終章 ガラスの空

4-1

 私の知らない時間に、身体を浸していく。

 空の色は同じはずなのに、数秒まえとは明らかに異なっていた。肌を撫でる微風は秋の気配を忘れさせ、暖かさを与えていた。季節違いの風にスカートや前髪がなびく。

 一瞬、そこがどこかわからなくなった。

 しかし周囲を見渡し、明かりの消えた校舎が目に入る。足下に目を凝らせば、靴裏に砂利じゃりの感触。そこで初めて、自分が校庭のど真ん中に立っていると気付いた。

 ああ、そうだ。

 私はこの鐘之宮高校へ踏み込んで──ならばここは、もう風鈴の中なのだろうか。

 視線を校舎から外す。立ち並ぶ外灯は眠りについている。広いグラウンドを見下ろす塔、そのひとつを見上げてみれは、闇に慣れた目が、消えた電球の群れをとらえた。

 割れている。

 強い光量をもたらすであろう文明の集まりが、ひとつ残らず壊されている。直しようもないひびを刻んでいる。

 空に見える月が、淡く地表を照らしていた。

 流れる雲の隙間から、穏やかに。


 しかし、漂う空気は鳥肌をよび起こす。

 秋の夜ほど冷たくはない。それほど乾燥しているわけでもない。刺すような視線を感じているわけでもない。

 私は夜空に目を細めながら、正体を悟った。

 その気配は、見知ったものだ。

 幾度となく繰り返した、魔法の行使。その度、胸に迫る正体不明の動悸。緊張にも似た感覚は、いつも瞬間的に高まって、引く波のごとく凪いでいく。

 けれど、大きな規模となればこうもなろう。




「まったく、救いようのないお人好しなんだから」





 私の声色で、誰かがそうつぶやいた。


「──、ッ」


 私は背後を振り返り、言葉を失う。

 くぐもっていた環境音が、一気に流れ込んできた。身体が空間に馴染んだのだろうか、静かな夜を荒らす破砕の音がすべてを満たした。


 ガラスが割れる。

 ありとあらゆる、ガラスが音を立てる。

 後背に聳える校舎の壁。ひび割れ、瞬く間にバキン、バキンと弾け、規則的に嵌められた数々の窓からけたたましい破裂が飛び出す。

 響いて、砕いて、空気を裂いて。

 ヒトに捉えられる世界のすべて。かけられたヴェールを打ち破り、瞬間的に世界を彩る、透明な破片たち。

 私は目を見開いたまま、固まっていた。

 原型を失っていくガラスなどそっちのけで、視線が一点に引き留められていた。

 

