4-2
走っていた。
並んだ窓。
包まれた夜闇は光を余すことなく飲み込み、異なる色彩を塗りたくる。
斜めに差し込んだ月光が、不自然な顔を覗かせる。行く先の様相をオーロラめいた空気で照らし出す。
木目のワックスを、靴裏がきゅっと鳴らす。履き替えることももどかしい。私は土足で校舎に踏み込んで、静寂のなかを駆けていた。
瞬く間に、幻想が過ぎていく。視界は変わらず夜で、しかし私の知らない夜だ。
並ぶ窓ガラスがひび割れている。
つい数刻まえ、もうひとりが放った『星空の魔法』が染み出してくる。刻一刻と過ぎるたび、世界は現実から離れていく。
「……はっ、……はっ、」
脚を運び続ける。
なんども踏み出して、重々しい四肢を奮い立たせた。
チラリと横目を向ければ、引き込むような
目を奪われるほどの絶景だけれど、それはどこか底なし沼を思わせた。
……その表現は間違っていない。
首にさげたブルーローズが共鳴していた。
おいで、おいで、とヒトを呼び寄せる。嵐の前触れを示す森のように騒ぎはじめる。そいつをぴん、と指ではじいて、黙らせた。
私はよそ見をやめた。
異様に長い廊下、窓ガラスたちの反対側、教室の口々に、走りながら手をかざす。
「──ッ、」
ぐん、と血が抜かれるような感覚がした。一瞬の眩みを、重い一歩で誤魔化す。
次の瞬間、キン、と空気に凍えるような気配が走り抜ける。
壁伝いに魔法が滑った。
走る私を追い抜くように、扉が開け放たれていく。ガタン、ガタンッ! という音を立てて、次々と。さながらドミノのごとく、扉は風を廊下へ吐き出しはじめた。
開け放たれた教室はなんの教室?
知らないわ。
その向こうに欲しいものなんてあるの?
わからないわ。
でも、地道に確かめるしかない。魔法の捻くれ具合にはつくづく辟易してしまう。
そう心の中で吐き捨てて、私は目についたひとつを睨んだ。人影がよぎり、思わず脚をとめた。
朝の日差しが漏れている。オーロラの夜を差し込むガラスとは異なる、現実の情景が覗いている。
真夏、歩く私。狭い壁、屋根はそこになく、日差しが
着慣れた服で、ゆったりとした足取りの『私』。数秒をつかって、入り口からその光景を眺めた。
しかし、すぐさま目を背ける。
傍らに立つ彼の居場所が、黒いモヤに置き換わっていた。ぽっかりと空けた空白に泥を詰め込んだみたいだった。
──ここには、いない。
また、走り出す。
ひとつ、ひとつ。教室を流し目にみていく。
となりの教室。喫茶店でカップを傾ける『私』。雨音を壁越しに感じ、天井へ立ち昇らせた湯気を受けている。向かいに座る空白を除けば、すべてが懐かしき時間そのものだった。
さらにとなりの教室。
バスに揺られる背中があった。背もたれに預け、黒い魔女帽子が船を漕ぐ。曇り空も鮮やかにみえるほどの
魔女の髪が影に触れるよりもはやく、私は
俯瞰する情景は、どれもが不完全だった。
どの景色も、肝心なだれかが塗りつぶされていた。
それらは、運命とやらが決めつけた正しい現実なのかもしれない。すべての人間が『三上春間』を忘れ去り、記憶を探ってもノイズの塊でしか思い出せず、やがて忘れていることすらも忘れる、そんな現実。
許容できるものか。
「……っ、は、……っ、──!」
認めない。私は認めない。
皆が忘れるのはいい。世界から存在ごとなかったことにされてもいい。でも、私だけは忘れてやらない。
胸を焦がした隙間時間は、死ぬまで持っていってやる。
心臓が悲鳴をあげる。
魔法でも誤魔化せないほどに溜まってきた疲労を押し殺し、走った。
と、そのとき。
「──ッ!?」
突然、目の前に何かが飛び出してきた。
びたん! と窓側の壁に衝突したそいつを見て、驚きに目を見開く。
続く廊下を本能のままに疾駆していた私は、足をもつれさせそうになりながら急停止した。
どくん、どくん、と騒がしい心臓音。
聴覚を支配していたソレに、
『ゔ、……、』
うめき声が混じった。黒いカーディガンが雑巾のように破れている。
「……、……これは、」
私。ガラスの魔女。
けれど、こんなボロボロにされる記憶なんて──
『……ぁ……ル、──ま、』
いや、ある。
くだらない理由で突っかかってきた女どもがいた。ここまでひどくはなかったが、それなりに目障りな存在がたしかに居た。
『……す、けて』
俯いたまま、魔女が床を這いはじめた。
光を探し求めて、血の滲んだ指が誰かへ手を伸ばして。
教室にもどろうとする彼女は、扉の枠を越えた途端、
『──ぁ、』
二人の影どもに、引き摺り込まれた。
血の気が引いていく。
開け放たれた扉の向こうは、教室の広さを失っている。暗い、光の届かないコンクリの檻。
奥で、生々しい音で踏まれ続ける魔女がいた。水中で発したみたいな、醜い罵声を浴びながら。
「ッ、!」
ぎり、と歯を食いしばる。
