3-6

 バタン、と背後で扉が閉まった。

 階段近くの扉は、教室と異なり内開きのドアである。用具庫には予備の掃除用具や使わない机、イスなどの他、「こんなの何に使うのよ」と首をひねるモノもある。

 共通しているのは、普段使われていないモノが詰められている、ということ。校舎の端っこに位置する用具庫ともなれば、解放するのは新学期くらいのものである。

 それ以外となると、用途は後ろめたいものになる。

 私はその場で視線を落としていた。

 着慣れたワイシャツにカーディガン、スカート。右脚をわずかに前へ持ち上げると、黒いソックスが視界に入る。そのすべてをくまなくチェックし、汚れがないことを確認する。

 先ほど水をかけられたせいで、余計な手間が増えてしまった。他人の色恋には興味がないのだが、この学校も人間関係は複雑に入り乱れている。その余波を浴びてしまうのは、登校を憂鬱にするひとつの要因だ。

 ……いっそのことカエルにでも変えてしまおうか、あの女ども。

 とてもすっきりするだろう。ハルマは覚えていないだろうけれど、私に「時間をつくるために魔法を使ってほしい」とまで言ってみせたのだから、これも正しい使い方だろう。

 今後、あの女ふたりに時間を奪われることもなくなる。私に関わると不吉なことが起こる、なんて噂を流してもいい。余計な奴らは私から距離を置いてくれるだろう。そうなれば、心置きなく彼との時間についやせる。


「……ッ、」


 そこまで考えて、頭を振った。

 そして、顔をあげる。歩き出す。キュ、と鳴らした上履きで。


「そんな使い方、怒るだろうしなぁ」


 つぶやきは、無人の廊下に消えていった。




 日陰ゆえに薄暗い西棟から、中庭を迂回するように、校舎の中心部へ移動した。

 昼の賑やかさが校舎を満たしていた。

 廊下のあちこちから、生徒の声が反響してくる。昼の時間、生徒は教室に留まる者と体育館へ走る者、図書館へ赴く者など千差万別だ。

 下駄箱のまえを通りかかると、毎朝登校を出迎える大窓がみえた。明るく、木目を照らしている。ここは西棟の一階用具庫と比べ、行き交う人が多い。一歩ごとに生徒とすれ違う。

 私は数秒立ち止まり、天井近くを睨み、続いて生徒たちを眺めた。

 だれもこちらに注目しない。特に魔法は使っていないけど。

 私は有象無象のなかのひとりでしかなくて、目にとまったとしても、すぐに興味を他へ移す存在だった。それでいい。それがいい。学校で目立ちたくはなかった。

 学生はこの場所に長時間拘束される。嫌でも顔見知りは増えるものだ。ハルマは一般人だし。となると、あまり周囲に知られると、ハルマが迷惑を被る可能性が高くなってしまう。必然、会える時間も奪われてしまう。

 魔法をつかえば万事解決、ではあるのだけど。普段の装いから息を潜めてこそ、私は平穏を手に入れられるのだと考えていた。

 ああ、炭酸が飲みたい。

 あの日陰の下で、いつもの静寂で。

 となりに居る彼の気配だけをBGMに、すべての憂鬱から解放されたい。

 残り時間の恐怖さえも、全部上書きしたい。

 何となく手のひらを眺めてみた。

 震えてる。禁断症状? さっき嫌なことがあった所為か、身体がハルマ成分を求めている。はやく癒されたい。


 無意識に早歩きになっていたようで、いつもの技術室にはすぐに到着した。

 もう我慢ならない、とばかりに手をかけ──


「あ」


 引っ込めた。

 引き戸に設けられた小窓。その向こうは電気がついていないため、辛うじて反射した自分の姿を観察できる。

 映り込んだ私は気難しげに目を細めた。

 服の水気はすべて水道へ流したし、埃も払った。大丈夫。でも髪がまだちょっと乱れてる……気がする。

 手櫛てぐしで整える。前髪もちゃんと流す。

 魔女帽子を取り出し、上からかぶった。髪の位置を調整して、顔を傾けてどう見えるかも確認する。彼が座っているのはいつも右側、でも今日だけ左側ということもあり得る。だから入念になおす。

 ……。

 …………。

 今日の私は、どうだろうか?

