3-7

 それは、十分にも満たない停滞だった。




 その数分間を、あたしは会話に費やした。

 魔女さんが動かなくなってすこし。虚空を見つめ、目の前で手を振っても突いても動かないので、あたしはミノリちゃんと技術室のなかにいた。

 電気はついていない。後ろの窓側──中庭に続く戸のそばで、角イスふたつに腰掛けていた。

 ここ、鐘乃宮中学校の中庭に、彼女の立ち姿はよく映えた。頭には大きい魔女帽子。身の丈に合っているかといえば微妙なバランス、だけど不思議と収まっている。首元にはワイシャツの折り目、その下はカーディガンやスカートなど、黒を基調とした装いだ。

 どことなく、野良猫に似ていた。

 飼い主を持たない、孤高の猫に。

 病院で会ったときよりも、暗さは増している気がする。本当に、彼女は浮いている。目立たず浮いている。

 その存在感は、魔女という生き物がゆえなのかな。いや、彼女自身が生まれもった性質な気がする。でなきゃ、お兄ぃが命を賭けるとは思えない。思いたくない。

 あたしは棒立ちの背中を眺めて、またため息をついた。


「なんだか、普通を忘れそうですよね」

「……そうだね」


 膝のうえで、乾燥した手を擦った。

 慣れ親しんだあたしに対しても、ミノリちゃんは丁寧に接してくれる。

 みんなは遠慮を忘れて会話するから気付かないけど、ミノリちゃんの纏う雰囲気はほとんどいつも落ち着いていて、気が利く。教会に住まうだけはあって、所作のひとつとっても大人びている。

 あたしにとってミノリちゃんは、現実とか、普通とか、平凡な毎日とか、そういう忘れちゃいけないモノの象徴だった。

 魔法に揺さぶられたり、だれかが消えてしまったりしない。ありふれた平和を思い出させてくれる。


「もうずっと、こういう毎日にいるよ」


 中庭の花壇を眺めて、小さくつぶやいた。


「あんな兄を持ったのですから、心中お察しします。素敵な方ではあったのですがね」


 ちいさく、頷く。

 そう。とても良い兄だった。家族を語れば追想となるまでに、現実はよどんでいた。

 お兄ぃはもうこの世界にはいなくて、今は手紙すら届かない遠くにいるらしい。つい最近まで同じ家で過ごしていたはずなのに、いつの間にか、現実はとんでもなく色味を失っている。

 母がお兄ぃのことを知らないのが、一番心にくる。何気ない日課にも、欠けた部分が見え隠れしてしまう。

 見て見ぬフリをしてきた不合理が、ここにきて牙を剥いている。

 手慰みをしながら、語った。


「たしかに普通じゃないよ。常識からちょっと外れてて、たまにふと『あ、今、変なこと考えてた』って気づくこともあるよ。我に返るの。普通の思考? に戻ろうとするの。でもね」

「でも?」

「その普通に浸っていたら、きっとあたしは、お兄ぃが消えたことにすら気付けなかったと思う」

「それは……」


 ミノリちゃんが黙り込む。

 きっと、彼女にも思うところがあるのだと思う。想い人である木陰さんと仲を深めるのも、互いに理解し、足並みを揃えることができているのも、魔法のおかげだから。非日常によって失われた光があれば、非日常がきっかけで得られた光もある。それは太陽と月のように相反している。

 あたしだって、魔女さんに記憶を消されていなければどうにかなっていたかもしれない。父を死へ追いやった自分──罪の重さは、当時の自分を簡単に壊してしまえる。自暴自棄が行きすぎて、自傷行為に走るとか。部屋にこもっていつまでも出てこないとか。

 魔法は、あたしに受け止める時間をくれたのだ。

 あたしはそんな魔女さんの優しさを、信頼していた。だから、家族を『死』へ招いた魔女さんに託せる。


「たしかに、その通りですね。普通に浸っているばかりに目の届かない時間が、怖い。喪うのが怖い。きっとヒトが抱く当然の感情で、ヒトたる所以」


 ミノリちゃんが遠い目をする。


「職業柄、『しゅはお赦しになる』という言葉を耳にします。神に祈りを捧げ懺悔することで、ヒトの罪は流される。自身の行いを恥じる意思そのものが、赦されるべきなのだと。でも結局のところ、そうまでしても救いは得られないと思っています」

