3-4

 その日の美術室は、部員の姿がなかった。

 正確には、一人を除いて皆帰ってしまった。休日にも筆を取り、キャンバスに向き合う生徒はいる。けれど、午前中までという決められた規則をまもり、大抵は昼を境に姿を消す。

 芸術の秋、とはよく言ったものだ。この時間、実際に美へ浸っている生徒はボクだけだった。

 まぁ、仕方ないことでもある。

 世間は秋という単語のまえに、事あるごとに別の単語をくっつける。スポーツや食欲こそ、秋の醍醐味なのだと言わんばかりに。彼ら彼女らは傲慢だ。全く関係のない代物だろうと秋の風物詩として棚上げし、正当化しようとする。それは例えば、受験だったり。それは例えば、進路相談だったり。

 高三になったその瞬間から、ボクらは『受験生』という名刺を押し付けられる。なら、夏でも秋でも同じこと。大人は等しく受験生として扱うし、この季節特有とは言いがたい。

 ともかく、ボクら若者は未来のために机に向かわねばならない世代なわけである。

 

「しけてるわねッ!」


 後方──ベランダと美術室を遮る境に腰掛け、片勿月シオンが言った。

 筆を止めて背後をみれば、パリ、と煎餅を割る姿。特有の香ばしい匂いが、絵の具の匂いに混ざり込む。


「それ、一週間まえに買った煎餅かい?」

「惜しい! 五日前よ!」

「そりゃあ残念」

「言いたいのはそういうことじゃなくてっ、煎餅くらいしけてるって言いたいのよッ!」

「何が?」

「この学校が! 文化祭まえだってのに、どうしてこんなにがらんとしてるのかしらッ」


 そりゃあ、休み明けに最後の門番、中間テストが待ち構えているからだろう。

 この土日でもう文化祭準備にとりかかるヤツなんて、生徒会のお偉いさんか、美術室の妖精さんくらいのものである。

 僕はキャンバスに向き直り、穏やかに問いかけた。


「みんな我慢して勉強してるよ。文化祭準備が本格的になるのは、テストが終わってからだろうね。君は大丈夫なのかい?」

「無論ッ!」

「さすが。ボクはダメダメだろうなぁ。またミノリに叱られそうだ」


 ぷんすか腰に手を当てる姿が目に浮かぶ。

 さすがに長い付き合いだ、そんな彼女は見慣れてしまったが、それでもかなり微笑ましい。これが惚れた弱味というやつなのだろう。


「はーあ、はやく文化祭スィーズンにならないかしらぁ」

「……」


 べたん、と気配がする。

 そこに座った客人は、決まって寝転がるようだ。その気配は、今はいない彼と重なる。

 三上はよく、同じ場所に座っていた。

 昼の時間にボクが絵を描いていると、八割ほどの確率で彼がやってくる。他愛もない会話を繰り返し、何でもない日常を一つ重ねるのだ。

 三上は気ままに訪れては、どこか遠いところを見ているようだった。

 たまにボクの絵を見て賞賛するけれど、その瞳は何か異なるモノをみつめているようにすら思えた。

 思い返すと、その感覚は正しかったのだと理解できる。

 魔女と三上。ふたりの生きている場所は、ボクらとは隔たれている。どうしたって近づけない。どこにも入る余地はない。


 何とはなしに、空を見上げた。

 蒼い空に、雲が流れていく。雲に同じカタチなどひとつもないはずなのに、いつか、どこかで眺めたようなデジャヴがある。それはきっと、感傷が生み出した錯覚だ。色眼鏡を通した遠近法だ。