 あの女どもがいなければもっと完璧に整えられたと考えると、ちょっと恨めしい。

 服の埃はもう一回払おう。あ、そうだ匂い。水かけられたし、変な匂いしない、よね?

 すんすん、とそでに鼻を近づけてみる。


「……わからん」


 自分の匂いはわからないとよく言うし、私の鼻じゃ信用できない? 臭かったらどうしよう。ていうかあの水、普通の水道水よね? トイレの水とかだったらちょっと許せないんだけど。復讐してやろうかしら。

 いやいや、今はそれどころじゃない。

 匂いを消す魔法──って、どうしたらいいんだろ。水と異なり、物質として捉えにくい。服が吸った水を瓶に集めるのとはワケがちがう。あいにく香水は持ち合わせていないし、そも校則で禁止されている。いや、炭酸持ち込んどいて何を今さらってカンジだけど。

 ふと、懐中時計を取り出す。

 昼の時間が、刻一刻と減っていく。

 焦る。具体的な解決策が見つからず、ダラダラと冷や汗をながした。

 帽子に柔軟剤でもストックしていれば解決できたのに……!


「はっ」


 そうだ。

 消せないのなら、上書きすればいい。

 私は人目を避ける魔法を自身にかけ、引き戸を引いた。

 中へ一歩踏み入り、すん、と鼻を鳴らした。


 ……これしかない。雑巾みたいな匂いよりはマシだ。

 手のひらを左肩にあて、一度、目を閉じた。

 匂いのイメージ。削った木の匂い。美術室や音楽室とも違う、技術室特有の匂い。それを布へ擦り込むように。大げさでなくていい。すこしでいい。仄かに香るくらいの量でいい。

