1-3

 その部屋は質素だった。無機質でひっそりとしていて、無意識に呼吸を止めてしまう空間だった。

 白い壁にはポスターの類はなく、画鋲のあとも見受けられない。紺色のカーテンが左右に引かれ、レース越しに日の光が入り込む。

 デスクは不自然なほどに綺麗だ。本は順番に立てかけられ、奥まで収められた椅子はわずかに埃をかぶっている。ベッドの片側には布団が畳まれていて、つい一週間前まで主人がいたことが、ウソみたいに感じられる。

 時間がとまったようだと、私は思った。

 秋という季節、ストーブもついていない空間は一層ひんやりしていた。靴下の隙間から幽霊の手みたいに冷気が滑り込んでくるし、スリッパがなければここは薄氷のうえとなっていたに違いない。

 良い例え方をすれば、ここは清潔感に包まれている。悪い例え方をすれば、ことさらに色味がない。

 特徴なき世界。

 まったく、とても彼らしい空間だ。自室がその人の心象風景というのなら、この部屋はこれ以上ないくらいに彼の心を表していた。


「……お兄ぃの部屋、散らかさないでね」


 扉を開けて案内した妹へ同意の一瞥。

 私は一歩だけ踏み込んだそこで、すぅ、と空気を取り込んだ。

 冷たさが肺のなかと入れ替わる。

 目を閉じて堪能してから、ゆっくりと俯瞰した。


「……、すこし、ひとりにしてくれる?」


 ヨシノは一瞬だけ逡巡の色をみせ、


「わかった。下にいるよ」


 そう言い残し、立ち去った。

 改めて部屋を見渡す。ひとりとなったことで、さらに空気が澄んだような気がした。

 探るべき場所は多くない。

 もとより目星はついている。迷わず向かった先、デスクのまえで、私は見下ろした。ダークブラウンの表面に指を触れ、そっと撫でた。わずかな埃が指さきについて、そっと払った。

 次いで、とじられた引き出しに指をかける。

 鍵がかけられているということもなく、すんなりと開けられたそこには、一冊のノートがあった。

 私にとってはつい数日前のこと。タイムカプセル郵便に出した、ただ白いだけのページの束。言われるがままに用意して渡したそれが届くのは、二年間が過ぎてからの話だったはずだ。

 それがここにある。


「ほんとに未来なのね、ここ」


 今更に襲う実感に微笑んでしまいながら、そっとノートを手に取る。

 パラパラとめくると、三分の二ほどのページに文字が綴られていた。丁寧で綺麗な字体だ。日夜この机で刻まれたものだと想像すると、感慨深くなる。

 流し目に羅列をなぞり──軽さを感じる。中ほどからごっそり、十ページほどが破り取られていた。私が過去から現在へ持ち込んだ羊皮紙の束は、きっとぴったり収まるだろう。年月を経たピースの合致、それは私が自分自身と対話した傷跡でもあった。

 本を閉じ、視線を別へ向ける。今度は机の隅に置かれたモノに止まった。

 なんだろうか、と考えを巡らせ、約一秒。本よりも薄く、硬そうな板状の何か。それが倒された写真立てであることに気づく。

 手を伸ばし、そっと裏返した。


「……そう」


 写真は抜き取られていた。

 間違いなくこのフレームには一枚が収められていたはずなのだけど、今はどこかへ姿をくらましている。犯人探し? いや、犯人などはっきりしている。何なら犯人とすら呼べない。だって所有者が隠したのだろうから。

 手に持ったノートにもう一度目を落とした。先ほどよりも軽く、パラパラとページを飛ばして──嘆息した。

 まぁ、予想の範疇ではある。そんな都合の良いことがあるわけない。ましてここにないと言うのなら、抜き取られた写真の居場所は限られる。十中八九、彼が持っているのだろう。所有者とともに消えたとなれば、所有者自身が持ち去ったと考える方が自然である。

 付け加えるならば。収まっていた写真は、生前に一度だけ撮らせた私の立ち姿に違いない。はっきり残された『ガラスの魔女』の存在の記録。私がハルマと同じ立場だとしても、やはり持ち去るだろう。

