3-1
聖職者とて人間である。睡眠欲には抗えない。もとより完璧とはいいがたいシスターだ、同業の方々にしてみれば、これほどまで滑稽な教会勤めもいないだろう。友人にエセ呼ばわりされる現状にも、違和感はなかった。
普通のシスターは、何時ごろに目を覚ますのだろう。神聖な人々は、
だれにもなれない曖昧な存在を自覚しながら、私は穏やかな時間を漂っていた。シーツの感触に身を沈め、秋の静謐な眠りを享受していた。ぼんやりと浮上する意識で、数分を惜しむ。もうすこし、と眠りを堪能していた。
──が、唐突にカンカンカンッ! とけたたましい音が鳴り響いて、私は反射的に顔を持ち上げた。
「なっ、なん、ですか」
同時、シャッとひかれるカーテン。差しこんだ光が顔面に直撃し、思わず顔を背けた。
私に光を当てるな。だれだ勝手に目覚まし時計をセットしたやつは、私ですか? いや、今日は急ぎのスケジュールはない。寝坊しようと怒るものはいないはず。
寝ぼけ眼で、諸悪の根源をみあげる。
そこにいたのは、腰に手を当てた魔女だった。
「起きなさい、パツキン」
「……」
あっさりとした声音。
魔女帽子はかぶっていない。ネズミを彷彿とさせる暗い前髪の向こうから、眠気を感じさせない瞳が見おろしていた。
「……」
「……追い出しますよ」
布団をかぶる。
ここの家主は私である。泊めてやっている恩を忘れたのだろうか、この女は。私は再度、穏やかな眠りに沈もうとした。
しかし、かけ布団は勢いよく引っ剥がされてしまう。ひゅお、と秋の寒さが寝間着越しに攻撃してくる。
冷め、否、覚めてしまった眼で、いよいよ魔女を睨みつけた。
魔女はひと差し指をくるくると動かしていた。指揮者を思わせる彼女の視線の先では、かけ布団がバタバタと折り畳まれていく。
「……なにしてくれてんですか、土曜日ですよ、私の寝坊日和が……さむ……」
布団をベッド脇に放り、魔女が「あなたね……」と呆れ顔をした。
「もうすこし、身をわきまえようとは思わないの?」
黒いジャンパーから伸ばした腕のさき──指がぱちんと音を弾いた。壁際の暖炉に、火がつく。
魔女はその前へしゃがみ込み、小窓を開けた。ブロック感覚で積み上げた薪の山を見やると、慣れた手つきでくべていく。
「今日は鐘之宮中学へいく約束でしょ、忘れたの?」
「……延期、しませんか」
「あのね、
「私たちの……仲ですから」
「却下」
魔女がじろりとこちらを一瞥……した気配があった。目を閉じたまま感じとった。次いで、はぁ、というため息が聞こえる。ぱちぱちと活動を始めた暖炉の扉を閉め、衣擦れが立ち上がる。
「朝食つくってあげるから、あんたは身支度なさい」
眠りたい私の顔面に、ハンガーにかけていたはずのシスター服が投げつけられた。
足音が部屋を移動する。
鍋に水を注ぐ気配がする。
冷蔵庫をあける音がする。
身近で流れ出す生活音。覚醒した自分であれば、目を点にしていたことだろう。あの魔女が料理をしている。三上さんならともかく、こんなエセシスターなんかのために。しかも勝手に私のエプロンまで身につけて。
依然として欲求の海を漂いながら、意外に思う。意外に思うと、いやでも自分は浮上していった。
重い瞼をあける。
キッチンスペースの方へ、細めた目を向けてみる。すでに、ウインナーの香りが部屋に充満しはじめていた。
ボウルに卵を割りいれる背中が、ちらりと私に気づく。その横目は「ねぼすけ」とだけこぼして流された。
……イヤでも意識がはっきりしてくる。
かちゃかちゃと卵をかき混ぜながら、思いついたように指をまわす背中。その度、コンロにかけられたフライパンが意思をもったように揺れる。
まだ夢の中か、とも思ったけれど、鼻腔をくすぐる香りが否定していた。ベッド脇の時計を眺めて、すでに十時をまわっていることに気づいた。黒いシスター服は、シワになることなどお構いなしに投げつけられていた。それに若干の不満を覚えながら、たたみ直す。
ゾンビのように立ち上がる。後ろ姿で命令する彼女に、私は軽く頭をかいた。