 私は魔女。

 ガラスの魔女。

 そう心の中で唱える。同時、身体の芯から湧き出るように、高揚を薄めたような感覚がした。腕から指先へ、血液の流れをなぞる風に伝播でんぱさせる。

 それを、纏った衣服に流し込む。馴染ませる。

 肩へ添えた指先に、微かに熱が籠もった。取り込み方は何がいいだろう。箒のイメージでいいか。


 す──、と、肩からカーディガンの裾まで、手を払う。布地を撫でるように。余計な香りを払うように。新たな空気を塗るように。

 微風が、頬を撫でた。魔法を行使した際に現れる現象だった。

 ゆっくりと、目を開ける。

 並んだ傷だらけのテーブル、そして天板にひっくり返された角イス。消えたままの電灯。変わらぬ景色のなかに、私は立っていた。

 また、袖に鼻をくっつける。


「んー、微妙……」


 だが嫌な匂いではない、気がする。

 ヒノキの入浴剤とかあるし、一緒よ一緒。

 私はこなくそ、と妥協し、教室を突っ切った。


 数歩で突き当たりに到達し、カチ、と黒板上の時計が一分を刻んだ。三日月形のクレセント錠を見つめる。

 もう何度も通った場所だけど、いつだって心の準備は必要で。だから、


「すぅ、はぁ」


 深呼吸した。


 技術室はとても静かだった。廊下の向こうから風に運ばれてくる喧騒。それがさらに埋められる。中庭に面したベランダへ出れば、この雑音は届かなくなるだろう。

 そこはきっと別世界だ。

 私たちだけの、隙間時間。

 ガラスの魔女に与えられた安息。

 斜めに陽を透過する戸。上半分はガラス張りで、見慣れた中庭が一望できた。

 もう一度深呼吸して、頭を切り替える。

 そっと息を殺し、ガラスに張り付く。ベランダの日陰部分──ツルに彩られた屋根の下へ、目を凝らした。


「……。」


 相も変わらず置かれた、木製のベンチ。

 背もたれに体重を預ける人影がみえた。安堵とともに、心拍があがる。


 そうして私は今日も、戸の鍵を開けた。






 ハラリ、ページをめくる音が届いた。

 穏やかな陽の降り注ぐ中庭。張られた園芸ネットの屋根が、ベンチの周りに陰をつくりだしていた。隙間から覗けば、花壇やちょっとした畑なんかが窺える。

 静かな昼下がりは、平穏そのものだった。

 喧騒からも、人生に付属する余計な使命さえも遠ざけられた、短くも尊い時間。日常の隙間に歩み寄り、得られた束の間の夢。

 ベンチの硬さは変わらない。日陰の温度は肌にやさしく、くすぐるような彼の気配が挟まれる。

 私は炭酸のキャップをひねり、口をつけた。

 舌にひろがる、しつこすぎない甘さ。ノドを流れる清涼感。魔女帽子を傾けながら、ちらりと視線を横に投げた。


「──、」


 ベンチのひじ掛けに頬杖をつき、本へ目を落とす横顔がある。黒曜石を思わせるまえ髪が揺れて、目を奪った。

 炭酸のわずかな刺激で誤魔化して、私はそっと意識を逸らした。

 ペットボトルを傍らにおき、膝に手を置く。ベンチから伸ばし、組んだ足先が視界に入り込む。


 ああ。幸福だ。

 ずっと続いてほしい。

 嫌なことはあったけど、この日を毎日繰り返してもいい。

 やはり私は、彼との時間が好きだ。


 時間が甘く染み込んでいく。無言の空気さえ心地良い。彼の息づかい、ページをめくる所作、野花を揺らす微風。たまに日陰の模様が揺れ動いては、穏やかさを知らしめる。

 自分がここにいる。ハルマと並んで座っている。互いの距離と息づかいが伝わってくる。それだけで、私にとっては最高で。素敵で。満ち足りていた。

 高鳴る心臓の音を落ち着かせながら、何を話そうか、と考えを巡らせた。体裁だけを気にしていたせいで、その先のことを忘れていた。まぁいい。ハルマはここにいるのだ、時間が尽きてしまったのなら、すこしだけ増やせばいいのだから。

