2-4
それは、絵画に刻みたいほどの記憶だった。
視線のさきを、ふたりが横切る。
一瞬、夢でもみせられたかとも思ったけれど、すぐに置かれた状況を思い出した。
ここは、風鈴のなかだ。
彼を仮病で連れ出した、思い出の光景。
私たちはあの日もバスに揺られ、このキャンプ場を訪れたのだった。黄色、赤色、そしてわずかに残された緑色……鮮やかな秋に包まれたそこは、現実にありながらも、現実からほど遠い。街の喧騒など届くこともない、落ち葉や微風の気配のみが満たす世界。ときおり野鳥が鳴いたり羽ばたくだけで、人間はふたりだけ。
自然に築かれた静寂。急かす時間から解放され、心地よい無言が流れる楽園。
幻想的だ。魔法を行使せず、ふたりきりを作るのは意外と難しい。私がここを選んだのは、やはり正解だったと実感する。
私は幽霊のように佇んでいたが、やがてふたりの足音を追いかけた。
さくり、一歩が落ち葉を踏みしめる。
無人のキャンプ場――本来ならテントが連なるであろう場所を、わずかにずれた足音が進む。目的もなく、宛もなく。夏の青々しさを忘れた絨毯だ、隙間時間を楽しむ彼らにはうってつけだった。
ハルマは魔女の数歩うしろを付き添いながら、静かに雰囲気を楽しんでいた。
紺色のカーディガンから伸びる、すらりとしたズボン。見慣れた母校の制服は妙に懐かしく、すこしだけまくった袖から、黒い腕時計が覗いていた。そんな些細な懐かしさでさえ、みていると目の奥がじんわりと熱くなる。
彼の視線のさきには、同じく制服姿の魔女が歩いていた。ゆったりとした足取りで、数歩先の地面を見落としながら。こちらは相も変わらず、黒色のカーディガンとスカート、スラックスといった出立ち。首もとのワイシャツを除けば、魔女帽子も含め、暗い装いに身を包んでいた。後ろで組んだ両手は、ゆるく指同士を絡ませている。
周囲は微風が漂うばかりである。山奥ということもあってか、時間は止まっているようにも錯覚した。ふたりがゆっくり、ゆっくりと進める歩みだけが、時間の流れを知らしめていた。
『……』
こうして第三者の視点から眺める印象は、鏡と対面しているのとは大違いだった。
魔女の細められた視線も、小さい呼吸も、たまに後方を気にする仕草ひとつとっても。
けれど、内心はとてもよく知っている。
遠くにある焦燥に反し、現在に浸る緩やかな停滞がそこにはある。
ただ自然を感じているだけではない。彼女が限りある残りの人生、束の間の幸福を噛みしめていることを、誰よりも知っている。同じ時間を共有できる幸福……それは唯一無二の宝であると。
と、一歩ごとに前髪を揺らす魔女をみて、声が静寂を割った。
「で、こんなところへ連れてきて、次は何用なんだ」
ああ、風鈴は鮮明に再現する。
私という魔法使いの感情も、もどかしくも甘いさざなりも、なにもかも。
懐古と言えるほど昔のことではない。なのに、とんでもなく遠くに離れてしまったようでもの哀しい。できることなら、今一度この手で触れてみたい。
しかし、それが叶わないことは明白で、この第三者視点がすべてを物語っていて……見入ってしまうけれど、私は静かに抑え込むことしかできない。
立ち止まり、魔女が薄らと視線を返した。
ひとつ、浅めの呼吸を挟んで向き合った。
「もうすぐ私はいなくなる。だから、時間のあるときに、気になることは済ませておきたいの。あなたに尋ねたいことがある」
ハルマは数秒考え込み、答える。
「俺から引き出せることなんて、たかが知れてると思うけど」
「それを決めるのはあなたではなく私。黙って私に訊かれて、本音をこぼせばそれでいい」
そういうものか、と彼は頭をかいた。
そういうものよ、と魔女は肩をすくめた。
ぱさり、落ち葉がひとつ、絨毯にのまれる。木々の伸ばした手先は、夏とは異なる様相だ。その気配を感じながら、数秒を情動が埋めていく。
「ねぇハルマ」
「なんだ、魔法使い」
微風がおさまる。野鳥が黙る。隙間時間以上に外れたふたりきりの世界が、静寂を深めた。合図もなしにかけられた魔法は、溶けこむ砂糖のように現実を味つけた。
「私につかってほしい魔法はない?」
