2-3

 車窓に雨が降りつける。

 本日は月曜日、鐘之宮市は曇天模様、人々の憂鬱を加速させる。

 ときどき横殴りの風が吹いて、ぱたぱたと悪天候を知らせた。もたれかけた頭に、タイヤの振動が伝わる。つん、と鼻先をかすめる雨の匂い。灰色の景色に、反射した車内の様子が映り込む。山道は黒を深めた木々が埋め尽くしていて、いっそうジメジメした雰囲気でバスを誘い込んでいく。

 雨は好きだ。

 中庭のベンチを幾度も濡らした空模様だとしても、毎日とすこしだけ違う空気をもたらすと知っている。捉えようによっては、より幻想的な時間へ昇華してくれると知っている。

 最後尾の席で、私はひとり、虚空を眺めていた。

 ひざ上に置いた、ハルマの日記。刻まれた在りし日の文字を指でなぞり、雨風と振動に身を任せていた。

 バスに揺られながら文字を追い、もう五回目だ。

 彼の綴った短い一日には、どうしようもないくらい濃い感情が詰められていた。私が消息を絶っていた三年間の罪が、紙面を介して伝わってくる。

 ハルマを傷つけ、苦しめた日々。希望を失った彼の、けれど頑なに想い続けた時間の結末が、ここにある。


「『魔法使いのためにさよなら』、ね……」


 独り言が、雨の音に吸われていった。

 文字の響きが胸を打つ。読み返すたび、染み込んでいく。彼のひたむきさが、痛みと甘みを伴って入ってくる。

 真っ直ぐな感情は褪せることなく、むしろ強くなっているように思えた。本当の私を知ってもなお、変わっていなかった。それほど、彼は『私』という存在をありのまま想ってくれていたのだろう。その感情に気づいておきながら、魔女は無視してきた。口にしないよう、遠回しに釘を指してきた。都合の良いときにだけ言葉を引き出しては、記憶を消してきた。

 なんと自分勝手なことだろう。彼を傀儡にでもしたい? 否、私はただ、結ばれてはならない立場だったから、恥ずかしかったから、消してきた。魔法の奥深くにしまい込んできたのだ。ならば触れ合わなければいいではないかと、他人が知れば言うだろう。しかしながら私は思っていたより人間味があったらしく、感情の制御はままならない。我慢にも限界があって、突発的に、流れで欲求を満たそうと踏み込んでしまう。そのたび、罪悪感を覚えながら突き放してきた。優しさに甘え、失態を拭い消しては何食わぬ顔で寄り添う、悪魔のような女だ、私は。

 だから、こうして突き刺さる痛みは、おそらく過去の行いに対する罰なのだ。真正面から向き合い、彼に与えた苦痛を知れと、そう言われている気がした。

 がたん、とタイヤが小石を踏み越えた。

 坂道を力強く登るため、バスがうなりを繰り返す。


「きっと、あそこなら」


 呆然と眺める景色、情報すべてが私の脳に入らない。定められた使命が、呪文のように私を急かす。

 ノートの紙面を指で撫でた。

 ハルマの足跡をたどって初めて、私は彼のとなりに並び立てる。

 目を閉じ、雨音に集中した。意識は自然と雑音を排斥し、私の感じる世界は雨と風と、窓ガラスに当たる衝撃音に絞られた。

 これでいいのだろうか。これは正しい道筋? 教会で、ハルマに帽子を被せられたその瞬間から、頭のなかには問いが浮かんでいる。

 未来の自分が選んだもの、過去の自分が選んだもの、そして今選んでいるもの。そのすべてが疑わしい。答案用紙も存在しない時間の流れ。

 ちょっとだけ大人びた顔つきで、本心を告げた彼の声が、遠くでさざめいている。何度消しても、何度忘れさせても曲がらない意志。その末、最初から決められたように自己犠牲の一歩を踏み切った結末。その残滓が、色濃く自分をカタチ創っている。


 ああ――迷いがある。やり方もはっきりしない。


 ただやれることを探して突っ走っているのが今の自分。私らしくない。スマートじゃない。非効率。

 でも仕方ないでしょう?