 そういえば、今朝、進路の有りがたいアンケートをもらった。大人は何度も志望校を迫り、焦らせる。こっちは生きるだけでも難しいっていうのに。

 まぁ、私の未来なんて想像もできない。つまり関係はない。魔女の寿命は来年を迎えるまえに、ロウソクの炎を吹き消すだろう。

 ……でも、ハルマは違う。

 ノート越しの自分は、ハルマの犠牲による復活を成し遂げた。だけど絶対に私が止めるから。未来を変えるから。だから、ハルマはこれからも生きていく。将来の選択肢がある。

 そうだ、これを話題にしてみようか。

 ハルマが将来なにを目指すのか、すこしだけ気になった。じゃあ、どう訊いてみよう。魔女らしく、私らしくしなければ。

 また炭酸へ手を伸ばしながら、そんな風に思っていると。


「口、どうしたの」


 と、ハルマが訊いた。本を閉じながら。

 思わず、動きを止めてしまう。持ち上げていたサイダーをおろした。

 口? と疑問符を浮かべて、用具庫で顔をモップの柄にぶつけたことを思い出す。思い出すと、口の端がすこし痛む気がした。

 私は顔をしかめた。

 きっと、あの女どもに絡まれた際に切れたのだと思う。技術室に入るまえに容姿の確認はしたはずだけど、そこまで気づかなかった。ガラスの反射は手鏡には及ばない。

 彼の方を見つめると、湖面みたいな瞳が不安の色を乗せていた。

 隠すように顔を俯け、口の端を手の甲で拭う。

 血は……止まっているようだ。


「ちょっと、虫が突っかかってきただけよ」


 思わず、ぶっきらぼうにそう答えていた。

 しまった、ととなりを見やると、案の定ハルマが無言で考え込んでいる。余計な気を遣わせてしまったかもしれない。

 私は思い浮かべていた話題を切り出した。


「そ、そんなことより。今日はあなたに訊きたいことがあるの」

やぶから棒だね」


 どう尋ねるか。

 やや幼稚な問いの気もするけれど、こういう言葉選びが順当な気がした。


「夢、ってある?」


 ハルマがまた考え込む。難題を突きつけられたかのように、数秒をつかう。


「ない」

「それでこそ」


 こちらの話に乗ってくれたのが妙に嬉しくて、思わず微笑んでしまう。

 彼からすれば、他人を嘲笑う邪悪な女にみえたかもしれない。念のため、できるだけ朗らかな笑みを心掛けて言う。

 そう、いつもの調子でいい。

 彼のまえでは、虚勢だろうと魔女らしく楽観的であれ。


「考えてみたわ。夢ってやつ。進路希望には空欄で返すけど」


 ハルマが苦笑いする。


「……要は、魔女の秘密ってことか」

「知りたい?」

「君の夢は、『夢』というより『野望』ってカンジがする」

「き、聞くまえからなによぅ……でも、いいじゃない、『野望』。ふふっ」


 くすぐったい。でも不思議と心地良い。

 彼は私をよくわかっている。

 夢ほど褒められたものではない。でもヒトが心に決め貫くべき目的地として、これ以上なく最適な響きに聴こえる。魔女は存在からして良いものではないし、やはり願望は掲げるのではなく、志すものなのである。