その問いは、幾度となく投げかけられたものだった。彼にとっては二度目でしかないのだろうけれど。
しかし、それでも彼は応える。かつての返答をなぞるように、繰り返す。
「俺は、君とこういう時間を過ごせればそれで満足かな」
もたらされた声音を、魔女は真正面から受け止めた。魔女帽子越しの瞳は、夜色に彼の佇まいを浮かべていた。
わかりきったことだ。魔女が何度忘れさせようとも、彼は同じような結論を導きだす。当時の魔女にとっては当たりまえで、こうして眺める私にとっても揺るがない過去だった。
いつもなら、魔女は欲のない返答に不満たらしく呆れて、流すだろう。彼が覚えていない回数尋ねて、同じだけ諦めてきたように。
だけど、この日はちがった。
「……本当に?」
目つきをすこしだけ鋭くし、彼女は食い下がる。かつての自分はこんな顔で問い詰めていたのかと、些細な驚きがあった。
「ハルマ。私は魔法使いなの。ガラスの魔女。ガラスを介せば大抵の奇跡は仕立てられる。何を言いたいかわかる?」
「わかるよ」
「据え膳食わぬはなんとやら、って言葉があるでしょ。あなたは差し伸べられた手を振り払ってる」
「……振り払ってる、ね。モノは言いようだ」
「遠慮はいらない。願望を言って。思いのままに私を使って。それが人間ってものでしょ」
そこまで告げても、ハルマは意志を曲げなかった。首をよこに振り、「断る」と口にする。
魔女が眉を八の字にする。苦くて、痛い。当時の感情が未来の私にもつき刺さる。
「君が俺の奴隷になることを願おうと、認めない。君には時間のためだけに魔法をつかってほしい。あの日教室で交わした約束が生きているというのなら、譲れない答えだ。それでもいやだというのなら……縁を切ればいい」
そんなのは、
「卑怯なこと言わないで。これでもね、あなたとの時間はそれなりに楽しいの。そんなのは──認められない。どうして頼ってくれないの」
「頼ってないわけじゃない。君は俺にとって唯一無二なんだ。汚したくない」
魔女が手のひらを握り込む。
「魔法使い。君に俺が願える魔法なんて、限られているんだ。第一に、君が生き残るための魔法。第二に、死後生き返る魔法。そして最後が、君が孤独でない時間を得る魔法。それだけだ」
「ほとんど一択じゃない」
「いいじゃないか。それしか俺の願望はない。俺は君と過ごすための魔法がほしい」
「……ッ、そんなの、魔法すら必要なくなる。私の存在意義が」
「なくなると?」
「……、」
「魔法使いの価値は、魔法だけなのかな」
「……私の、価値……」
ハルマが真剣な眼差しで語る。声色は深く、透明な水のように染み込む。
「魔法がいらないならそれでもいい。これは極論だけどな魔法使い。君が残された時間を少しでも堪能できるのであれば──」
私の中の記憶が知っている。一字一句おなじ響きでもたらされる。
それは、私を貫く衝撃。世界の呼吸が蘇る、再起の呼びかけだ。まさに魔法がごとき一言だ。
気付かされる。伝えられる。
何にも代え難い、唯一無二の響き──。
ハルマは、わずかに空を仰いで語った。
その顔に、目を奪われた。
「魔法使いは、魔女である必要もないんだ」
魔女が唖然とする。
「魔女でなくても、魔法使いであるのなら、俺はそれで満足。大それたことをする必要もない。時おりこうして、他愛もない時間を共有できればそれでいい」
気づけば、私は胸のまえで手を握りしめていた。
風が、吹き抜ける。木の葉を落とし、絨毯を撫でる。止めていた自然の喧騒が、魔女の魔法をすり抜ける。止めていたあらゆる囁きが息を吹き返す。そんな芸当ができるのは、一人しかいない。
このとき、魔女はようやく理解した。
三上ハルマにとって、『魔女』と『魔法使い』はイコールではない。
『ガラスの魔女』は、超常の力をつかって現実を捻じ曲げる存在。反して『魔法使い』は、そんな異能なんて関係ない、ただ人としての一個人を示したもの。数多の人々とおなじ、ひとつの生き方を貫くだけの、私という存在。
例えば絵本のなかでは、両者とも同じような扱いだけれど。それでも彼にとっては別物だ。
考えてみれば当然だった。
初めて出逢ったとき、私はなんと自己紹介しただろう?