「あはは……それ、シスターが口にしていいの?」

「もちろんダメです。聖職者にあるまじき、神への冒涜です。しかし今はただ一人の人間ですから」


 シスターが、柔らかく微笑んだ。揺れた金髪が秋を吹き、春を手繰り寄せそうだった。


「どれだけ救いを手探りしても、指先にもあたりません。真の意味での救いとは、自分が自分をどう思うかです」

「自分?」

「はい。後悔があって、その後の人生をどんな風に縛るか。失敗があって、自分をどう捉えるか。神でさえ赤の他人な私たちは、私にしか赦せない。友人であろうと家族であろうと、赦せるのは自分だけ」


 彼女の発した言葉は、語りは、白い響きで空気を揺らす。およそすべての音から突き放す静寂では、とても耳に残る。


「話が逸れましたね。私が言いたいのは、魔法なんて関係ないということです。魔女と三上さんはたしかに遠いです。ふたりだけの世界を生きています。でも、声が届かないわけじゃない」

「……」

「見失ったなら、探せばいい。離れたなら、待てばいい。後悔は過程にすぎません。そも、あなたは血縁ですし、離れたくても離れられません。同じところへ行こうとせずとも、あなたはあなたのまま、遠慮なくおせっかいを焼いていいのです」


 「ちがいますか?」そう言って、ミノリちゃんはこちらをみた。慈愛に満ちた、とい表現がこれほど似合う人はいないだろうと、そう思った。

 後悔。

 あらゆる人が過去を顧みるように、あたしも後悔は多い。こと家族に関しては。兄が心配な気持ちも、魔女さんがいる関係で距離を感じていることも、シスターは見透かしているのだった。

 ……たしかに、自分を赦せるのは自分だけ。

 けれど、こうやって他人から『そろそろ自分を赦して良いんだよ』と言ってもらえるのは、幸せ者の特権かもしれない。

 なんだか心がすっきりして、あたしは手慰みをやめた。眺めた花壇の土から、わずかに視線を持ちあげる。


「ありがとう、ミノリちゃん」

「まぁ、私個人の意見に過ぎませんが。あなたの人生への向き合い方の、すこしでもヒントになれたのなら」


 静かで、穏やかに流れる校舎。他人の気配は遠く、肌を撫でる丁度いい気温。

 優しい友人と、あたしは笑い合った。


 と、不意に動きがあった。



 視界に影が差し、そちらへ目を向ける。

 技術室から外へ一歩分。平らなコンクリートに足を着き、魔女さんがこちらをみていた。

 ……ここへ来たときよりも、さらに雰囲気が澄んでいた。迷いがまたひとつ剥がれ落ちたかのような、物事を一層深く見通しているような。


「終わったわ」


 魔女さんが一言、そう告げる。

 あたしたちの目の前を素通りして、もと来た方へ戻る。あたしたちのことなんて置いてけぼりで、廊下へ出ようとする。

 ミノリちゃんが立ち上がった。


「終わった、って、どういうことですか」


 真っ黒な背中は足を止め、振り返る。


「そのまんまの意味よ。ここでできることはやった」


 変な子ね、とでも言いたげだった。廊下の光を背に、涼しい顔がこちらを順に眺めた。


「あんたたちも、早いほうが気が楽でしょ?」


 と、魔女さんは言った。

 腰に当てた手首から、紐が垂れ下がっているのが気になった。


「そも、あなたはここへ何の目的で訪れたのですか? 巻き込まれた私たちにも説明してください」


 嘆息が、ひとつ。

 魔女さんはちいさく「そうね」と呟いて、手近な机に寄る。一画に乗せられていた椅子を片手でおろし、机の方に腰掛けた。

 様になっていた。足を組んだその姿勢は、魔女らしく、彼女らしい。気まぐれな性格をそのまま反映している。

 魔女さんがピッと指を振れば、背後の戸がピシャリと閉まった。さらにカタンと錠のまわしが持ち上がり、空気の流れを途切れさせた。

 勝手に周囲が動き出す。この現象のまっただ中にいるのは、まだ奇妙な感覚があった。魔女さんはそんなこちらの心情など意に介さない。この中学校に在籍していた当時もこんな感じだったんだろうな、とそんな風に思った。