丸テーブルのまえに腰を下ろすと、すでに朝食が並んでいた。
ウインナーにオムレツ、インスタントの味噌汁、焦げ目のついた食パンにはマーガリンが乗っている。
……一品だけ和色が混ざりこんでいるし、卵の使いすぎか、オムレツはでかい。まぁ、魔女にそのあたりの器用さは期待してはいなかった。むしろアンバランスさが期待どおりだった。用意してくれただけ感謝しよう。
私は座ったはいいものの、しばし呆然としていた。魔女がコップに牛乳を注ぐ様を何の気なしに凝視する。
なんだか憂鬱である。普段ならまだ夢うつつだったというのに、それを脅かされたのだから当然ですが。
「目は覚めた?」
頬杖をついて、魔女が食パンをかじる。サク、という朝特有の音で、意識が引き戻された。
味噌汁のお椀を手に取る。
「あなたの変な生態は、アラームの代わりになりますから。目覚めは最悪ですがね」
魔女がふん、と鼻を鳴らして、フォークを自身のオムレツに突き刺した。
「妹さんもせっかくの休日でしょうに、あなたに付き合わされて大変ですね。罪悪感は?」
「あるに決まってるでしょ。木陰少年の方がよかった?」
「まさか。今は受験勉強で必死ですよ」
「でしょうね。だから由乃しかいない。他にツテがあって、かつこちらの事情を察していて、その上協力までしてくれるヒトなんてあの子くらいなの。みんなハルマのことも忘れてるしね。三上家には後日、砂浜で拾った空き瓶を贈り届けてやるわ」
「嫌がらせですか」
「綺麗なやつよ? 小さい頃に拾った思い出の品でもある。テラリウムにでも使えるんじゃない?」
「猫が恩返しにネズミを捕まえてくるような所業ですね……やめた方がいいですよ」
「あっそ」と魔女は流す。
それから、ぐび、と牛乳を飲んで、オムレツとウインナーを口に運び、さらには新聞まで取り出した。
……我が家のような振る舞いですね、この女。
抗議をウインナーとともに飲み込む。
「先週の雨は引いたようね。なら、この一週間が勝負よ」
新聞の目的はそれだけなのだろう、手短にそう告げて、食事にもどる魔女。
その顔へ、素朴な疑問を投げかけた。
「勝負? なんの」
「こっちの話。無駄話してないでさっさと食べて。もうすでに遅刻してんのよ? あんたわかってる?」
「……」
妹さんなら、別にそこまで気にしないと思うけれど。この人は本当に、三上さんのこととなると面倒くさくなる。
……オムレツに手をつける。
「私、卵は甘い方が、」
魔女は私のオムレツを奪いとり、ガツガツとかき込んだ。
◇◇◇
魔女の目的は、よくわからない。
いや、大本命についてははっきりしている。ガラスの魔女がどれだけ澄んだ瞳で現実を俯瞰していても、内に秘めた感情はあの日の教会で、たしかにこぼされた。
その場に立ち尽くして堪えていた、喪失の瞬間。
糾弾され、拳を振るったあの瞬間。
その場にうずくまって泣くちいさい背中を私たちは覚えている。嗚咽がしばらく耳を離れなかったくらいに衝撃的な出来事だったけれど、そういうものはやがて時間が解決してくれる。あまりにかけ離れたイメージはしかし、日常にもどると同時に馴染んでいく。今、記憶に残る彼女の佇まいをそのまま映しとったように、魔女は生きている。
狂いはないようにみえる。あの頃とまったく同じにみえる。でも、話すと別人と相対しているかのような錯覚を覚える。
すこし考えて、その理由に気づいた。気づいてしまえば、魔女の印象はとんでもなく単純な生き物へと変わった。
口から発せられる声音や、行動に紐づいた動機、意見を述べるたび振りかざされる独特なものさし。数刻のうちに、幾度も混ぜ込まれる彼の名前。そのすべてがひとつに執着している。
かつて私は、彼女のことを「化け物」と貶めた。
訂正はしない。けれど、間違っていたことは認めよう。甘くみていた、という意味で、魔女はどうしようもない。