 す、と。心を落ち着けるつもりで筆を引く。

 輪郭に沿って、輪郭を外れて、はたまた輪郭そのものを描いて。

 芸術の世界に身を沈めていく。

 同じ空の下、どこかで今日も、魔女は抗っている。それを想像しながら、無力な今を堪能するように筆を動かす。

 ──やはり。

 魔女に魔法を奪われてから、腕が重くなった気がする。今日はどれだけ描いても身が入らなそうだ。

 ふぅ、と諦めを含めた吐息をつく。それから、背後へと身体を向けた。傍らに置いていた紙パックのいちごオレを手に取り、ストローを刺す。


「シオンちゃん、三上のこと、覚えてる?」


 グデッとしたテディベア状態の彼女が、唸るように答える。


「んー……誰それ?」

「えっ」


 ボクは思わずストローから口を離す。

 シオンちゃんはやはり、寝転がったままだった。流れた前髪の間から、視線が遠くを見つめていた。


「冗談よ」


 「なんだ、驚いた」と言うボクに対して、彼女はぽつりとつぶやいた。


「あの男、本当に居なくなったわね……」


 最近の発見がひとつあった。シオンちゃんは周りからスピーカーと言われているが、真剣なときは真剣に話す生徒だ。

 こと自分のことに対していえば、それは顕著らしい。今この瞬間も、彼女は情報屋らしい顔つきで語っている。本心を隠そうとはしていないと伝わってくる。


「知ってる? 情報屋にはね、人物を扱う極秘リストがあるの」

「へぇ。興味深い」

「ま、あんな商いしてたらそりゃ必要になるわよねッ! ってなわけで。主にもうひとりの方が作成してた。ウチの生徒なら、ほぼ全ての情報が詰められてる」


 それは、場合によっては事件にすらなり得る代物なのではないか。と思ったが、黙っていた。


「三上春間もまた然り。彼の情報は付箋つきでまとめられていた――んだけど、今朝改めて読み返してみたら、なくなってた」

「……ふむ」

「綺麗さっぱり、跡形もなく。ページがなくなったならともかく、山田ナントカって生徒で上書きされてた。不自然よねぇ」


 たしかに不自然だ。

 でも違和感はない。こうして耳にしても「まあそうだろうね」くらいの感覚だ。

 魔女曰く、それが運命とやらが関わった結果らしい。

 ボクが何も言わずにいると、情報屋は笑った。まるで、お手上げとでも言いたげに。


「知れば知るほど、存在の希薄さを知る……その度、愛の深さに感服するわ! 今もあの魔女は、一途に彼を追いかけている。愛を知らない人間にはできない芸当ってカンジ」

「愛、ね」


 ガラスの魔女が持つ、愛の深さ。

 見る人によれば、それは『ただの固執』とさえ断じられてしまう感情。でもボクらは知っている。彼女から三上へ向かう矢印の大きさに、勝てるやつはいないことを。そこには信頼や願望といった、人間特有の感情がいくつも混ざり込んでいることだろう。

 だけど、シオンちゃんが『愛』と呼称すると、こちらもそんな気がしてくる。


「そういえば訊いてなかった。ずっと疑問だったんだ。君、どうして魔女の復活に協力的だったんだい?」


 丸椅子にあぐらをかいて、ボクは聞く姿勢になった。


「……もうここまでくれば薄々気づいているでしょうけども。『愛』を知りたかった」

「それは、君が知らないものだから?」


 シオンちゃんが、腕を額に乗せた。下から、冷たさを感じさせる瞳が覗いていた。悩みらしい悩みを彼女が覗かせるのは、初めてだった。


「うん。心底、あのふたりが羨ましい。愛はおろか、恋すらも理解できない自分からすると、とんでもなく眩しい。太陽――ってほどじゃないけど、夜に輝く月くらいには眩しい」

「月って、そんなに眩しいかな」

「眩しい。何もかもが暗い夜。ぽつんと浮かぶ満月。見あげれば、すこし目を細めてしまうくらいには眩しい。あのふたりの愛は、夜に浮かぶ満月くらいに明るいの」

「……そっか。愛、か」


 あって当然のものについて、考えてみた。

 彼女は、愛や恋といった感情がわからないという。

 ボクには理解できる。できてしまう。詳細に説明はできないけれど、他人を好ましく思ってしまうのだから仕方がない。それは、生まれたときからプログラムされていたかのように発現し、こうして胸の奥にある。