「ここへは、ハルマを探しにきた」

「探しに……? あなた以前、三上さんは現実には居ないと、」

「言ったわね。間違ってない。でもそれは、『現実』の話よ」


 首を捻る。彼女の言葉はしばしば読み取れない。

 魔女さんの頭の中は、おそらく普通からかけ離れている。例えば鐘之宮市の地図を前にしたとき、きっと互いの見え方はちがう。自然、状況の理解も差が生まれてしまう。

 彼女の語り口調が、抱いた感覚を明確にしていく。


「ハルマが飛ばされたのは、現在でも過去でも、もちろん未来でもない。神とやらからすれば、彼の自己犠牲はイレギュラーなのでしょうね。ビー玉が破裂するくらい、存在があやふやになってる」

「それは、危険な状態なのでは?」

「ええ、仰るとおり」


 帽子の下、夜色の視線が、細められる。


「彼は今、誰にも知覚できない空間にいるの。ファンタジー風に言えば、異次元ってところかしら」

「異次元……」

「例えば魔法をつかえば、ふたりきりの空間を創ることができるけれど。これはそのさらに外側の話。夢のようにあやふやな場所。踏み込もうとして踏み込める領域じゃない。でも、夢とは記憶に他ならない。だから記憶を封じ込める『風鈴の魔法』をつかって、会う方法を探しているの」


 風鈴の魔法。

 それが具体的にどんなものなのか、私にはわからない。だけど、音を感じ取り、触れた者がどうなるのかは何となく察しがついた。

 ……今年の夏に、その一端を私はみている。

 誰かに導かれるように、誘われるように。ふらりと姿を消して、しばらく経って平然と戻ってくる。

 お兄ぃが繰り返し行っていた能動的神隠し──それを鑑みれば、『風鈴の魔法』が異次元に繋がっていると言われても納得できた。


「で、その成果は?」


 ミノリちゃんが問う。


「……」


 魔女さんは無言で握り込んだ左手を持ち上げ、そっと指を開いた。

 そこから、紐に繋がれた破片がぶらさがる。

 空気に晒されて、揺れる。

 光に晒されて、わずかに反射する。

 緑色の結晶を砕いたみたいなカタチ。半透明で、透かした光を染めて、でもとんでもなく軽い物体。かつて巨大な芸術の一部であったことを忘れさせる、あまりにもちっぽけだけど、決して消せないほどの存在を世界に刻んでいる証。

 ──見覚えのあるソレに、あたし達は息を呑んだ。


「そ、それ……!」

「ブルーローズの、葉」


 あたしは思わず立ち上がった。

 ミノリちゃんは顔をしかめた。

 紛れもなく、ステンドグラスを飾っていた、ひとつのピース。お兄ぃが冬に手に入れて、以来、神隠しの引き金ともなった根源。

 心なしか、空気に緊張が混ざったような気がする。その発生源は、間違いなく魔女さん以外のふたりだった。


「ふぅん。そんな呼び方なんだ、これ」

「どこでそれを……いえ、貴方が持っているということは、それこそが風鈴の魔法を介して手に入れた手がかりなのですね?」

「ご明察。ハルマが持っていたアンカー。私たちの時間軸を騙すためのチケット。おおよその起源は知ってるわ」

「危険なモノじゃないの? たしかお兄ぃは、ソレが原因で大怪我をするところだった」


 魔女さんはあたしの言葉を聞き、きょとんとした。とても人間味のある表情で。お兄ぃが河川敷で気を失っていた事件は知らないようだ。

 しかし、彼女はすぐに冷静さを取り戻す。紐に繋がれた破片を振り上げ、綺麗な所作で手のひらに収めた。


「ま、魔法とは相性が悪い──いや、良すぎるものね、コレ。親和性が高過ぎて、ほとんど『風鈴』の一部になっていたわ。ま、今は私のなかにある。ガラスの魔女が想定したとおり、ガラスの魔女が仕向けたとおり」