 ノート越しに教えてくれた未来の私は、もういない。だってかつて話した未来の私自体が、今を生きている自分わたしなのだから。

 雨音はいっそう激しく。

 定期的な慣性は相変わらず。

 バスは山道に揺られ、車窓は風と雨を受けていた。無人の客席は私が独占していた。

 私は睡魔を逃すように、顔を手のひらでさすった。そして、あとどれくらいだろう? と顔を上げ──しかめた。



 ざあざあ、雨が鳴る。

 びゅうびゅう、風が鳴る。



 無人の客席、過ぎていく山肌の景色。薄暗い車内、私の斜め前方に、彼の幻影とは異なる、別の人影が佇んでいた。


「……」


 黒いマントに身を包み、頭上には三角の黒帽子。ぼうぜんと通路に立つそいつから生気を感じることはできず、私は警戒心を引き上げた。

 傍ら、自分の魔女帽子がそこにあることを確認。次いで、運転手の背中を確認。

 宙に指を立て、す、と横にスライドさせた。これでこちらの声は届かない。雨風とバスの駆動音にかき消される。私とそいつだけの会話ができる。


 それを見計らってか、壊れたラジオみたいな声が流れた。


『あィ ム、うぃっチ』


 改めて、私は人影を睨んだ。

 あまりにも予想外な来客だ。乗客は私ひとりだと思っていたけれど、もの好きな存在もいたらしい。


「座ったら?」


 促すと、魔女擬きは小さく頷く。

 そして、ギュ、ギュ、と靴を鳴らし、私と同じ最後尾の席──反対側の窓際へと身を寄せた。彼女の歩いた跡は、砂まじりの雨で濡れていた。

 魔女帽子をかぶり、横顔を観察する。

 つばから覗く顔は、無だった。輪郭はマネキンのようで、それ以外の素性は影に覆われている。私を真似て造られた人形のようだけど、命となりえるような源が感じられない。どこかで落としてきたのだろうか。

 人形から視線を外し、独り言をこぼすように問いかける。


「姿を晒すシチュエーションとしては最悪ね。あなたは?」

『……ディ、ふぇくティ、ヴ。ゆー』


 となりを一瞥。細い指がこちらを向いていた。震えている。

 わずかに警戒心を解き、私は言葉の意味を反芻した。

 ――不完全な、私。

 歯車がこと切れる寸前みたいな声だ。あるいは曲がった針金がオルゴールを奏でるような、ざらついた声。

 よくここまでった。ほとんど奇跡に近い。もはや何がこの人形を動かしているのか、何がここまで長く硬い魔法を編み上げたのか不思議でならない。

 私は懐から割れたビー玉を取り出した。歪に分かたれた片方を、そっと人形のそばへ転がす。犬コロに飴玉をくれてやる感覚だ。


『……てン、キュウ』


 ぎぎ、と左手で手に取る人形。

 私は窓辺に頬杖をついて、ふん、と鼻を鳴らす。


 ざあざあ、雨が鳴る。

 びゅうびゅう、風が鳴る。


 やがて、人形は充電が終わったらしい。先ほどよりも通った、けれどやっぱりちぐはぐな声を発した。

 

『オリジナル。つもり? これかラ、どうする』

「足跡をたどる」

『ケンメイ? ね。意味、感じられなイ』


 窓に反射した人形が、かち、と小首を傾げる動作をした。


『その末、得られる? なにガ』

「ハルマの体験した時間、場所、感情が得られる。まずすべきことは、過去の私とのコンタクトよ。そのうえで場を整える必要がある。未来から語りかけていた魔女、つまりここにいる私が自身の存在を証明し、修正――消されないために」


 ガラスの魔女は、ノートを通して未来の話を聞かされた。未来に生きていた、私自身から。つまり、これから過去の自分とやりとりする必要があるということだ。今度は聞かせる立場となって。でなければ、今ここで呼吸している自分はウソになる。


