2-2

 三上家を後にした私は、その足で百円均一ショップを訪れた。鐘之宮駅まえに密集したビル群、うちひとつの三階にあるそこで、小銭と相談しながら品を手に取っていく。エコバッグ、クリアファイル、子供が好むような菓子をいくつか。

 レジを過ぎ、エコバッグの値札をつけたまま、商品をつめた。ノートは大切だからクリアファイルに入れた。

 他に用事はない。足早に店舗を出る。

 駅前は比較的栄えているが、ぱっと見、私の知る三年前とは大差ない。駅を通り抜けて反対口に出た私は、階段を下り、公衆トイレのまえを横切り、喫煙所を避け、ロータリーの端を目指した。

 やはり以前と変わらぬ佇まいの電話ボックスをみつけ、静かに胸を撫で下ろした。

 一度、周囲を眺める。

 理由はない。ただなんとなく、周囲の喧騒に別れを告げるつもりで、視線を投げただけだった。

 肩にかけたエコバッグの紐をなおしながら、半透明な扉を開ける。身をすべりこませると、溢れていた世界の五月蝿さは、ぴたりと途絶えた。

 幸い、魔女帽子は傾ければ問題ないようだ。

 十円を入れ、受話器をとる。

 予備の銅貨数枚を指に挟み、記憶の番号を入力した。び、び、と古めかしい音が流れ、数字を入れ終わると、これまた格式ばった呼びかけ音が聞こえた。

 しかしそれも数度。相手は気前よく対応してくれた。


『もしもし』


 懐かしい女性の声だった。

 電話で耳にする声は、じつは本人の声に寄せた電子音、という話を聞いたことがある。実際に定かではないが、声の波長、大きさなどといった特徴を拾い、再現して伝えるという意味では噂どおりだ。そうでなかったとしても、「この人はたしかにこんな声だったかもしれない」と思わせるほどに近い声質だった。

 優しげな雰囲気の相手に、挨拶を返した。

 チャリン、と十円を投入して。


「お久しぶり」

『――、』

「……? 何か応えなさいよ」

『……い、いやその。驚いて』

「なにが?」

『貴女からかかってくること。貴女が生きていたこと。貴女が私を頼ったこと』

「魔女の呪いから生き残った人間がよく言う」

『何度も言ったでしょう、私は特別な魔女だったから。あなたのように儚く脆いモノを司ってはいなかった。生命溢れる樹木を司っていたからこそ、仮死状態で逃れることができたの』

「ええ偉大ね。なら後輩にアドバイスくらい恵んでくれてもいいでしょ」

『そうしたいのは山々だけど、最近はまた忙しくなってきてね』

「今はどこに?」

『学校で保健室の先生をやってる。結構おもしろいよ。高校生のなかには個性的で、目を惹く生き方をする人がいるものでね。大人が失くしてしまった純粋さ、大人が手放してしまったひたむきさ、そういった眩しい感情にあてられてるよ』


 まるでモルモットを観察してきたような表現だ。しかしあながち間違いでもないのがこの女性の特徴であり、非現実的な存在だった証拠でもある。

 チャリン、と十円を投入する。

 声に棘を含ませて、私は訊ねた。


「私のものに、手、出してないでしょうね」

『あら怖い』


 電話がおどけて笑う。

 覚えている。三上ハルマという存在を。腐っても魔女というわけだ。


『残念ながら、数度話した程度だよ。あとは……そうだな、去年の春に一度、頼みごとを引き受けたくらいか』

「なら結構」

『彼は、とんでもないことを成し遂げたね』

「ええ、そうね。彼はとんでもないことを成し遂げた。魔女のための自己犠牲だなんて、呆れたわ」

『嬉しいくせに。君、重いって言われない?』

「……別に。一途なだけよ」

『相手を殺めてでも添い遂げたいのなら、それは執着と呼んだ方がしっくりくるけど?』

「ほとんどの人間はそう口にするでしょうね。それは自分本位の執着なのだ、って。でも残念、私はもともと、こんなやり方は反対だった。根はイイコなの。それにね。結局のところ、一途も執着も、思考を占める割合のこと。ヒトのぶんだけカタチがあり、ヒトのぶんだけ割合があるだけのこと。私はちょっと執着寄りにみえるだけ」

