3-3
──皮肉だけど、これがきっかけなのよ。
浮かんだ文字が、滲んで掠れ、やがて消えた。
私はガラスペンを手に取り、先をインクに浸す。キンキン、と余分な量を落としてから、羊皮紙に文字を書く。
──きっかけ?
数秒して、問いかけの右下に返答が現れた。
──ハルマが決意してしまった。たしかに、彼の想像した『ガラスの魔女』は失敗作で、ニセモノだったけれど。それでも、本物と見間違うくらいには精巧だった。何なら私よりも私らしいかもしれないわね。
それを失敗とみなしていいのか、私にはよくわからない。しかし未来のハルマがそう判断したのなら、きっとニセモノだったのだろう。そう考えることにした。
さらに文字が答える。
──本物と遜色ない魔女、それもハルマの願望を得た存在は、彼にどんな呪いをかけたと思う?
かち、かち、時計の針が鳴り響く。
文字がまた、滲んで消える。羊皮紙は白にもどる。ボールペンならまだしも、ガラスペンによる色をどれだけ落としても、そこは空白にもどる。
未来の私との会話は、その繰り返しだ。
一人部屋には大きな環境音。吹き込んだ風が足下を冷やし、遠くからは夏の風物詩が大合唱。昼間、病院に居たときに比べると、より思考は冴えていた。
──そう。それで決意、ね。ハルマの創り出した魔女は、『何としてでも私を復活させろ』とでも命令したのかしら?
決意、と紙面越しの彼女は表現した。
その決意がどんな決意なのか、今ははっきりしていた。
──正確には何とも。けれど内容としては同じでしょうね。この失敗がきっかけで、彼は自分自身の価値を軽くして。それで、何としてでも私を生き返らせよう、なんてバカなことを考えたんだと思う。
──こうして話している未来のあなたが生きているのは、元を正せば、ハルマの使った宝石が失敗したから。そう言いたいわけね?
──成功していれば最高。失敗してニセモノができても、冷たく突き放していればまだ望みはあったかも。
何となく、読めてきた。
魔女の死後、彼が歩んだ軌跡の大まかな流れが。私がいない人生で、彼はそれなりにやっていたようだ。
あの教会のパツキンとまだ面識があるようだし、妹ともそれなりに良好な関係を築けている。
とくに妹に関しては、自殺などという選択をえらんでいないことに安堵した。数年後の彼女が私をどう思っていようが、今日、病院で使った花瓶の魔法は、無駄ではなかったのである。
ともかく、話題は宝石だ。二年後の春に起こる、私が遺した魔法による騒動だ。
ハルマが死ななくていい未来をつくるために、私にできることは? それは、ハルマに『決意』させないことだ。命を捨ててしまうほど私に入れ込ませないことだ。
そのきっかけを変えるにはどうすればいいだろうか? 決まっている。
──過去の私。あなたは、宝石の練度を上げて。完璧にガラスの魔女を復活させるか、もしくは、どうしようもない失敗に終わるよう、宝石を残すの。
「……まぁ、そうくるわよね」
私は背もたれに体重を預けた。昼間、病院で行き着いた、ひとつの可能性が頭に浮かぶ。
あまり当たってほしくない。
でも、確認せずにはいられないだろう。これは重要な駆け引きだ。今後の行動を左右する部分だ。
ガラスペンにインクを追加した。ちゃぷ、と浸し、フチを叩いて調整する。
すぅ、と息を吸い、ゆっくりと吐く。そして、細めた視線で白地に向き合った。
──ひとつ、確認したいことがある。
──どうぞ。
──あなた、最初に言ったわよね? 『未来を変えてほしい』って。
──そうかもね。
ああ、私だ。こいつは、紛れもなくガラスの魔女だ。雰囲気も、答え方も、掴ませない態度も私だ。
なら、きっとこの予想は当たっている。
──逆なんじゃないの?
それまで一定の間隔で現れていた文字が、途絶えた。最初の問いかけから、薄っすらと滲んでいく。
夏の風が吹き込む。
蛙の声が運ばれる。
時計の針が一分を刻む。
私は重ねて尋ねた。
──本当は、あなた自身と同じ人生を歩ませたいんじゃないの? あなた、私なのよね? ならあやふやで確実性のない過去の私なんか頼らず、自分で確実に手に入れようとするんじゃない? 私に同じ道を歩ませて、宝石騒動は失敗に終わらせて、最終的にハルマを犠牲に復活して……その先の何かを、そっち側で企んでんじゃないの?
これは予想だ。
あまり当たってほしくない予想だ。
儚い期待をしかし、もうひとりの私は、
──正解。
肯定した。
わずかに目を見開き、鋭くする。
インクをペン先に追加し、立て続けに文字を綴った。
──あなたはハルマを殺したいの?
──まさか。さっきあなたも言ったでしょう? 私はあなたなんだもの。
──違う。見過ごすのかって訊いてんのよ。自分の復活のために。
──場合によっては。訂正するわ、過去の私。私はね、あなたと同じだけど、決定的に違う部分もある。
──なによ?
──見てきたもの。感じたもの。体験したもの。背負ったもの。決意したもの。あなたとは違う。
ふざけるな。
──でも根底にあるものは変わらないはず。ハルマを死なせるなんて正気じゃない。
──あなたにはわからない。
ふざけるな。
──何が言いたい。
──見据えているものが違う。おわかり?
認められない。
──だとしても、ハルマを犠牲にするなんて一番除外すべき手段よ。私は未来のあなたと同じだと思ったから、自分を律して、制御して、我慢してきた。なのに、どこで気が可笑しくなった?
──なにを言ってもムダ。
カッとなる。
ぎゅ、とペンを握る指に力がはいり、ギギ、と爪が音を立てた。
怒りでどうにかなりそうだ、理解できない、どうなっている。
ひとりの部屋。静かに流れる刻のなかで、私は震えていた。トドメと言わんばかりに、一文が突き刺さった。
──今のあなたじゃハルマを救えない。
「ッ、ッッ!!」
ギリ、と歯が鳴った。
ダン、とペンを叩きつける。
インクボトルを払い落とす。
床に広がる黒色。
なら、私はなんのために我慢してきた。
なんのために、ハルマを裏切って、全部なかったことにしてきて、応えたい気持ちさえも押し殺してきた。
死後、ハルマを犠牲に復活するため?
ふざけないで。
そんなの受け入れられるわけないじゃない。赤の他人すら犠牲にするのは
想像し、手のひらに目を落とす。身体は恐怖に怯えていた。震えが止まらない。
「は、ぁ……ッ、はぁッ……!」
荒い息を意識する。
膝を叩いて、自分を痛めつける。食いしばった歯がギリギリと擦れる。
キッと、ガラスペンを睨む。使い続けたペンが転がっている。行き場を失ったインクが滴っている。黒いインクは、ノート越しの魔女が抱く感情を混ぜ込んだようにもみえた。
もう、頼らない。
私は私のやり方で未来を選ぶ。
そうでなければ、なおさらハルマが死んでしまう。未来の私自身が殺してしまう。
そんなのは……いやだ。
私はガラスペンに手を伸ばした。
暗い部屋。それまで夏の夜の囁きだけが吹き込んでいた部屋に。
パキ、という破砕音が、響いた。
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