 ――ガラスの雨を背に、手を繋いだふたりの人影。


 あまりにも儚い、私の知らない再会の後ろ姿。

 痛い。

 とても、痛い。

 鳥肌が立つ。鼓動が騒がしくて、異常なほど切なく叫ぶ。

 そんな風にみえているの? 私たちは。それ程までに完成されているの? ガラスの魔女は。

 その在り方はすべてを俯瞰の位置へと押しやってしまう。この感情をどう言い表せば良いのかわからない。ただただ、置いていかれる恐怖に駆られる。



「でも、それでいい。それが──いい」



 傍らの魔女を一瞥して、彼が空をみあげる。

 あの日、教会で私を復活させた彼とそう変わらない。私よりもすこしだけ大人になって、けれどやっぱり一途に想ってくれていた彼だ。

 だけどその横顔は、本物の私を捉えない。目もくれない。

 だってこれは景色だから。かつての情景だから。


「──ぐ、」


 胸が締めつけられる。

 思わずぎゅ、と拳を押しつけて、私は堪えていた。すこしだけ前屈みになって、でも帽子越しに彼だけを見つめ続けて。

 こっちをみてよ。

 私をみてよ。

 そんなニセモノに縋らないでよ。

 湧き出る感情の色を、黒と決めつける。心の底から妬んでおきながら、そんな自分に嫌悪する。

 ……わかってる。彼はニセモノを否定する。それは日記でも読んだ結末で、定められた過去の足跡で。しかしわかっていても、心は苦しみを訴えた。

 きりきりと、目の前の光景に傷ついてしまう。

 やっぱり、純粋な愛なんか、私は持ち合わせていない。彼には幸せでいてほしい。だけど私のモノであってほしい感情ももちろんあって、だからこんなに痛む。

 迫り上がる苦味を呑み込んで、私は視線の高さを戻した。変わらず胸の痛みは抑えつけたまま。


 ガラスの破片たちが、色彩を放つ。

 指を振ったもう一人の私は、ガラスをあるべき姿へ戻していく。その過程で、浮かび上がった残光が鮮やかに空気に伝わる。

 本物わたしの気も知らないで。


「ごめんね」


 私でない私が、そう言った。


「これしか、方法がなかったんだろ」


 ハルマがとなりの魔女を赦した。

 私は泣きそうになりながら、手のひらを握り込んだ。哀しいかな、彼が生み出した『魔法使い』はとんでもなく精密だ。

 輪郭──帽子のシワひとつとっても同じもの。

 声色──周波数はきっと重なる。

 心──忠実すぎる再現性。

 そこまでいくと、もはや本物だとか偽物だとか、どうでもよくなってくる。復活とは違うけれど、ハルマは間違いなく再会していたのだと、今ならわかる。解ってしまう。


「……ねぇ。あなたからみて、私はホンモノ?」


 歌うように、あるいは奏でるように。ニセモノが問いをこぼす。

 あまりにも澄んだ調べに、彼は悔しげに答える。


「ニセモノだよ。俺は君を、忠実に再現できなかった」

「……そう」


 震えを抑えた声。痛ましい。傷ましい。

 彼にそんな顔をさせておきながら、もうひとりの私はくすりと笑った。回答に満足した様子だった。

 空を仰ぐ魔女。目を閉じ、微風を感じる横顔が笑みを浮かべている。


「手厳しい。でも、それでいい」


 そして、薄っすらと瞼をあけた。

 満天とは程遠い空を見上げ、彼女の服を風が揺らしていく。


「──、」


 ……信じられない。


 絶句する。唖然とする。戦慄する。

 おもむろに片腕を挙げて、す、とスライドさせたニセモノに、私は言葉を失っていた。月と星を覆い隠す天へ向けて何かをして、何事もなかったかのように振る舞う自分を、睨んでしまう。

 手は繋いだまま、ハルマと向き合う魔法使いの影法師。しかし、そんなものよりはるかに衝撃的な魔法がそらを渦巻いている。

 魔女の、夜より夜の色を宿した瞳が、真っ直ぐな光を放つ。彼の視線を独り占めして、すべてを呑み込まんとする。

 その危険性に、私だけが気づいていた。


「ニセモノの言葉なんて銅貨ほどの価値もないけど。それでも私、感謝してる。……ありがと。こんな私を求めてくれて」


 声が、甘く囁く。

 私は暗い夜空から逸らせない。

 魔法は目に見えず、侵食していく。

 あらゆる色彩に夜を。

 あらゆる存在に魔女を。

 あらゆる時間に永遠を。


「『こんな』とか、そんなのは……主観だから言えるんだ」

「あは、そうね。この数年で、自己評価が地に落ちたのかもね」


 ウソでしょ……?