『ふぅん。なかなかどうして弁が立つ』

「魔女は得てしてそういうヤツよ。自己紹介?」


 チャリンと、また十円を投入する。

 話題を切り替えるように、一拍を挟んだ。


「ねえ。気まぐれに狂わされたマイナス一は、どうしたら覆せると思う?」


 指に残された一枚の十円玉を睨みながら、私は訊いた。

 マイナスされた一人分の命を、救い出すこと。それがどれだけ難しいことか、私は知っている。五年間仮死状態となることで逃れた彼女であれば、なにか知っているかもしれない。そう思って尋ねた。


『手っ取り早い方法がある』

「教えなさい」

『だれかを殺せばいい』

「……論外」

『君のそのプライドを無視すれば、案外簡単に彼は取り戻せるよ」


 たしかにそうだ。正解だ。私が魔法をつかって、非現実的な手段でだれかを消せば、世界は正しい姿にもどる。

 『命の総数』から一人分が差し引かれていない状態は、犠牲なくして修正は不可能である。

 一週間まえ、三上ハルマが消えたことでマイナス一の定義は満たされていた。私も魔女ではなくなった。けれど、こうして魔女にもどった今、再び現実はマイナスを求めている。魔女がまだ生きている、だから一人減らさなければ、と運命は躍起になっていることだろう。

 逆を言えば。私が魔女にもどった以上、狂った数を修正するために、ハルマは生き返る──はずだった。

 しかし、ビー玉は居場所を示さない。「彼は存在しない」と無慈悲に告げている。

 それが、ひとりぼっちのガラスの魔女が置かれた現状だった。ハルマは死んでも生きてもいない。ただ消えている。マイナス一という条件が満たされていないはずなのに、ひとり分の命が足りない今だけが残されている。


「それでも、だれかを犠牲にはしない」

『心に決めるのは自由だけど、なぜかな?』

「そんなことをしたら、私は魔法使いになれなくなってしまう」


 彼が惹かれているに、なれなくなってしまう。


『ふぅーん……嫌われたくない、ってところかな? じゃあ仕方ない。本当に君は、魔女らしくないね。残酷さを綺麗さで飾った、異例の魔女だ。まぁ実際? この方法ならできるんじゃないかなーという予想はある』


 言え、と無言で問い詰める。

 すると、彼女は間延びした声で返した。


『タダではやだなぁ』

「……、はぁぁぁぁああああ──」


 ため息をついた。


「そんな流れになると思ったけど。あなたのお子さん今何歳? 三歳よりは上よね」

『話がはやくて良いねえ』

「今そっちにコップはある? 花瓶でも金魚鉢でもいい。あ、中身は捨てて。空にしたら手近なところに置きなさい」


 席を立つ気配と、足音が聞こえた。私はというと、エコバッグから小袋に詰めたお菓子を取り出し、四角い公衆電話の上に乗せた。

 数秒後、再び彼女が電話口にもどってくる。


『用意した』

「そのガラスは何色? 柄はある? 特徴は?」

『んー、口より底の方が面積は少なくて、細長い。すこしでこぼこした模様があって、ところどころに黄色の花が描かれてる。コスモスだね』


 目をとじ、むむむ、と想像する。告げられた特徴をイメージしながら、私は右手を菓子袋にかざした。

 あまり大掛かりなことはしたくないのが本音だけど、そうも言っていられない。

 他人を犠牲にしたくない、ちゃんと現実を乗り越えて彼を取り戻したい──わがままなプライドを貫くのであれば、苦手な魔法だろうと行使しなければ。貧血になるだろうから、今夜は牛肉でも食べたいところだ。


『あと他の特徴はー……』

「いい。みつけた」

『へ?』


 ス、とかざした手のひらを払った。

 ゆっくり視界をひらくと、緑の天板に乗っていた袋は消えていた。気づけば短距離を走った後のような動悸が胸を叩いていて、私はふぅ、と呼吸を整える。

 向こう側から、ガサガサと袋の音が響いた。


『──、いや、すごいね魔女っていうのは』

「あなたも同じだったでしょう、樹木の魔女」

『私でもこんな大それたことはできなかったさ。皮肉だが君は私より魔女向きだ。心構えは異質なほど真っ直ぐだけどね。それよりありがとう、これでしばらく我が子の気を引けるよ』