 目を閉じ、緑の天井を仰いだ。自然と口が復唱した。


「野望、野望……」


 私の野望。


「夢は儚いものって印象が強くて、叶いそうにないけど。野望ならしっくりくるわね。が非でも達成してやるって響き」

「それを誰かに聞かせるとなると、もう『誓い』だな」


 ハルマが賛同する。


「野望を達成するという誓い? あなた詩的な表現するわね」

「本を読んでたからかな」

「ま、あながち間違いでもないかも。ハルマの指摘はとても的確。私の夢は他人が掲げるほど大層な代物じゃあないし、聞かせるのはあなたがいい」


 揶揄うつもりで、笑みに不敵な気配を混ぜてみた。ハルマはいつものように、ちょっとだけ気怠げに目を細めた。


「ちなみに俺の拒否権は」

「あるわけないでしょ」

「ですよね」


 はぁ、と短いため息をつかれる。

 普通の恋人たちは、こういう些細な仕草だけでも一喜一憂したりするのだろうか。もしかすると、私は今、すこしだけ好感度を下げてしまったのかもしれない。

 けれど、そんな杞憂はすぐさま霧散する。

 彼は面倒そうにしながら、やっぱり受け入れてくれて。くだらないやりとりにも、身を任せてくれて。

 だからガラスの魔女は、あなたに執着してしまう。

 にやけを微笑みで誤魔化してしまう。それくらい、裏切らない彼がどこまでも愛おしい。


「いつか、本当にいつか……私は真正面から、あなたに名前を明かしたい」


 将来設計ですらない。夢にも及ばない。野望にしても小さすぎる。

 ハルマはぱちくりと瞬きをして──呆れた。


「……ソレ、誓いになるのか? 名前を明かすなら今でも良い気がするが」


 そういう肝心なところでなんで解らないのよ。

 負けじと冷ややかな目を向ける。


「それじゃ味気ないじゃない。物事には順序ってものがあるの。それに私は特別な思い出がほしいの。わかる?」


 んー、と首を傾げる彼に、思わず詰め寄る。


「私は魔女で、あなたはそんな人間と時間を共有する相手。今でもとっても素敵な時間ではあるけらど、すこしでも新鮮で印象深い思い出にしたい」

「その目的と名前を教えないことになんの関係が?」


 ああ、もどかしい。

 ここで「好きだからちゃんとしたい」などとは言えない。そんな勇気はない。柄ではないけれど、魔法とちがって、この関係に楽観的になるのはイヤだった。

 だから、今日も遠回しな物言いをしてしまう。ウソではない、でもそれなりに本心に近い、くらいの言葉で。


「私、あなたに『魔法使い』って呼ばれるの、結構好きだもの」


 そうやって、また私は一歩下がってしまう。

 ガラスの魔女は迷いのない生き物にみえて、その実、臆病な性格なのだった。


「わかったら名前を探らないこと。迂闊にも気づいてしまったなら頭を打ち付けて忘れること。いい?」


 ハルマの顔は「横暴だ」と抗議していた。

 申し訳ないけれど、許してほしい。私はあなたが思うほど強くはない。魔法と同じ。万能であって、万能ではない。周囲からみて、世を俯瞰するかのごとく空気は、白でも消せないほどの強さを感じさせるかもしれない。

 だけどそれはカタチだけ。三上春間が私と縁を結んでいなければ、とっくに化けの皮は剥がれていることだろう。

 だれだって、『死』は怖い。

 人間は、脆い。

 私が私でいられる理由。つまり原動力は、実のところ彼以外に存在しない。我ながら溺れたものだ、『今を生きる意味』などといういきな呼び方も可能な、この熱に。


「ん、く……」


 彼の姿を観察して、その様を気づかれないように蒼矢サイダーを傾ける。彼はまた難しい顔をしていた。

 隙間時間は、会話の花に彩られていた。他人にみえない透明な色彩で、互いの感情が交差する。だれも知らない。誰にも譲らない。誰にも奪わせない。唯一無二の幸福だ。

 ……絶対に、ハルマだけは死なせない。

 もう、未来の自分と会話はできない。自分の頭だけを頼りに進むと決めた。ハルマを犠牲にするくらいなら、潔く寿命を迎えた方がまだマシだ。最後にちょっとだけ好意を覗かせて、あとは波にさらわれるように消えるのがベストだ。

 だから。誓いのとおりちゃんと名前を告げて、名前を呼ばれて。それで、未練なく命を断──



「……じゃあ、これはその証だ」



 思考を、優しい声音が遮った。

 誓いに対する証?

 いいや、そんなのは、きっと口実でしかないのだろう。すこしだけ格好つけただけの、理由付けに過ぎない。

 彼に顔を向けて、私は固まった。

 差し出されたのは、小さい紙袋だった。

 どこかで見た覚えがある。でも、正確には思い出せない。


「え、は……私に?」


 おずおずと受け取る。

 彼の顔と袋で視線を交互に見てしまう。あまりにも予想外のことで、どうしてこんな事態になっているのかわからなかった。戸惑った。

 私、なにかした?

 もしかして、色々と見透かされてた?

 この感情とか、色々思い詰めてることとか、何度も消してきた記憶のことだとか。

 と、ぐるぐると頭の中で考える私へ、ハルマは言った。


「俺は君の誕生日を知らない」

「……」


 誕生、日……?


「知り得ている情報は、天秤座であることくらいなんだ」


 ぽかんとしてしまう。

 そういえば、まえにどこかへ連れ出したときに──頻繁に付きまとってるから詳細は忘れた──気分がノって誕生日を口走った気がする。

 それを、覚えてくれていた。あんな、雑談の一欠片みたくこぼした独り言を。

 私は袋の口に指をかけた。シンプルな柄のテープを破り、開封する。


「ちょっ」


 びり、と開けて、腕を突っ込む。思ったよりも重みがあって、硬いそれらを取り出してみる。

 蒼矢サイダーは傍ら。

 袋を下敷きに、小瓶と箱が日の目を浴びた。


 周囲の音が、急激に遠ざかった。


 黒いインクの瓶。ラベルに綴られた英語に、『glass』という単語が混ざっていた。私はそれを知っている。ちょっと高めなインクであることを。容量は少なめだが、使ってみると案外減らないものなのだと。