『コンタクト、なければ、解決すルのではなクテ? すべて』


 たしかに、それもひとつの手だ。

 私が過去に干渉しなければ、ガラスの魔女はただなにも遺さず、ハルマとの時間に浸って、それだけで終わる。

 宝石の魔法はなかったことに。

 ステンドグラスは割れないことに。

 この不完全な人形も居なかったことに。

 そして、この私も復活しなかったことに。

 代わりに、ハルマは生き続けるだろう。私を思い出として、これからもずっと。とりとめもない日常を繰り返しながら。

 けれど。


「無駄ね」


 ギ、と人形が首を傾げた。

 私は脚を組む。


「……わかるの。私がただ無気力に死んだら、きっとハルマは後を追う。魔法使いを取り戻すための自己犠牲でもなんでもない。色彩を失った現実を身限り、私を救えなかった自責の念に押しつぶされ、耐えきれずに命を絶つ。それほどまでなのよ、彼の動力源っていうのは」

『自惚レ』

「なんとでも言いなさい。彼、私のこと好きだもの」

『……』

「なによその無言は」


 人形に目はない。しかし、ジト、と見られた気がして、咳払いで誤魔化した。


「それに、これから行く場所に限って言えば、理由は思い出巡りだけじゃないわ」


 それは? なんて気の利いた返しも期待せず、私は続ける。


「彼を探す手がかりがある」


 ぴく、と人形が首を動かした。


「おそらくハルマは、にいるのよ。過去でも未来でもない、日常から一歩逸れた別世界に。運命を騙した代償かしらね」

「こンきョ、は」

「ビー玉が割れたのは、彼が生きていないから。同じ地面の延長線上に立っていないから。写真の持ち主の居場所をさがす魔法──その結果は、常に二分される。ひとつは居場所を定め、その方向にビー玉が転がる結果。もうひとつは、なにも起こらないという結果」


 人形が、腕の関節を軋ませた。握り込んだビー玉の破片に目を落とす。


「割れたということは、エラーを起こしたということ。わかる?」

『……だかラ、あのオモイデ、ヲ?』


 頷いて、私はコンコン、と窓を小突いた。


「二重窓がわかりやすい。ここのは一枚だけど。いつかの日々、私が彼を連れ出したのは、窓と窓の合間の世界。すなわち、隙間時間。だれからも知覚されず、だれにも邪魔されない、ふたりだけの世界。現実から一歩ズレただけの、非現実が混ざった現実。ハルマが飛ばされたのは、そのさらに向こう側。単に連れ出しただけで入り込めるような隙間じゃない、正真正銘、隔絶された場所」

 

 そう、こちら側でビー玉が反応しないのなら、環境を変えるしかない。

 携帯電話の電波が繋がらないとき、よりキャッチできる場所へ移動することと同じ。こうして雨天に山奥へと運ばれているのはそういう理由からだった。

 しかもここの風鈴は、触媒とも縁がふかい。ハルマが持っているであろう写真をもとに探すのであれば、これ以上ない手がかりだ。


『アイ、スィー。でモ、ドうすル、見つケテ』


 やはり、突いてくるか。

 すこしだけ、背筋にぴりっとした感覚を覚えた。人形は腐っても私のコピーらしい、その些細な感情のほつれを見逃さなかった。


『……まさカ』


 そのまさか。

 私は口にせず、窓へ視線を投げた。

 雨に濡れた木々が、騒がしく抜けていく。


『こわス、つもり? フウ、リン』


 私は黙り込んだまま。人形は肯定と受け取ったようだ。

 数秒の絶句が、車内を満たした。ごうごうと勢いを増す雨風に反し、窓を挟んでこちら側は落ち着いていた。それが、沈黙を境に崩れていく。


『やめロ』


 声に棘が混ざっていた。


「いや」

『そんなこト、しても意味は』

「意味はある。非現実的なことを魔法でやってのけるには、それだけのが必要」

『ふざけないデ。過去は積み上ゲた自分自身モ同然、後悔、生む』

「後悔? 風鈴に込めた思い出こそ、後悔の証だというのに?」

『だガ同時に、ワタしの足アトでもある。消せバ復元不可能』

「そうね。今のは私の失言。あなたの言うとおり。それでも私は、あの魔法を壊すわ。自分を否定する」

『空論。机上。無益な喪失、気がおかシくなったノ?』


 人形の説得は正論だった。

 ビー玉をつかってハルマを探す。私がハルマから記憶を奪った分だけ、入り口はある。手がかりとなる。巡れば、もしかしたら窓の向こう側にいる彼へ指がとどくかもしれない。現実では失敗したが、風鈴に招かれた記憶の中でならば、居場所を突きとめられる可能性があるのだ。