 思えば、不思議な感情だった。

 恋、愛。それらを余すことなく完璧に説明しようとすると、口が止まるだろう。ボクら人間は大抵、よく知りもしないくせに「自分は恋をしている」などと決めつける。だから本心に対して誤魔化すこともあるし、一線を越える際に葛藤が生まれることもある。嘯いた結果本心にすり替わることだってある。でもその感情を抱いてしまったのなら、決してニセモノではない。ひどくあやふやで曖昧だ。ままならない生き物だ。

 片勿月シオン。彼女がそれらに抱く羨望は、きっとその真摯さゆえに、なのだと想う。大切な感情は、言葉で説明しなければ気が済まない。詳細に理解しなければ浸る権利も存在しない。

 自分とは?

 他人とは?

 胸を占めるこの感情は、どう説明できるだろうか?

 もし『恋』だとするならば? 今の自分で受け入れられるか?

 ――そういう風に。彼女は常日頃から自問を繰り返しているのかもしれない。

 情報屋は、生徒の抱く恋心の手助けとなることが本質らしい。皮肉なことだが、こういう、恋愛に真剣すぎる人物こそが情報屋として相応しいのかもしれない。

 シオンちゃんが口を開く。


「聞いたことない? 恋と愛の違いを問われたとき、同じ答えを述べるヒトが多いらしいの。恋は自分に重きを置いた感情で、愛は相手に重きを置いた感情だって」

「なんとなく、耳にしたことはある。言われてみれば、と納得もできる」

「あのふたりはどう? 自身の恋心を自覚しながら、自身を犠牲にしてでも相手を優先する生き方。中学生が抱いていい代物じゃないでしょ。子供がバズーカ持ってるみたいなもんじゃない?」

「はははっ、面白い例えだね。バズーカは大人でも持ってないよ。……でもたしかに、あのふたりは異常だ。別の世界にいるようなあの感覚は、ソレに起因しているのかもしれない。ある種狂気的で、魅力的だ」


 ボクは、ズ、といちごオレを飲み切って、彼女を真似る。視線を持ちあげる。そこには美術室の天井があるのみだけど、物思いにふけるには十分な無機質さだった。

 三年前から、彼らは変わっていない。

 ガラスの魔女は三上のために。

 三上はガラスの魔女のために。

 共依存と呼ばれればそれまで。大人はまるで罪深い関係性かのごとく断じる対象かもしれない。

 でも、そんなのは物の見方じゃないか、とボクは思う。子供だから、そんな関係はいけない? 当人からすればありがた迷惑な話である。

 彼らに赦された時間は刹那だったというのに、それでも避けるべき関係性だろうか。

 そも、彼らの恋愛は共依存と呼んでいいのだろうか。彼らの向け合う感情は、自己満足の塊だろうか。


 違う。情報屋の見立てどおり、彼らは普通ではない。


 そう──ボクにとって三上と魔女の関係性は、ありがちな恋愛を超越した何かだった。

 短い時間しか残されていない。でも『魔法』というカネより価値の高い報酬はあって。もしもそんな状況に陥ったのなら、ボクは正気で居られない。混乱するし、暴走するし、好き勝手に思う存分にやりたい放題するだろう。でないと割に合わない。寿命が数年に縮められて、好き勝手できるチカラも得て、欲望を抑えるなんて普通できはしない。どうしたって、強引にだれかへ依存してしまう未来がみえる。

 なのに、魔女はそうしなかった。

 三上春間というひとりを選んで、最後の瞬間まで寄り添うことを願った。傀儡みたいに作り替えることもせず、自己満足に走ることもなく。対等な立場を保って、並ぶことを選択したのだ。理性の強靱さがイかれてる。そんな彼女の空気を読み取り、正確に合わせる彼も彼で異常だ。