現実は、ここまで酷いことをするのか。
ありもしない光景、それも吐き気を催すほどの。
指を向けた。
怒りにも似た感情が爆発し、ただ「消えろ」と念じた。
目の前の光景が瞬く間に消え去る。霧を晴らすみたく、風が吹き──気づけばそこは、空虚な空き教室へ置き換わっていた。
机や椅子が倒れた、身知らぬ教室だった。バサバサと揺れるカーテンの隙間から、ガラスの空の色がみえるだけ。
「……もういい」
無我夢中で走った。
教室のことごとくを消し去っていく。視界に入る光景は、もはや私の記憶でも人生でもなんでもない。有り得ざる空想、演劇。
「もう……うんざりだッ」
何も考えたくなかった。
どうなってもいいとさえ思った。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
指をふる。
母親らしき影と寄り添うイフを消す。
「ッ、はっ……はっ……く、はぁっ……、!」
指をふる。
彼の喪失を受け入れ、普通の学生として生きる自分を消す。
吹き飛ばし、消し去り、手にかける。片手間に片付けていく。現実から遠ざかり、より非現実に埋もれていくというのは、つまりこういう世界なのだ。
考えればわかること。
教室のひとつひとつを覗いては潰して、私は痛む喉で酸素を肺へ。鉛のように重い脚にムチを打ち、走る。
ここにハルマはいない。
まだ足りないのか。
まだ非現実に浸りきっていないのか。
──きみの魔法は綺麗だ。
いつか、そう言って笑った声が、まだ風化していない。
「なら、どうだって、いいじゃない──!」
そうだ。どうだっていい。
奮い立てる。
こんなものは幻だ。私にとっての現実はひとつだけだ。
──覚悟を決めなさい。
覚悟なんてとっくにできてる。私は彼と出会った瞬間から、ずっと覚悟を決めていた。
見ていろ、ガラスの魔女。
瞳に刻め、この生き様を。
言われなくたって、私は……!
割ってやる。
全部。すべて。ことごとく。
『死』というガラスを、余すことなく。
躊躇なく。遠慮なく。際限なく――!
指をふる。
教会でうずくまり、泣き叫ぶ私を消し去る。
それでも鼓動は収まらない。
汗をながし、ひたすら走る。
差し向けた手のひらから躊躇いが抜けていく。
踏み出す一歩に力がはいる。
ただ一心不乱に巡っていく。
二階への階段を駆け上がり、再び教室をめぐる。
扉を開け放ち、これは違う、これも違うと振り払っていく。
高さの変わった世界は、もはや地上も天上もない。ガラスの空模様に見下ろされながら、使命を胸に壊していくのみ。
近くでガラスの割れる音が響いた。反響して、校内にけたたましい爆発音を繰り返し、繰り返し。だいたいの予想はついている。さほど気にもしていない。
前方の十字路へさしかかり、ちょうど音の主とすれ違う。
トン、と一瞬。
余分な感情を脱ぎ捨てた意識は、時を緩める。
もうひとりの魔女が、すれ違いざまに私を一瞥していた。
「──、」
「ッ、──、」
魔女はすこしも疲れているようには見えなかった。ふ、と微かな笑いを残して、颯爽と反対側の廊下へ走っていく。私と同じだけ走っているのだとしたら、相当な体力だ。人間じゃない。
それを証明するかのように、彼女は驚きの手段をとっていた。
カシャァアアンッッ──、耳をつんざく破裂音。
廊下のガラスもろとも割って、指揮する指。
破片の雨は教室の壁を豆腐のように引き裂いて、奥の情景をまるごと八つ裂きにしていく。
スムーズ、かつ大胆。中を確認することもなく、ただ情景を消していく。
「……ハ、」
絶句。そして笑う。
──まったく。
けれど、たしかに効率的なやり方だ。魔女らしい、私らしい手法だ。ハルマからみた魔法使いは、そういうヤツなんだろう。
なら、私もそれに準ずるまで。
『三上春間』は魔法に耐性を持っている。記憶を消すくらいしか、彼には通じない。抗体、あるいは耐久性。私は……いえ、私たちは、それを逆手にとった方法を講じよう。
こんな思考になるなんて、やはり私はネジがどこか外れているのかもしれない。
けれどそんな自分さえも、ハルマなら受け入れてくれる自信があった。
たとえどんなに汚れても、綺麗さから撃ち落とされても、彼だけは認めてくれるのだと知っている。歩んだ短き人生が物語っている。
なら、この恐怖も捨てていい。
何も考えなくていい。
当たって砕ければいい。
再び、走った。
無機質な絶叫を耳にして、こちらも呼応するように、窓ガラスを割っていく。呼吸ひとつに魂を込めて、意志を強固に。
空間は非現実的に壊れていく。歪んでいく。
不安定になっていく。
でなければ、あの人を取り戻すなんて夢のまた夢なのだ。どこかでそう囁いてくる。
「──、──ッ、」
高めろ。
走れ。
止まるな。
心臓がいたい。
魔法があるだろう?