 だって、すこしでも忘れたくないから。

 ノートを持つ指が、わずかにりきんだ。

 しかし、すぐに弛緩する。

 ……そう、所有者。

 所有者だ。

 今、写真はハルマ本人が身につけている。


「できるかどうか、」


 漠然と結果を予感しながら、私は写真立てを持つ。部屋のちょうど真ん中あたりに移動すると、床に置いた。

 それから、懐からポーチを取り出した。中にはおはじきやとんぼ玉、ビードロなどが入っている。

 先日、自宅から荷物をかっさらってきたときに一緒に持ってきた品々だった。コンパクトにまとめたソレらを取り出す。ガラス同士が衝突しないよう、布で包み、上から縛っていた輪ゴムをほどく。

 指で摘んだのは、水色のビー玉。昔、ラムネ瓶から取り出したものだ。

 透き通る水を思わせる色彩、歪みのない輪郭、ツヤの健在なガラス性物質。さながら固められた水のように、昼の弱い光に照らされていた。

 床に置いた写真立ての上に、ビー玉を触れさせる。そして、指を添えたまま、目を閉じた。

 ぞくに、「ビー玉チェック」と呼ばれるものがある。床にビー玉を置き、建物全体の傾きを確かめる手法だ。しかし、これは三上家の傾きを知るためのものではない。

 そんなことよりもっと大切なことを確かめるための、ビー玉チェックだった。

 写真立てに触れさせること約十秒。

 束の間の思い出から抜け出して、私はゆっくりと視界をひらく。水面に羽を浮かべるように、繊細な心持ちを意識する。難しいことはない。幾度となくこなした魔法の行使。慣れた手順の繰り返し。

 私は魔女。

 ガラスの魔女。

 たどれ、拾い、集めるように。

 なぞれ、うねり、流るるごとく。

 そして胸の奥で祈りながら、指を、離した。


「……、」


 数秒。

 一分。

 二分。

 懐中時計の針と沈黙を貫くビー玉を交互に睨んで──私は肩を落とした。


「はぁ、」


 吐息が無音にかき消されていった。

 一気に脱力する。どうせならそこのベッドにダイブして堪能したいはずが、そんな気も起こらないほどにダメージがでかい。

 神とやらは、とても気分屋だ。私の命、ハルマの命を弄び、わずかな希望でさえも嘲笑っているような気がする。

 ビー玉を仕舞いながら、私は静かに唇を噛んだ。

 立ち上がって、写真立てをもとに戻す。もとあったように、前に倒して。


「いや、やっぱり――」





 一階リビングへもどると、ふたりの視線がこちらへ注がれた。

 湯呑みを抱えて俯きがちなヨシノはまあいい。だがパツキンはなんだ? ファッション雑誌を眺めて何様だ。家族の一員気取りか、私を差し置いて。ていうかあんた、シスター服以外着れんの?