 常軌を逸している。

 真っ直ぐ過ぎる。

 怖いほど、透き通っている。


「ふたりは、これから何をするつもりなんだろうね」


 求めあう二者。片や、抹消された存在。片や、死を間際に控えた存在。ボクにとってはいつだって予想がつかない存在。

 ゆえに、ふたりがどうやって再会するのか、それ以前に再会できるのかすら不明瞭。

 消えそうなロウソクみたく儚さを背負い、それを気にも留めず、魔女は行動している。涼やかな顔で淡々と。どこまで見通しているのか定かではないが、彼女のひたむきな姿は、今日も帽子をかぶっているに違いない。

 またいつか、三上がここへ来ることはあるのだろうか。


「まったく……普通じゃないわよねーっ」


 寝転がったまま、彼女は背伸びをする。

 本当にそうだね、と心のなかで答えて、ボクは紙パックをつぶした。

 普通。普通ってなんだろうか。物語の一節に書かれていそうな問いの答えを、ボクは持ち合わせていない。哲学的な風に考えることもできない。

 でも、三上と魔女が普通でないことは知っている。

 きっと、いや間違いなく、彼らの出逢いからすべてが普通ではない。

 偶然の連続であるべき毎日が魔法で歪んでいるだろうし、死を見据えた魔女と足並みを合わせるように、三上の価値観も変えられていく。外側からみつめると、彼らの考えは読みにくい。

 そんなふたりが何を起こすのか。

 予想がつかない。


「……それで、ここにいていいの?」

「ん?」


 シオンちゃんが、ちらりと視線を投げた。

 魔女が三上を取り戻そうと躍起になっている傍ら、ここで筆を取っていていいのか。彼女はそう問いかけていた。

 ボクは首を振った。


「ボクの役目はないよ。頼られたら何かしら手助けはするつもりだけど、こちらから水を差すつもりはない」

「それは、なぜ?」

「あのふたりを、ふたりの関係を、愛しているからさ。それに、そんな間違いを犯してまえば、どうしようもなくなる」


 自嘲的にそう答える。彼女には首を傾げられた。


「魔女の気持ちは、すこしだけ理解したつもりだよ。夏にシオンちゃんが教えてくれたとおりね」

「教えた? って……ああ、三上春間の記憶のこと」


 そう。ガラスの魔女が風鈴を用い、三上の記憶を奪っていたこと。大事な記憶に限って忘れさせていたこと。

 もちろん、いろいろ事情はあるのだろう。

 けれど、彼女自身が抱いた感情が引き起こしていたことは確かで、ボクはシオンちゃんから教えられていた。

 その感情が、今はすこし理解できる。

 要は、顔向けできなかったんだ。三上に。記憶を消した魔女は、自分が許せなかった。看過できない何かがあった。だから、呪いじみた魔法をかけた。不器用なことに。


「あの尊い人間関係を壊してしまったら、ボクはなかったことにはできない。二人の間に挟まることはボクにとっては大罪で、恥ずべきことだ。つまり自分は欲を抑えられなかったということ。律することができなかったということ。ボクはもう魔法が使えない。いや、使えたとしても、都合よく忘れさせて間違いを隠すことはできないだろうさ」


 ほら、簡単でしょう?

 ボクは肩をすくめた。


「邪魔をするくらいなら、いつも通り過ごすさ」


 シオンちゃんが、すこしだけ不安そうな表情をした。視線の先は天井だった。


「知らないところであの人たちが道を踏み外していたら? ピンチに陥っていたら? それこそ恥ずべきことじゃないの?」


 ああ、それは心配いらない。

 なぜなら、


「今回の重要人物は、三上と魔女。それで十分だからね」


 ボクは背を向けた。また創作へと耽っていく。

 腕はまえより重い。きっと気分によるものだ。

 魔法という万能に近い力を失った今、ボクは筆の扱いを改める必要があるらしい。だってそれが普通のことだから。本来持っているべきものだから。

 受け止めよう。この重み。

 見届けよう。託した彼らの結末を。



 ああでも。

 ボクにできることがあるとすれば、アレくらいかもしれない。

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