名前を告げただろうか? いいや、私はただ「魔法使いと呼んで」としか告げていない。その時点で、彼にとって『魔法使い』は『魔女』とは異なる意味として定義された。
ああ、だから私はかつて、あんなことを口走ったのだろう。あなたに名前を告げることを、夢──いや、野望として表明したのだろう。彼の名前を知っているくせに、本人は名を明かしていない。なんて不平等だ。
ハルマにとって『魔法使い』が特別な呼び名となるのも、やがて、私の人間としての部分を表す形容句になるのも、仕方がない。
「──、」
魔女は驚きの色を覗かせながら、周囲を見渡した。
さあ、と流れる木の葉。波にも満たない、落葉の蠢き。それを、初めからわかっていたかのように、微笑む。
この頃にはとっくに、魔女は受け入れている。彼の体質に疑問も抱かず、むしろ喜びさえ抱いていた。顔にはみせずにいたが、彼女が内心では、子供が目を輝かせるかのように堪能していたことを、彼は知る由もない。
「魔法使い?」
固定された視線が、ハルマへ引き戻された。
小さい声を咳払いで誤魔化し、魔女が小馬鹿にする。
「……物好きね、あなた」
強がりの口調。
「君に関して言えば、俺は面倒くさい男だよ」
くすぐったい会話が愛おしい。
それから魔女は気づかれないよう呼吸を落ち着けると、おもむろに帽子を脱いだ。
腕をつっこんだ彼女は、ほどなくして何かを取り出す。かと思うと、それを綺麗に放り投げた。
「これはちょっとしたご褒美」
受け取ったハルマが、首を傾げる。
「デジタル、カメラ?」
「それ、安物だからあげるわ」
「……撮っても、いいのか」
魔女が指を立てる。
「一枚だけ」
「……、」
ハルマがデジタルカメラに目を落とす。無言で。
「……」
「…………」
彼はなにを考えているのだろう。当時の自分と同じ疑問を、再度抱く。
男の子の指で握ったカメラ。注がれる、細められた視線。黒曜石のような髪色を、秋風が揺らす。
持ち上げられた瞳はどこか泣きそうで。
けれど、魔女は寄り添うこともできなくて。
嗚呼、ソレは、幸福で満ち足りている。でもすこしだけ足りない満足感だ。ツララ握るような感情を押し隠し、魔女は笑みを浮かべた。帽子をかぶりなおして、両手を広げながら。
壊したくない。
終わらせたくない。
刹那の隙間時間に、声が流れる。
「……ほら、どうぞ」
琥珀の森。黒い装いの魔女が、彼に身を晒していた。
普段なら不自然なピンぼけをするであろう写真も、今なら鮮明に光を写すだろう。魔女にとって最初で最後の、生きた証だ。
「──、ッ」
なにかに堪えるように首を振り、ハルマがカメラを構える。そのたびに、心が痛む。それでも平静を装い、魔女はシャッター音を待った。
一秒。
五秒。
十秒。
しかしカメラは、私を捉えなかった。
構えた状態で固まる彼が、絞りだすように声をかけた。
「……魔法、使い」
「なに?」
向かい合うふたり。鮮やかな景色に包まれた関係性。幽霊のように眺めながら、ビー玉を握る指に力がはいる。
「俺は、君に死んでほしくない」
「……知ってる」
あなたが想像するよりも。
「君がいなくなるのは、かなり寂しい」
「……それも、知ってる」
あなたが思うよりずっと深く。
「本当に、これでいいのか。どうしようもないのか」
「……ごめんね」
本当に、ごめんなさい。
同じ謝罪をしながら、私は手をひらいた。景色を反射するビー玉が、水面のように揺らめいた。
──カシャリ。
魔女の笑みが、落ち葉を舞い上げた。
木々の天蓋から見上げる空は、とても綺麗に澄んでいた。
崩れていく世界。
ひび割れ、剥がれ落ちていく記憶の光景。
風鈴の魔法が、壊れていく。夏の気配すら残さずに。
ビー玉が、花火のように弾ける。放物線を描き、彼方へ飛んでいく。
私はその軌跡を視線で追いながら、願った。
とてもわがままで、今更な願望。あの日風に言うのであれば、野望。
私は『ガラスの魔女』をやめたい。
運命を真っ向から否定して、『魔法使い』になりたい。
本当の意味で、ただの人間として、彼のものになりたい。
私は私を否定する。
『ガラスの魔女』のままでは、復活なんてできやしない。
◇◇◇
私は雨のなかに立っていた。
傘にボタボタと打ちつける雫が、私の心を冷やし、冷静な思考へと導いていく。失われた風鈴の魔法は、余韻をたちまち遠のかせ、すべてを濡らしていく。あまりの落差に生じた暗い感情をも、洗い流した。
ゆっくりと、視界をひらく。
雨は、私を急かすことはない。ただ決められた線を走らせ、地面に吸われていった。数秒まえに眺めていた色とはまた異なる様相の秋が、そこにはあった。
傘をすこしだけ傾ける。
ビー玉が描いた軌跡を思い出すように、灰色を見あげた。残像が創った足跡を記憶に留めようとして──その先が森に阻まれる。いや、構わない。現実では示さなかったハルマの居場所を、ビー玉は捉えてくれた。十分すぎる結果であろう。おおよその検討もついた。
帽子を指で持ち上げ、隙間に腕を突っ込む。髪を避けながら取り出したモノへ、目を落とした。
黒いインクボトル。
三分の一ほど減った、かつて会話につかっていたインク。そのフタへ親指を添えて、私は短く息を吐く。
「待っていて」
誰に届くこともない独り言。雨に塗りつぶされる空気の震え。それを置き去りにしながら──
キュ、と、ボトルのフタをずらした。
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