 もうひとつは、白く細長い箱だった。

 丁寧に包装されたそこには、フィルムに守られたペンが収まっていた。

 杖にもみえる形状。無駄な装飾はないけれど、僅かに施された細かい輪郭。

 緑の天幕をすり抜けた光が、ちらちらとガラスを照らして、夜色を反射させる。込められた美麗な色彩は、絵の具を生きたまま閉じ込めたようだ。空の模様を切り取ったようだ。


「――、」


 息を飲み込んだ。言葉を失っていた。

 なんで。

 どうして。

 そんなのってない。こんなのってない。

 せっかく割ったのに。せっかく、『死』の恐怖に打ち勝って、ハルマの未来を優先したのに。ノート越しの結末を塗り変えると、心に決めたのに。


「ガラス、ペン……」


 唖然としたまま、ぼそりとつぶやく。

 嬉しさと、悔しさと。そして入り混じった歪な感情を抱く自身へ対する、侮蔑。


「なんで、コレ、」


 声が震えていた。

 でもハルマは事情を知らない。


「インクは黒だけで申し訳ない。そこは謝る。もし他のインクが使いたかったら自分で買い足してくれ」

「……」


 これじゃあ、もう逃げようがない。

 ガラスペンなんか受け取ってしまったら、もう避けられない。

 ノート越しの私も。

 こうして話すハルマも。

 「三上春間を犠牲にしろ」と訴えてくる。どれだけ顔を背けても、肩をつかまれる。辿るべき未来を指先で描こうにも、だれかに腕を引っ張られる。

 どうしようもないの?

 定められた運命なの?

 どう足掻いても、ガラスの魔女はハルマを犠牲に復活して、未来の私は孤独を歩むのか。そして過去の私を暗がりへ引き摺り込もうとするのだろうか。私はそんな風に汚れてしまうのだろうか。

 いやだ。

 そんなのは、いやだ。


 ぐわん、と。

 視界が歪む。気づかれないように、魔女帽子のつばで顔を隠す。


 彼の結末がどうであれ、死ぬ瞬間は怖い。想像しただけでも背筋が凍って、全部打ち明けてやめさせたい。

 でも、言ったところで考えを改めないのは目に見えている。それどころか清々しい顔で、優しい声で何かをつぶやいて、自分の胸にナイフを突き立てそうだ。

 それが、怖い。

 今の私にできることはない。今でなくても、私に彼を止めることはできないのかもしれない。


 きっと、ノート越しの魔女はこれすらも見据えている。

 私が一度ペンを折ることすらも予想している。新しいペンを贈られることも、葛藤しながら残りの時間を過ごすことを知っている。全部全部わかっていて、指示を出している。

 膝のうえ、静かに、拳をにぎった。

 私はなんて、滑稽なんだろう。

 未来を変える? ハルマを生かす?

 笑わせる。私は私の掌のうえ。レールを外れたつもりでも、そこはまたレールの上。

 そも、未来を変えることなんて不可能なんじゃない? 例えばノート越しに与えられた指示に背いたとして、けれど向こうにとっては背くことを理解した上で指示を出していて──その繰り返しで、未来は定まっている。

 だから、ハルマは死ぬ。

 私の犠牲になる。

 哀しいことに、彼女が始めに文字で語った約束は、決められたことだったわけだ。

 ──

 再会して、離別する。たった一瞬の再会を、彼女は経験したのだ。これから私は、経験するのだ。


「……ッ、」


 認め難い。

 唇を噛む。

 どうにかなりそうだった。どうにもならない現状に、可笑しくなりそうだった。なんでもいいから、支えがほしかった。泣きついて縋りたかった。

 ハルマ。

 ハルマがいればそれでいい。

 それ以外はいらない。

 失いたくない。私の死後でさえも。

 ハルマ、ハルマ、ハルマ、ハルマ、ハルマ、ハルマ、ハルマ、ハルマ──


「……。」

 