今まで押さえ込んでいた反動だろうか、彼女はどこまでも三上さんを求めている。彼のためならば、なんでも成してしまう危うさを秘めている。なんなら気持ち悪いくらいひたむきだ。羨ましいと思いつつ、次の瞬間には「やっぱりここまで吹っ切れたくはない」と手のひらを返してしまうほど、迷いがない。それなのに、その行動の果ては綺麗な理屈に収まっているように聞こえるから、恐ろしい。
私は彼女を理解することなど、半ば諦めている。理解できなかった三上春間の一途さのさきにいる少女だ、なおさら絶望的だろう。類は友を呼ぶ、ということわざがあるけれど、きっと三上さんは呼ばれた側で、呼んだのがガラスの魔女なのだから。
結局のところ、これはひとつの教訓だ。私、
三上さんはやはり──世界から外れてしまったのだ。
「ハルマを感じたい」
入校許可証をもらい、最初の廊下の角をまがったところで、魔女が気持ち悪いことを言い放った。
「……今、鳥肌が立ちました」
「は、はは……ぶれないね……」
妹さんが苦笑いする。私は二の腕をさする。しかし彼女はいたって真剣に続ける。
「わるいけど、私をひとりにしてくれる? スムーズに入れたのはあなた達が同行してくれたお陰。それは感謝してるけど」
彼女が単独で訪れれば厄介なことになるのは目に見えていた。
魔女はここの卒業生──になるはずだった生徒だ。卒業するまえに消息を絶った存在が、この鐘之宮中学校の名簿にどう記されているのか。それは彼女も不安視していたらしい。
そこで、見学という名目で私たちが巻き込まれたわけである。
未だ教員と面識がある妹さんはほぼ顔パス、私は「うちの教会へ不登校の子が相談に来まして」なんてホラを吹いた。
……ちなみに魔女は「気晴らし」とあっさり答えた。もうちょっと取り繕おうとは思わないのだろうか。
「で、ひとりであなたは何を? 生前から三年経った母校です、時間の許す限り堪能するわけですか?」
「ええ。ハルマのいた場所をすべて巡るわ。私にとってはつい数ヶ月まえの出来事だもの、座っていた位置までココにはっきり刻まれてる」
そう胸を張って、魔女はこんこん、とこめかみを叩いた。「お兄ぃのどこがそんなに良いんだか」と呆れる妹さんに、「見る目がないのね」と魔女は笑んだ。
「別に一緒にいても同じ気がしますけど……」
「……」
魔女がすん、として、こちらの目を無言でみつめる。
私は小首を傾げる。
魔女が平然と問う。
「知人が机や床を舐める
全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。反射的に数歩の距離を置く。
「……? なによ、あなただって木陰少年を妄想してひとつやふたつ、」
「妹さん、警察よびましょう」
「魔女さんだから多分、国家権力は役に立たないと思うよ……」
「今すぐ縛り付けて川に沈めますか」
「ま、まぁまぁ。冗談だと思う、よ? ね?」
「……」
魔女は無言だった。
「行きましょう妹さん。万が一何かがあっても、私たちはインタビューされる側で居るべきです」
「でも、こんな犯罪者を野放しにしてもいいの? あたしの後輩に害が及ぶかも」
「くっ、たしかに……心底嫌ですが、監視、すべきなのでしょうか」
魔女が腕を組んだ。
「黙って聞いていれば言いたい放題ね。というか普通、気味悪がって逃げだすのが正解でしょうが」
盛大にため息をつき、諦めたように肩を落とされる。彼女にとって、私たちは検問を抜けるためのモノでしかなかったらしい。冗談で言ったということが解って、ちょっと安心した。
しかし、彼女を監視するという理由を抜きにしても、今回はついていきたいのが本音である。三上さんの行方、魔女の寿命、きっと現状を理解し、どうにかできるのはこのヒトだけなのだ。いち友人として、無知な部外者でいるのは耐えられない。
「わかったわよ。退屈してもいいのなら、ついてくれば。ただし邪魔しないこと」
そう釘をさし、魔女が踵を返す。
決まったルートでもあるかのように歩き出す背中に、私と妹さんは顔を見合わせた。そして何も言わず、頷き合う。
閑静な廊下に、二人分の足音が追加された。
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