 しかし、この方法は風鈴の魔法を失う。

 罪悪感でもあり、愛おしい記憶でもある夏の魔法――風鈴。過去の選択にして、私の後悔。それが消えてしまう。『すでにあるもの』を扱う魔法は『ここにないもの』を扱う魔法と相性がわるい。一度でも混ぜれば、その風鈴は使い物にならなくなってしまう。

 簡単にいえば、記憶は二度と振り返れなくなってしまうだろう。

 彼がこほした言葉、私が隠した時間。カギ付きの箱に詰めたいほどの瞬間が、代償として消費されるというのは、たしかに受け入れがたい。

 それでも、私は躊躇なく、遠慮なく実行しよう。だって、


「独りよがりの記憶とハルマ本人、どちらが大事か──火を見るより明らかでしょう?」


 反対の窓際から、ブワッと圧が放たれた。

 瞬時、視界の端から覆い被さる影。伸ばした髪が逆立ち、不恰好な腕が私の首を捕らえた。

 そのまま、ガクンと押しやられる。帽子がぱさりと落とされ、後頭部が冷えた窓に押し当てられる。ミシリ、と、背中の窓が音を立てる。追い詰めた人形の無表情は怒りが滲んでいるようにみえて、事実、彼女は感情任せに脅迫していた。

 カロン、と、人形の懐から割れたビー玉が落ちる。揺れる車内、しかし歪なカタチで転がることはい。運転手は相変わらず気にも留めず、その体勢のまま沈黙がながれた。

 雨の音。風の音。エンジンの音。現実から隔絶された時間。

 私は人形を下からみつめ返す。

 人形は人形らしからぬ空気を纏い、私を見下ろす。


『おまえハわたし、わたしハお前、すべてを喪う恐怖がナイの!?』

「ええ同じでしょうね、でもそっちは不完全じゃない? 私とあなたでは差がある。野心が足りないの。使に言わせれば──あんたそんな覚悟で、本当にアイツと添い遂げたいの?」

『……ッ!』


 ぎゅ、と首がしめられる。けれど、力はあまりにも弱々しい。

 軽い。恐ろしいほどに。中身はあるけれど、そのすべてがガラス製。色とりどりでちぐはぐな繋ぎ目、魔法が切れれば途端にガラクタになろう。

 その手首をつかんで、私は笑っていた。

 ああ、私は魔女だ。思っていたより魔女だ。ひとりに固執し、わがままを振りかざし、周囲を惑わせる。これを魔女と言わずなんと呼ぶ。けれど、そんな自分でも、自分たちらしくを貫きたかった。それを認めてくれた彼がいて、私も彼になら心を許していた。

 今の自分が、私は好きだ。

 この人形のように、ひとつの欲求だけで漂うだけではない。過去を抱きしめたまま彷徨うだけではない。様々な感情を踏まえたうえで、私は再び、彼に迷惑をかけたいと願う。

 ああ、私は魔法使いに戻りたい。ひとりに固執する、綺麗で残酷な、ただの『魔法使い』に。ゆえに、決断から迷いは除く。何なら嘲笑するように笑みを浮かべることだってできる。


「ガラスの四肢で、勝てると思わないことね」


 首にまとわりつく腕を引き剥がして、私は冷たく言い放つ。なんにせよ、お前には止められないのだ、と。


『……、ッ、』


 そんなことは人形自身がわかっているだろうに、人形はなおも抵抗した。

 なぜ、と私は眉をひそめた。

 なぜなら、と人形は答えた。


『彼ならバ、きっと止めル。彼なラば、そう望ム』

「──、」


 その、さして期待もしていなかった理由に、私は数秒、呆気にとられた。

 私を救った少年。

 私のために犠牲を選んだ命。

 ……そう。きっとこの場に彼がいたのなら、問答無用で止めただろう。私が喪うことを良しとしない。この人形は、今もなお自分に固執しているのだと思っていた。過去を大切にし過ぎるあまり、信念を記憶の魔法にのみ向けているのだと。