ああ、楽になった。
帽子が落ちる。
気にしていられない。
手を伸ばせ。
探しだせ。
すべて幻だ。
「ハァ、」
ハルマ。
会いたい。
喉がちぎれそうだ。
呼吸がいたい。
誤魔化すことは得意だ。
ブルーローズが光り出す。
どこかを目指し。
転んでも走れ。
巡れ。
あらゆるガラスを割って。
割って、割って、割って。
昇って、走って、昇って、走って。
「ハ、ァッ……! ァ……! げほっ、ゔっ……、ハァ、……ッ」
かつて、こんなに走ったことがあるだろうか。四肢を酷使したことがあっただろうか。
焼けるような思考は、記憶すら曖昧にさせる。
窓の外に向かって、ガラスペンを振るう。
ガラスの空。
星が反応を示す。
魔女が覆った夜の魔法は、雲を晴らし、星々を散らす魔法。ガラス片の集合体で模した、あの日の天体を飾った空。記憶を瞬きに詰め込んだ幻想の天井。そのヴェールを突き破って、一粒一粒を地に招き落とす。
それができるのは、この場では私だけ。
──私は魔女。ガラスの魔女。
息切れで言葉は発せられない。
──名も知らぬ星座よ、届く高さへ。
途切れ途切れの意識を強引に繋ぎ止め、文言を思い浮かべる。
腕を持ち上げる。
掠れた目で空を睨む。
──塗られた夜よ、帳を下ろせ。
「はぁっ……、ハ、……ァ……かは、ッ!」
──『花火の雨』。
一瞬、息が詰まった。身体の奥から体力と一緒に大きな力が抜き取られる。生命力にも例えられるなにかが、ごっそりと空間へ放たれた。呼吸の気力すらもが
ああ、だけど魔法は放たれた。
曲がり角、勢いを殺しきれず、転ぶように壁に激突。それでも起き上がって、手のひらをかざす。並ぶ一直線の教室が、一斉に扉を開放する。ダンッ! という音が連なる。直後、立ち上がった私の視界に、光が迫った。
壊せ。
砕け。
割ってしまえ。
窓ガラスの向こう側に、盛大な花火が爆発した。
ドォン──! と、弾けて、それを合図にまた走り出す。次の曲がり角を見据えた。
息を切らす私の視界を埋め尽くしていくのは、線を描く流星の雨だった。
雨よりも細く、雨よりも重く、雨よりも匂いがしない。
光の粒は幾つもの光を放ち、折り重なって、落ちてくる。そのどれもが地表ちかくで破裂し、いくつもの盛大な花火と散る。
世界が振動する。何度も、幾重にもドォン、パァンッなんて騒ぎ出す。衝撃は窓ガラスの枠を震わせ、ことごとくを吹き飛ばす。破片の雨は廊下を横切り、教室の情景を破かれる紙のように裂いていった。
本日の天気はガラスときどき花火。隕石と見まごう衝突に注意されたし。
「は、ハッ、はぁッ……! は、あはっ、はぁ、ハァ、ハァ……!」
弾けた洪水のなかを、ひた走る。
清々しさに笑いすらこぼして、一直線に走っていく。気がおかしくなるほどに、身体を燃やしていた。
彼の影だけを追って。
探して。
求めて。
廊下は煌めきが飛び交い、逆光を反射して、
それでもなお、私は走って、振り絞って、名前を呼んだ。
「はぁっ……ハルマ──ッ!!」
直後。
ブルーローズの葉が放つ、
微かな共鳴を耳にした。
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