 などと、心の中で毒を吐く。変にリラックスしてるのが気に入らないが、口にしたらキリがない。

 そんな内心などつゆ知らず、シスターはたずねた。


「何かわかりましたか?」


 短く、吐息をはく。


「ハルマのベッド、すごい寝心地いいわね」


 ぱすん、と頭をはたかれた。

 丸めた雑誌はあまり硬くないけれど、一応睨んでおく。


「なにすんのよ」

「変態ですか! 何をしに来たんですあなたは? お宝探しですか!?」

「その反応、あなたむっつりね」

「なっ!?」


 涼しい顔でよこを通り過ぎる。

 背もたれにかけていた魔女帽子をいそいそと被る私へ、顔を紅くしながらシスターが抗議する。


「私は別にッ、そんな……」

「木陰とやらに対してもそれが言える? 胸を張って? というか、付き合ってるんだから情事のひとつやふたつあるんじゃないの? アレやった? 口付けは?」

「うぐっ……」


 私が身支度を整えて振り返ると、呻くシスターがいた。腰の前で手慰みをして、視線を泳がせている。


「「あぁ……」」


 シスター以外の納得の声が、綺麗にそろった。


「なんですかなんですか! 私たちは健全なお付き合いなんです! 血が繋がってて複雑なんです! あなたとは違います!」

「ミノリちゃん、魔女さんはまず付き合うとか以前に、」

「黙りなさいヨシノ。私もうキスは済ませてるから。このパツキンよりは進んでるわよ」

「「えっ」」


 今度は私以外が口を揃える。

 何食わぬ一言が、ふたりにとっては衝撃だったようだ。腰に手を当ててふふんと笑ってやると、青ざめた顔でシスターが訊く。


「え、は、マジですかソレ……い、いいいい、いつ……?」


 指折り数える。


「四年前の……秋?」


 首をかしげて答えた。今が三年後だから、遡るとそれくらいのはず。

 シスターが「は、ハハ……」と乾いた笑いをこぼしたものだから、つい面白くなって、さらに追い討ちをかけてしまう。


「……ちょっとだけ抵抗するところが可愛かった」


 固まる空気の音を、たしかに聞いた。

 次の瞬間、私は胸ぐらをつかまれていた。

 がくがくと揺らしながら、真っ赤になったシスターが叫ぶ。


「なぁぁぁあああにやってんですか! 破廉恥ですよ早すぎますよ襲ってんじゃねぇってカンジですよ!? 中学生で!? 正式なお付き合いでもなかったんですよね!? 告白すらしてなかったんですよね!?」


 魔女帽子をおさえ、揺れる天井を眺めながら返答。


「だって本気の抵抗されなかったし」

「だぁぁかぁぁらぁぁといってぇ! 犯罪者の物言いですよその口は!」

「だって魔女の口だし」

「穢らわしい魔女がぁ! どこまで中学生の純情を弄べば!」

「私も中学生だし。向こうも意識してるのは知ってたし」

「シチュエーションが最悪なんですよ! もっとこう、ロマンス溢れるファーストがあるじゃないですか! どうして衝突せん勢いなのです!?」

「失礼ね、ロマンスならあったわ。何ならロマンスしかなかった」

「襲っておいてロマンス!」

「いいでしょ別に。いのち短し恋せよ乙女って言うじゃない」

「今まで真剣にふたりのこと応援してたのに、裏ではチュッチュしてたってことですか!? 私がバカみたいじゃないですかッ! 参考までにご感想は!?」

「……最高だった」

「ァァァアアアアアッこの女!!!!」


 まぁまぁとヨシノに割り込まれ、ガクガクな世界から解放される。なんだろう、このシスターもどき、こんな品性のない性格だったっけ。三年前と一番変わったのはこいつなのかもしれない、と漠然とした考えがよぎる。

 息を荒くする闘牛を、どうどう、と宥める背中に感謝しながら、服装を整えた。首元の服、ちょっと伸びた気がする。

 あーあ、とつぶやきながら、私は吐きすてた。


「こっちにも色々あんのよ。あなたには関係ないでしょ」

「はぁあ!? 私が今までどんな思いで悩める三上さんを支え──」

「そっ、それよりも。どこか行くんですか」


 慌てて話題を変えるヨシノ。

 その問いかけに、シスターがハッとする。ようやく冷静さを取り戻したらしい。


「そっ、そうです。どうしたのです? 降りてくるなり帽子かぶって」


 そのかわり身の速さといったら、さすがは高校生といったところか。いや、ただ冷静になって話題を変えただけだろうか? どちらにせよ、これでこの話は区切りだ。

 私は肩をすくめた。


「あなたの彼氏クンのとこへ行くのよ」




◇◇◇




 例えば、人の潜在的な価値を能力と定義したとき、そこには外的要因と内的要因が大きく関わることだろう。

 生まれ持ったもの。拾い集めたもの。あるいは軽さを求め置いていったもの。そして──与えられたもの。

 『私』という存在にも、もちろん人並みの価値はある。呼吸を繰り返し言葉を発することはできるし、気まぐれに善意ある行動を起こす。魔法でちょっとした手助けをした。半分自分のためとはいえ、彼と過ごす時間を綺麗に飾った。

 あとは……そうだな、自信はないけれど、すこし、ほんのすこしだけ容姿は良いと思う。魔女帽子をかぶっているところが変なのは自覚しているけど、「君らしくて俺は好き」と言ってくれる人がいて、やはりだれかの価値には繋がるのだ。