「ガラスの魔女……貴女が口にした魔女とは、どの魔女のことですか?」

「無論、私のこと」

「私は、いつも貴女の考えが読めない。今だって、目的はわかりますが、その手段がわからない」

「それでいいわ。そうでなければならない。だってこれは、私と彼の話なのだから」


 毅然とした顔が、天井を見上げた。

 瞳には様々な思考が渦巻いている。でも奥に秘められた力強さは褪せることを知らない。変わらぬ輝きを放つ星々が、彼女の中にも同じように散りばめられているのではないか。そう思わせるほど、目を奪われる。他人に左右できる代物ではない、ただ真っ直ぐな価値観の証。

 夜色の視線は、次いであたしにも向けられた。

 魔女さんはすこしだけ申し訳なさそうに、


「今まで、非日常に巻き込んで悪かったわね」


 と、視線を落とす。

 唐突な謝罪。

 ミノリちゃんは訝しげに眉をひそめた。

 あたしは声の裏の優しさに胸を痛めた。

 けれど、こちらふたりの反応を目にしてもなお、魔女さんは曲がらない。ここからは私の仕事、とでも言うように、床に足をつく。


「明日、ハルマを連れ戻す」


 魔女さんの瞳は、たったひとつの結末だけを見据えていた。


「そのガラスを使って、ですか」


 魔女さんが頷く。

 握ったブルーローズの葉をそっと胸ポケットに仕舞い込み、短く吐息をつく。

 ミノリちゃんから飛び出た、ある種糾弾のような問いかけを、察していた風に。


「三上さんと同じやり方は、もう御免ごめんですよ」


 真正面から向き合うふたり。

 どちらも黒の多い服装だけど、雰囲気は真逆だった。死地へ赴く戦士を正論によって引き留めんとする、常識者。あたしの目には、関係性はそういう類に写った。

 どちらが正しいのか。あたしの願いの代弁者が、ふたつに別れて相対しているように錯覚した。

 カチリ、黒板うえの時計が針を刻む。中庭とを隔てる戸は締め切られている。宙を舞った埃が陽光を反射している。

 世界は今日も、正常に運営されている。

 人々はありきたりな一日に希望を感じているだろうか。絶望を感じているだろうか。少なくともこの日本には、普通の枠に収まった時間に生きているのだろう。シスターも、ある男の妹も、例に漏れず。

 そのすべてを眩しそうに俯瞰し、魔女は答えた。


 す、と。空気を吸う気配とともに。



「『ガラスの魔女』は、死ぬわ」



 死ぬつもりじゃないですよね? ミノリちゃんの問いに対して。

 私は死ぬ、と容赦なく告げられる。

 否定する魔女さんは、微かに微笑んでいた。むしろいつもよりちょっとだけ晴れやかに口元を緩めていた。答えとは裏腹に、この空間のあらゆる影を濃くした。

 無音の教室。

 立ち尽くすふたりの前に、魔女さんは絶対な結末として立っている。


 本当に――怖いひとだ。


 魔女さんが自身の結末をはっきり告げるところは、彼女らしい。でなければガラスの魔女ではないとさえ言える。

 怖いのは、温度差が以前とまったく異なっている点だった。軽い。軽くて、真っ直ぐすぎる。生物が持つべき、当たり前の感情が換算されていない。ヒトとして致命的に欠けた、恐怖なき生物に対する恐怖。

 得も言われぬ戦慄を背筋に感じながら、あたしは息を呑んだ。


 夜色の瞳は、かつてないほど澄んでいる。

 迷い、葛藤、不安、恐怖。そして焦燥。


 そういった余分なモノを脱ぎ捨てて、彼女は立っているようにみえる。

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