 けれど、ちがう。

 こいつはどこまでも彼の心情を夢想し、その実現に時間を捧げている。結末を見据えるのではなく、彼の理想そのものの実現を目指している。

 電池切れ近い命で。


「あなた、」


 しかし、私を問い詰めることで余計に消費したようだ。私が掴み、抵抗していた腕が──ガクン、と脱力した。

 ブツン、と針金の切れたような音が、手のひら越しに伝わってくる。ビー玉の補給にも限度がある。ガラスの存在にとってはこの上ないエネルギーだろうけれど、消費が激しくなれば当然意味がない。

 振り絞るように、人形が問いを発した。


『その、行為、彼ハ望むの?』

「……」


 ざあざあ、雨が鳴る。

 びゅうびゅう、風が鳴る。


「叶うのであれば」

『叶うのであれば?』

「彼は魔法使いにはなれない。どうしたって、魔女は唯一、私しかいない。だから、共に生き残るという選択から目をそらすしかなかった。妥協して、でもこれだけはと意地を貫き、そうして私だけを生かすことを彼は選んだ。その結果こそ、ここにいる私」


 そう、つい先日まで彼は生きていて、私は死んでいた。対価もなしに死者を生き返らせることは難しい。まして魔法も持たなければ絶望的だ。ゆえに、自己犠牲を選んだ。それくらいでしか、運命に抵抗できなかった。


「けれど、今生きてるのは私。私なのよ、彼ではなくて。命と時間を託された魔法使いなの。なら、私は彼を取り戻して、その隣にいることを選ぶしかないじゃない。私が死んでいた三年間、立場が逆になった今だからこそ、希望に指を伸ばせる。互いの間に、一片たりとも曇りは許さない。今度こそ自分の手で、阻むこのガラスを割るの」

『透明で遠イ距離、それヲ打ち壊ス……それを彼は望ムか?』


 そんなもの。


「愚問ね。そのために私は風鈴をこわすのだから。だって──彼とやりたいこと、まだ全然できてないじゃない?」

『――、』


 二人とも生き残る未来があるのなら、喜んで縋ろう。その願いは、その呪いは、私とハルマに共通しているモノだ。

 どちらもが、相手を想っている。相手を優先している。今も、どこかで「彼にだけは生きてほしい」と願う自分がいるほど。

 けれど、最善の結末はそうじゃない。

 いつか、またあの日々を共に。言葉にしなくとも、私も彼も理解している。叶うのであれば、そっちの方がいい。今度は私が意地を張る番だ。

 そうだ、これでいい。樹木の魔女も言っていた。運命を騙すために持つべき意識――彼と同じ時間を歩むためであれば、


「私は自分を否定できる」


 真摯に、ひたむきに。

 その言葉を耳にして、人形は動きをとめた。そして、わずかに視線をおとす。

 魔女のチカラ?

 は、そんなもの、そこいらの犬にでもくれてやる。認めない。彼の別れなんて聞きたくない。だから、否定する。魔女を否定する。その決断を否定する。彼の傍らでなければ生きていけない存在として足掻く。