 どこぞに話すでもない売り文句が飛び交い、振り払うように頭を振った。

 とまあ、そんなガラスの魔女こと私だが、実際いくつかの価値は抜け落ちている状況だった。

 まずはそれを取り戻さなければ始まらない。また非現実的なモノに頼らなければならないのがしゃくではあるが。でもこうするのが正しいのだと、ノート越しの声も語る気がする。

 心の奥で唱えながら、また一歩、足を運んだ。

 私は再度、乾いた風に身をさらしていた。最寄りの駅から数駅、降りたさきは雑踏。アスファルトを踏みしめながら、ヒトの隙間を突き進む。


「あの」

「……」


 懐中時計の針は十一時過ぎを指していた。

 ぱちん、と蓋を閉じて懐にしまう。青信号が点滅し、『通りゃんせ』を途絶えさせた。


「あのっ」


 彼は潔く応えるだろうか。そうであれば穏便に済む。そうでないのなら……すこしばかりやり方を考慮する必要がある。


「あのッ!」

「……なによ」


 立ち止まって振り返る。

 魔女帽子によってできた影から、居た堪れない風に萎縮するヨシノへ視線を投げる。

 傍らのシスターはため息まじりについてきていた。

 場所は、スクランブル交差点を渡って、ちょうどビルの影に入り込んだところだ。


「あの、その……格好が、けっこう目立ってるんだけど……」


 言われ、周囲を見まわした。

 道行く人々の奇異な視線に晒されていた。それだけでなく「なにあれ~」「ハロウィン? 気が早くない?」といった声もちらほら。気にして初めて、騒々しさを感じとった。シスター服の連れも相まって悪目立ちしてしまっていた。


「そうみたいね」

「できれば帽子は仕舞って欲しい……」

「イヤ」


 きっぱり言い放つと、シスターがやれやれといった様子で口添えした。


「ムダですよ妹さん、このヒト、意地でも手離しませんから」

「よくわかってるじゃない」


 踵を返し、歩みを再開する。不満げな沈黙ひとつ、宥めるような気配がひとつ。彼女らを先導しつつ、睨みで威嚇しながら、人混みを縫っていく。

 シスターに教えられた待ち合わせ場所まではそう遠くない。なんなら私が知っている場所でもあって、道順は覚えていた。

 ほどなくして人通りの多い場所を抜けた。洋風の建物の脇を渡り、歩道を進んでいく。

 靴裏の叩く音が壁を反響し、コツコツと重なった。

 青い矢印の道路標識を越えると、そこは自動車通行禁止のエリアだ。足下が石畳みに塗り替えられる。

 長期休みを終えて最初の休日、しかしそれでも、恋人や友人同士といった集団は少なからず見受けられる。三年前と変わらず、ほとんどの喫茶店や洋食屋は看板を連ねていた。地方とはいえ、それなりの人気がある。ランチにはもってこいの通りだ、もうすこし経てばここも混雑し始めることだろう。

 はやめに抜けてしまおう、と足を早めた私の背中へ、また疑問が投げかけられた。


「木陰さんに何をしようとしているのですか?」


 今度はパツキンシスターの方だった。


「別に恋人を奪おうだなんて思ってないから安心なさい」

「できません。奪わないのは大変よろしいことですが、具体的に何をするつもりなのかお訊きしても?」

「心配性ね」


 ちら、と訝しげに目をやると、彼女はム、と眉間にしわを寄せた。心を読まれないよう、顔をしかめたようにもみえた。


「別になにもしないわよ。ちょっと頼み事をするだけ。それとも、なにか別の懸念でも?」

「……」


 その沈黙は肯定ととらえよう。


「なに、喧嘩でもした?」

「してません」

「わかった、単純に気まずいのね」

「っ、誰のせいだと──いえ、なんでもありません」


 視黙り込むシスターを視界から外し、角を曲がった。歩いて、角を曲がり。歩いて、角を曲がり。それを幾度か繰り返した。駅周辺ではそれなりにいた通行人はその数を減らし、辺りは閑静な住宅街へ遷移していた。

 電線にとまった鳥が見下す路地。道脇に吹き溜まった落ち葉が秋を伝え、枯れた木々を抱える家屋が増えていた。

 ふと、前方がひらけていることに気づいて、私はつぶやいた。


「仲直り、手伝わないわよ」

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