 私は無言のまま、ベンチから腰を浮かせた。

 ガラスペンも瓶も置いて、彼の前に立つ。


「……魔法使い?」


 彼の声が、響く。

 それが失われることは決定事項なのだと、もうひとりの自分が囁いてくる。

 もう、どうしようもない。制止をかける理性を吹き飛ばし、頭の中が熱に侵される。目の前のソレが欲しくてたまらない。

 ──すこしでいい。

 束の間の夢でもいい。この瞬間だけでも、捕まえておきたい。





 自分だけのものにしたい。





 肩に手を置いていた。

 わずかに残された喧騒が、息を潜めた。

 身を寄せて、顔を近づけた。流れる前髪、ズレる帽子、雑音を途絶えさせる、衣擦れの音。

 サア、と微風が吹いた。

 誰も知らないふたりきりの空間で、緑の天蓋がさざめいた。無くなることのない憂いが、苦く甘く染み込んでいく。


 私は怪訝な顔をしていた彼を捕まえて──口を塞いだ。


「──ん、」


 柔らかい。芯から蕩けそう。五感が彼に包まれる。

 いつまでも浸っていたい。何度でも堪能したい。

 びく、とハルマが抵抗をみせた。すこしだけ強く肩を押さえて、より深く口付けをする。すべてをさらけ出して、すべてを引き出すつもりで沈んでいく。ベンチに膝を乗せ覆いかぶさると、彼はまた緊張を高めた。ゆっくり体重を預けると、すんなりと諦めてくれた。