 私は――魔法使いになるんだ。


 暗い車内。

 愛も変わらず呑まれていくバス、揺れる吊り革の下、見下ろす無表情が考え込んでいた。

 最後尾の席に倒れ込んだまま。薄暗い対峙がこちらの内心を覗き込む。

 その間、言葉はない。ただただ、じっと見上げて、私は押し黙っていた。


『……。キュー、あんどエー、終了』


 しばしの沈黙を経て、人形が私の首を解放した。一応の納得は得られたらしく、するりと退くと、ギ、と関節を鳴らして踵を返す。


『失敗、許サない、かラ』


 そうして踏み出そうとした彼女を、呼び止める。


「忘れ物」


 懐の破片を投げ渡した。

 振り返りざまに受け取り、人形が首を傾げる。

 ついでに人差し指を振り、通路の端に転がったもう一片も彼女の手のひらへ収める。


『……なゼ?』


 問う人形に、ふんと鼻を鳴らして、ガラスペンを振った。

 キン、と耳鳴りのような音を漏らし、人形のビー玉がくっ付いた。ひびは割れているし、元の球体を取り戻したかと言われると怪しい。けれどビー玉だとわかる程度には整った。

 ペンを胸ポケットへしまう。

 ガラスから生まれた人形にとっては、生命の源。魔女の触れたビー玉を、人形は握り込んだ。細い、無機質な指で。


『ワタしにはモう、時間など』

「ようやくわかった。あなたの動力源、でしょ」

『……』

「どうせ私の好意から生まれたのでしょうし、このまま山中で死なれるのも後味がわるいし。割れたビー玉くらいあげるわ」

『しかシ、ハルマを探すたメに必要』

「予備ならあるし。いいからそれ持ってどっか行きなさい。シッシッ」


 数秒をつかって、人形はビー玉と私を見比べた。

 残りの時間、せいぜい有意義に使いなさい。なんて言葉が反射的に出かかるが、そいつは自分の一部だということを思い出して飲み込む。

 自身に対して気取るなんて、滑稽な気がした。


『ありがとウ』


 人形はそんな心情をつゆほども気にせず、感謝を述べた。


 ざあざあ、雨が鳴る。

 びゅうびゅう、風が鳴る。


 瞬きをした次の瞬間、そいつはぱったり消えていた。濡れた足跡だけが、人形がいたことを示していた。


「……面倒な女ね」


 車内にチャイムめいた音が流れた。前方の液晶に、じき到着するキャンプ場の名前と運賃が示されていた。



◇◇◇



「お嬢ちゃん、帰りはどうするんだい」


 料金を支払い、傘を広げた私に運転手は尋ねた。


「このバス、午後にも来ます?」

「まぁ~……二時ぐらいになっちまうがね」

「ではその時に」

「あいよお」


 バスが去っていく。揺られていたときよりも大きいエンジン音を吐きながら、巨体は緑の奥へと呑み込まれていった。


「……」


 だだっ広い駐車場には、私だけ。

 傘越しにぼたぼたと、絶え間なく雨が打ちつける。アスファルトの黒い地面はあちこちに水たまりが形成されており、そのどれもが波紋を重ねていた。

 静かな世界。

 雨音だけに包まれた、私しかいない時間。

 空は相変わらず灰色で、今にも自然に押しつぶされてしまうのではないか、なんて怖さを感じてしまう。ここに彼がいてくれたのなら、それだけで違うだろうに。


 ちり──ん。


 ふいに届いたガラスの音。重々しい世界に、軽すぎる音が紛れ込む。

 それを聞き逃すことなく、私は足先を音源へと向けた。


 不思議なことに、キャンプ場は風が穏やかだ。山は天候が変わりやすいなんて話を聞くが、それに関係しているのだろうか? まあ、風鈴自体が普通でないのだし、風が強かろうと弱かろうと、現象は同じだが。

 駐車場から、キャンプ場へと入る。緑色のひらけた場所に出て、一層雨音はナリをひそめた。地面はアスファルトではなく芝生ゆえに、大抵の音は吸われていった。


 りん──ちりん、ちりりん──。


 代わりに、風鈴は存在感を増す。

 グラスのフチを弾くように、深過ぎず、だけど軽さを忘れず響かせる。秋雨に似合わない、夏の風物詩が手招いている。

 木製のコテージへと向かう。田舎ゆえか、管理人は不在だ。山奥にひっそりと佇む、無人の建造物であった。

 もの寂しい、ただ薄暗いだけの軒下に入って、私は傘を閉じた。そこはちょっとしたテラスとなっており、キャンプにきた客が水を汲めるよう、水道も備えつけられていた。今は水が出るのかも怪しく、蜘蛛の巣が張っている。

 辺りを見渡し、探していたベンチはみつかった。

 ダークウッドの二人用ベンチ。薪割りのおじさんが休憩用にでも使ってそうなソレは、今も変わらずそこにあった。


「……おかえり」


 誰に届くわけでもない、ひとりごと。

 その場に立って、私は静かに目を閉じる。

 雨の音に沈んでいく。

 一秒ごとに入れ替わる世界、呼応して高鳴る、胸の鼓動。

 風鈴の音色は、私を包むあらゆる雑音を、





 ちりんちりん──と、途絶えさせた。

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