 最後の十円玉を投入した。


「じゃあ教えて。誰も犠牲にせず、彼を取り戻すにはどうすればいいの」


 その縋るような問いかけを、心のどこかで滑稽だ、弱い姿だ、と思いながらも、振り払う。

 たとえ惨めでもいい。ハルマの手を握れるなら、どんな些細なことでもヒントになるのだから。

 しかして『元・樹木の魔女』は、それはね、と答えた。




◇◇◇




 八月三一日。


 すこぶる快晴。

 このページは、俺が記す最後の記録だ。だから、ちょっとだけ気取った書き方をしてみようと思う。というわけで、こんな始め方はいかがだろうか。


 こんにちは、魔法使い。

 久しぶり、の方が合っているだろうか。数年なんて、大人にとっては一瞬かもしれないけれど、俺は砂漠の向こうへやってきた気分だ。かつてはあんなにも濃い存在に連れ回されたというのに、忙しい現実は、君の面影を容赦なくさらっていく。ヒトの脳は欠陥品だ。これでもかと刻み込んだつもりの記憶も、セピア色に染まるだけの写真とは違って、取り返しのつかない褪せ方をする。蒼矢サイダーをがぶ飲みしないと気が狂ってしまいそうなほどさ。

 本題に入ろう。

 もしこの文章を読んでいるのが魔法使いだったなら、俺は賭けに勝ったことになる。

 それはとても喜ばしい。せっかく得ることができた新しい縁を失うのは、すこし残念だけど。でも魔法使いとの日々がアルバムの後ろに埋もれるよりはいいと思ってる。

 君は、俺が選んだ手段を怒っているだろうか。

 怒ってるんだろうな。涼しい顔をする魔法使いからは想像しにくいけれど、風鈴が教えてくれた。君ってば本心ばかり隠して、大事なことはひとりで抱え込んで、気取った態度ばかり取って……本当に、不器用なやつだ。もうすこし信用してくれてもよかったんじゃないか?

 でもまあ、俺はそういうところも好ましく思うよ。

 とても魔法使いらしい。

 とても君らしい。

 そんな君だから、きっと俺は後悔しない。この方法は、魔法使いにとってはいい迷惑かもしれない。それとも、この決断さえも君の想定通りなのかな。どちらにしても、失敗すれば俺は死ぬ。成功してもどうなるか。実際にどうなってしまうかは、まだよくわかってないんだ。ただ漠然と、君を生き返らせることができそうな予感があるだけで。魔法使いからすればとんだ大バカ者だろうね。


 それでも、君を復活させるよ。

 密かに俺を想ってくれていたことはつい最近知った。

 ありがとう。その事実だけで俺は救われる。たとえ君がずっと隠したがっていた事実でも、知れてよかった。父さんへの土産話にもなりそうだ。とんでもなく素敵でやばいヤツに好かれたんだぜって、自慢ができる。

 だから、ごめん。

 やっぱり、魔法使いの危惧したとおりになる。『三上春間』っていう人間が魔法使いの本心なんか知ってしまったら、そりゃあ突っ走るしかない。魔法使いが三年前から避けたがっていたことを、俺は容赦なく実行する。こうして文字を書いてる今でさえ、心が高鳴ってる。清々しいまでに澄み渡ってる。こんな日に飲む蒼矢サイダーはきっと格別だ。

 大丈夫。

 この『死』は意味ある『死』だ。

 俺は魔法使いにはなれないから、こんなやり方しか選べないけれど。それでも、達成する可能性があるのなら賭ける価値がある。君が囚われたガラスを割れるなら、本望だ。

 魔法使い。君は遠慮なく、躊躇なく、俺を利用していいんだ。

 とまあ、面と向かって伝える余裕があるかわからないから、こうして最後の日記に記しておきたかった。ずいぶんと湿っぽい内容になってしまうことを許してほしい。俺の愚行は、それなりの理由あってのものだということをだけは覚えていてくれ。



 つまり、何が言いたいかというと。



 魔法使いのために、さよならだ。

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