 思わず胸中で毒突く。囁くように、でも確かにカタチを残す会話が空気に流されていく。

 決して許容してはならない非現実が、雲の向こうに広がっていく。


「……ッ、まさか、あなた……!」


 傍観者を貫くのも限界だった。

 どくん、どくんと勢いを増す危機感が、私の視線を地表に引き落とす。すべての元凶に向けられる。

 目的を探し、細い可能性を探り、もしかしたら、と嫌な予感だけが残る。

 『ガラスの魔女』の告白は、視線のさきで、そっと吐露された。




「私、あなたのこと、好きよ」




 言葉を失った気配は、私のものだろうか。それとも、ハルマのものだっただろうか。

 どうだっていい。私よりも先に告げた彼女が許せない。こんなの想定外すぎる。

 ニセモノ。いや、ガラスの魔女の瞳が、嬉しそうに細められた。祝福を一身に受けるかのごとく、この瞬間のすべてを堪能していた。

 一瞬、本当に一瞬だけ私を捉えたのを、見逃さなかった。


「……あなた……!」


 その目がなにを語っているのか、手に取るようにわかる。わかってしまう。


 ──『わたしがもらう。』


 いつか文字でみた一言が、脳裏をよぎる。


「証明してあげる」


 魔女は高らかに告げて、彼の腕を引き寄せた。

 私の立つ場所だけが、月の光に避けられているような錯覚が襲う。


「あなたはガラスの魔女を復活させる」


 顔を近づけて、見上げた空。

 雲に覆われた夜の色を、彼女の魔法が晴らしていく。

 嗚呼、なんて皮肉。

 そこまで結末がわかっていながら。私がここにいると知りながら選んだ口調だ。

 ――私を復活させる?

 それってつまり、ハルマが犠牲になるってことじゃない。

 ぎり、と奥歯を噛み締めて、地面に目を落とした。顔を俯かせた。暗い足下が、底なし沼となる。立っているつま先すら見失いそうで、私の心は暗雲に満ちていく。

 ……置いていかれるのは、こわい。

 ハルマ。

 私はいつだって、あなたのために生きてきた。あなたと共有する一秒が愛おしくて仕方がなくて、そのためだけに毎日を生きた。怖い朝を幾度も迎えられた。

 ちゃり、と。

 視界でなにかが揺れる。淡い緑色をした破片が、弱々しく光を反射していた。


 ……。


 ハルマ。


 …………。


 ハルマ。



 目を閉じる。




 いつかの横顔が思い出せる。

 果てのない星空を見あげていた。どれもが私の知らない星座だった。




「──、……そう」


 ざわりと、背筋が震えを伝播させる。それも束の間、すぐに冷たさに浸される。慣れ親しんだ、迷いなき温度。

 軽く。

 弱く。

 跳ねるように。


「まぁ、そういうやつよね、私って」


 独り言。

 だれに届くわけもないただの呟き。


 ……しかし、ふと、彼女ニセモノの笑みが途切れた気がした。


 よく知っている。自分相手だろうと譲らない。そういうやつよ、私は。そして、ことハルマに関して言えば油断も残さない性格だということも自覚している。

 なら、乗ってやろうじゃない。

 それが、ここでの正攻法なのでしょう? 加減を謝ればすべて台無し、そうでもしなきゃハルマを助け出せないのでしょう?

 なら、選択肢は決まっている。

 冷たく、視線を持ち上げる。

 足の指に感触がもどる。ぞわりと毛先が逆立ちそうな悪寒が走る。

 ここまできたんだ。

 なら、もう構うまい。


『……私は魔女。ガラスの魔女』


 そっと、決意の一言を口にした。響きが二重に反響する。

 空に手向けるもうひとりの私。

 空に届けるここにいる私。

 声は、同じ振動をなぞり、空気に幻想を注ぎこむ。


『あなたに賭ける。あなたを頼る。あなたのすべてを捉えてる』


 知っている。私はあなたの歩みを知っている。


『遠慮なく告げて。躊躇なく否定して。際限なく私を求めて』


 痛いくらい強く。でないと体温は届きもしない。


『他でもない私が保証する。必ずあなたは、ガラスの魔女を復活させる』


 いずれ至るこの瞬間を、私は今乗り越える。


 最後の魔法よ、派手にいくわ。

 どちらともなく、そう決めた。互いにその覚悟で臨んでいると気付いていた。


 背を向けて歩き出しながら、私は向かう校舎へガラスペンを向けた。

 月明かりに淡い影が揺れる。背後で空に手のひらが向けられる。

 魔法が混ざり合う。

 みえるすべてが現実から遠ざかった。


 一歩、一歩。

 やがて早まる歩調は、いつの間にか小走りに変わる。


 ここからは作業だ。

 創り、高めあう。オマエは空と繋がった。なら、地上を撫で上げ色をくのは私の役目だ。

 さあ、綺麗で残酷な魔法使い。


 あなたの輝きを刻むときだ。

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