 これが、ハルマの味。


 反射的に逃げようとする彼を追い詰める。

 ──ちょっとだけ、胸が痛む。


 本気の抵抗でないことに安堵する。

 ──背筋がぞくぞくとして、支配欲に包まれる。


 陽を和らげ、さわさわと天幕がそよぐ。

 ──互いの吐息が混ざり合う。


 もっと知りたい。もっと感じたい。

 何もかも覚えて、二度と記憶から消えないぐらいに。いくら水で洗っても落ちない、どれだけ年月が経っても抜けないほどに。


「待っ、……、」

「、ふ──、ッ」


 より密着する。ベンチに乗り出した両膝を、さらに奥へと深める。顔が熱くてどうにかなりそうだけど、その奥には、何にも代え難い安心感がある。

 彼がここにいる。

 生きている。呼吸して、押し倒されて、唇を奪われて、私で塗りつぶされている。

 魔女帽子がさらにズレた。それほどまでに接近していた。

 行為をやめる理由にはならなかった。

 あなたも、未来の私でさえも、ハルマを犠牲にしろと言う。事実、愚かにも私なんかのために人生を燃やしてしまうのだろう。

 ならば。

 そこまで彼の消失が正しいのであれば。今ここに生きている彼は、私がもらう。


 彼の首元、ワイシャツのボタンに指を伸ばした──そこで、彼の腕が私を押し離した。


「──はぁっ、」

「はっ、ぁ」


 繋がっていた口元が解放され、酸素を取り込んだ。互いの息切れが皮切りに、ようやく中庭ののどかさが音となって蘇る。

 どく、どく、と早鐘を打つ心臓を抑え込むように、私は項垂れる。


「な、にを……」


 ……やってしまった。

 衝動のままに貪ってしまった。

 でも、こうでもしないと私は納得がいかない。いずれ私の手からすり抜けて落ちる存在を、手放せるわけないでしょう。まして、預かり知らぬところで犠牲になるなど。

 ごめん。

 ごめんなさい、ハルマ。

 全部消すから。なかったことにするから、だから──今だけは傍にいて。


「っ、」


 私のノドはどうにかなってしまったらしく、すぐさま渇きがやってきた。また、彼に迫った。

 しかし、ハルマは両肩をつかみ、力強く制止した。


「落ち着けっ」


 それがきっかけのように、


「──、……」


 私を支配していた熱が、急激に冷めていく。荒げた息を鎮めるほどに、行き場を失った熱が身体中に広がった。


 ぱさり、魔女帽子が落ちる。


 きっと私の素顔はひどいものだったんだろう。「ごめん」と声をもらすこともできず、ぼんやりと見つめる私に、彼は口をつぐんだ。視線を彷徨わせて、私から逸らしていた。

 戸惑い。

 それを悟ると同時、頭を芯から痺れさせるような余韻は、苦味に変わった。荒げた息を鎮めるほどに、冷静さが降りてきた。この数分間に対する罪悪感に苛まれて、消えたかった。

 自分を殺したい。我慢できなかった自分が情けない。


「……怒ってる?」

「……、っ、」


 私に対する苛立ちが、彼に伝わってしまったようだ。

 こちらを見るハルマに、私は、ふ、と短く息を吐いた。

 平静を装う。魔法による無意識の操作も、他人からみた印象操作も、誤魔化すためにできることは総動員した。おかげで、いつもの調子で話せるくらいには回復する。


「もしかしてガラスペン、気に入らなかっ」

「なわけ、ないでしょ。あなた殺されたいの?」


 彼はさらに戸惑いの表情を濃くした。

 それがずきりと刺さる。

 惑わされる。乱される。よくわからないままに、心の揺らぎを言葉にしてしまう。視線は彼の顔より下へ逃げてしまう。手のひらは握り込まれる。


「なぜ拒むの。あなた、私のこと、好きなんじゃないの」


 こんなこと言いたいんじゃない。

 ハルマが困った顔をする。


「少なからず想ってくれてるんじゃないの。どうして拒むの」

「それが、怒ってる理由?」

「ちがう」


 ちがう。まったくちがう。

 たしかにソレは私の欲から出た言葉だけど、本当に言いたいのはそうじゃない。

 拒まれた理由なんて、私くらいになればお見通しだもの。どうせあなたは魔女に優しすぎるから、まわり回って、結果的に拒んだ。

 私が怒っている風にみえるのならば。その原因は、ひとつだけ。


「……こんな綺麗なもの贈られたら、もう手放せないじゃない」


 ベンチを降りる。魔女帽子を拾い、軽く払ってから頭にかぶる。

 いつもより目深くかぶって、ベンチに置いていた箱を眺めた。

 綺麗な色。夜を散りばめ、ガラスの透明感が合わさった一品。大切なヒトから私への贈り物。

 泣きたくなる。

 相反する感情でぐちゃぐちゃになる。

 私は心臓を掴みながら、彼をみた。困惑を宿した瞳が、私を映し揺れていた。


「ガラスペンだけは、選んでほしくなかった」


 痛い。

 とても、痛い。心の奥に、ガラスのナイフが突き立てられるみたい。結晶の涙を流してしまうくらいに、その光景が痛くて切ない。

 このガラスペンを割ることなんてできない。未来を無視することは許されない。


「……ごめんね」


 震えた声で、伝える。

 あなたを救えない私でごめんなさい。あなたに『死』を決意させてしまってごめんなさい。


 風鈴の音色が、聴こえた。


 向き合え。

 どこかでもうひとりの私が告げる。

 ガラスの魔女は、ハルマを殺す。

 最も犠牲にしてはならない命を糧に、復活を遂げる。

 暗澹とした現実が口を開けていると悟っていても、きっとその道を選ぶ。

 この未来と、向き合え。

 そして受け入れろ。



 年月を跨ぎ紡がれる──綺麗で残酷な、この魔法を。



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