっては、君も、ニセモノも、大切、な、」
「――、バカ」
本当に、バカだ。
救いようのない、魔女好しだ。
「あなたはいつも私ばっかり優先で、自分のことは後回しで――なんでそうなのっ? もっと自分を勘定にいれてよ、私だけじゃなくて、あなたも生きてる未来を望んでよ……!」
「ごめ、ん」
「ッ、」
思わず殴りそうになって、留まった。
――だってそれは。私が何度も彼を傷つけてきた言葉だ。
こんなにも、痛い言葉だったのか。こんなにも、刺さる響きだったのか。
「ぅぐ……バカぁ」
苦しげに、耐えた。でも無理だった。血とはまた別の熱さが目元からこぼれてしまって、袖で拭った。それでも、倒れた彼の服に染みをつくった。
「良い。これで君は、現実で、完全な人として、生きていける。犠牲がこの身だけなら、安い……、――」
「ハルマ……? やだ、だめ、眠らないで!」
目を閉じる彼に、血の気が引く。
慌てて懐を漁った。
魔女帽子がない今、手元にあるのは――
「ビー玉……」
水色の、予備の一粒。
「どうするの?」
もうひとりの私が、私に問う。
すぅ、と息を吸い、はぁ、と吐き出す。
こんな魔法は、使ったことがない。イメージだけで成功するかもわからない。でも、ひとつだけ解決策がある。
「ハルマ」
返事がない。
「ハルマッ」
返事は、ない。
目を閉じた彼に、私は話しかけ続けた。それでも、反応はなかった。
「あなた、まだ私のこと、好きでいてくれるっ?」
「魔法使い、ハルマはもう、」
「うるさいッ!! あんたは黙ってて! お願い、応えて、ハルマ」
胸元を掴む。
そっと顔を寄せる。呼吸もない。耳を当てる。鼓動はわずかしかない。
「ハルマ、ねえッ」
肩を揺らしても起きてくれない。まだやりたいことがたくさんある。現実に帰って、再開しなければならないことが山ほどある。
だからお願い、死なないで。
「――、ッ」
私はビー玉を口に含む。
夜がやってくる。
灯火が消える。静かに、音もなく、私以外のだれにも知られることなく、消えていく。その命に、私は手を伸ばすように引き寄せる。
眠ってしまったのなら、いい。
応えてくれないのなら、こっちから引き出してやる。
「――ハルマ」
過ぎた特別はいらない。些細な特別だけでいい。
魔法……超常の異能なんて呪いでしかなく、ヒトにはきっと扱いきれない。
万能感はまやかしだ。優越感はみせかけだ。
だから、私は必要なものだけを欲する。本当に大事なモノだけに手を伸ばすと決めた。
だからどうか、届きますように。
この際神さまでもひねくれ者の運命でもいい。間に合いますように。
そう祈りを捧げ、私は
残酷で綺麗な魔法。
傍からみれば、それは魔法でもなんでもない。もはや、この光景はだれも見ない。
私という存在だけが記憶に刻む、透明な一幕。
私は私を否定する。
どこまでもひたむきに、彼の遺した未来を拒む。
――だって、そこにあなたがいないのなら、本当に透明じゃない。
指を頬に添えて、身を乗り出した。
無音。
だれもいない教室。
忘れ去られた隙間時間に。
私は目を閉じた彼と唇を重ね――ビー玉を、飲ませた。
「……。」
立ちあがり、見あげた魔女に手のひらを向ける。
迷わない。迷えない。
私は真っ直ぐに、影法師を見据える。
数秒の沈黙。
ぴしり、と異音が響く。ブルーローズの葉が砕け散る。
パキ、パキン――!
継いで、木目の床、低い天井。夕陽の色を夜にかえていく、透明なスクリーン。あらゆるものが割れゆく。急激に傾いていく影の身長も。明暗が創りあげる幻想の絵画も。
さながら崩れ去る万華鏡のように破片は剥がれ落ち、足下で弾けていく。
魔法が役目を終えていく。
ひび割れていく教室のど真ん中。
ガラスの魔女はとても哀しそうな顔で――笑った。
「さようなら、魔法使い」
熱い目元。
見据えた視線の先で、魔女帽子は切り裂かれた。
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