1-2
目的地へはほどなくして到着した。
丘を下ると周囲は閑静な住宅街で、ときおり自転車や散歩中のお爺さんがすれ違うだけで、これといった人の気配はなかった。ありきたりな風景を流し目でみていき、たまにシスターと軽口を交わす。そうこうしているうちにたどり着いた一軒家を、私は初めて目にしたのである。
黒い
庭をつくったヒト──おそらくハルマの母親か妹──のセンスが良いのだろう。シスターの教会ほど長くなく、広くもない通路が
そんな玄関先の道を、勝手知ったる物腰で踏み込んでいく背中。それを眺め、私は数秒立ち止まった。
表札には『三上』と書かれている。質素な黒い板に刻まれた文字から視線を持ち上げると、周囲と似た無機質な白い壁、そして屋根。緑に囲まれた一般家庭と呼ぶべき佇まいが、そこにはあった。
「何してるのですか、はやく貴方も」
「わかってるわよ」
足もと、敷地の境を越える。
慣れた調子のこの女が気に入らない。公園で合流してからこっち、迷いなく進めた足取りも、こうして躊躇なく踏み入るところも
もちろん、去年のとある出来事に起因しているのは理解している。しているが……やはりムカついた。
二メートルかそこらの道の先、玄関先まで来たところで、シスターがインターホンを押した。
来客を確かめるためのカメラはついていない。防犯という視点では不十分だが、個人的には好印象だ。扉の覗き窓と比べて、アレは妙に落ち着かない。
「変なこと、しないでくださいよ?」
シスターから釘を刺される。
「あなたは私が殺人鬼だとでも思ってるの?」
と、私は返した。
「概ねは」。そう小さくつぶやいたところで、扉の向こうからスリッパの足音が近づいてきた。
ペットボトルの首を持つ指が、きゅ、と強まる。緊張にも満たないわずかな意識が私のなかに生まれる。
ほどなくして、ガチャリと扉がひらいた。
「こんにちは、
「いらっしゃいミノリちゃん。ちょっと遅刻した?」
「ま、まぁちょっと……色々とあって」
ちらり、シスターが私を一瞥する。
もとより私が来ることはわかっていただろうに、中学三年の私よりわずかにちっこいハルマの妹は、緊張の色を覗かせる。
なるほど……ハルマの血縁なだけはある。
どことなく似た気配を感じた。一般大衆と同じ、よくよく目を凝らさなければわからないほどの異質感。独特の雰囲気。ベージュのパーカーやジーンズなど、身につけた服はやはり女の子だけど。前髪の隙間から向けられる相貌はとても似ていた。
扉の取っ手を握りしめたまま、不安に揺らす瞳を、一瞬だけ彼と重ねてしまう。
目元に限って言えば、第一印象は『柔らかい』だ。病院のベッドにいた彼女とは異なり、今はちゃんと血の通った生き物の光を宿していて、私のなかに刻まれていく。
「……」
「……」
見つめあって数十秒。
彼の邂逅をなぞるみたいに、印象はがらりと変わった。兄と同様、瞳の奥には確固たる何かが渦巻いているのが伝わってくる。
ハルマをオブシディアンに例えるならば、妹のソレは、割れないくるみのようだった。こちらの訝しげな視線にも、物怖じしない。
短い吐息とともに声を発してみる。
「ふさぎ込んでないのは意外だった。あなたは泣き虫だと記憶していたけれど?」
「い、一度しか会ったことないのに?」
「魔女だもの、適当な印象でしか覚えない。それにしても関心したわ。ヒトは強い生き物ね、たった数日で兄の死から立ち直るなんてさすがとしか言いようがない」
シスターが視界の端で頭を抱えた。
「どうして嫌われにいこうとするのか」と言いたげだ。
しょうがないでしょ、そういう性分なの。
「そ、そういう貴方こそ、演技だったと言われたら納得のいく態度です、けど」
上目遣いで、妹はそう言った。
私は目を細めて笑う。
「そ。あなたにはそうみえるんだ」
乾いた風が吹いた。
庭先の木々、葉を揺らし、擦れる音が無言の間を縫っていった。
しばらくして、妹が視線を背けた。かと思うと、消え入りそうな声でぼそりとつぶやく。
「やっぱりお兄ぃにはミノリちゃんの方がお似合いだったかも」
「コロすわよ」
シスターに宥められ、牙を収めた。気前がいいのか、それとも意外と図太い性格なのか、あっさりと私はお邪魔させてもらった。玄関で靴を脱ぎ、居間へ通される。
アイスを溶かすみたいな空気が私たちを出迎えた。
「遠慮なく座って」
そう言って、小柄な背中はキッチンに消えていった。
ちらりとシスターに目を向けると、顎で促される。ナチュラルなテーブルには椅子がふたつずつ向き合うかたちで並んでおり、私とシスターは隣り合うカタチで腰を落ち着けた。どこをとっても普通の内装であるお陰で、すこしだけそわそわしていたのがすぐに慣れてしまう。ハルマが居ないことが
フローリングには絨毯が敷かれていた。足先は冷たくならない上に、ハルマの妹はお茶まで淹れ始める。遠慮せず、と決まり文句を投げる連れを放って、私は周囲を見回した。
テレビにはニュースが流れているけれど、キャスターの声は耳をすまさなければ聞き取れない。レースカーテン越しの光が室内を照らし、窓際の床に広げられた新聞紙が目にとまる。栗が積まれ、小山となっていた。まとめられた皮の傍らには置かれたボウルがあり、剥かれた実が入っているようだ。
電気ストーブは室内を暖め、徒歩で冷やした身体を溶かしていった。私そっちのけでふたりは会話しているけれど、ひとつも耳には入ってこない。ハルマのみていた日常風景というだけで、意識をもってかれるのには十分だ。
こうなると、さきほど通ってきた廊下の方が気になってしまう。いの一番に出迎えた階段──その先の、二階が。
ことり、とテーブルに湯呑みが置かれ、意識を戻した。
「ありがとう」
「え、」
「なによ?」
湯呑みを置いた体勢から手を引きながら、妹が戸惑いの気配をみせた。
私は眉をひそめる。
もしや、さきほどの脅しを間に受けているのだろうか。
「別に怒ってないわよ。さっきのも冗談。殺さない」
「ぁえ、いや。そうじゃなくて。ちょっと意外、だったというか」
「……?」
首を傾げる。
「怖い魔女がお礼を口にするだけでも意外、ということですよ」
代弁したシスターへ目を向けてから、妹へ移す。
申し訳なさそうに、彼女も向かいの席へ座った。お盆を置いて、わずかに顔を俯かせながら。
真似をするわけではないが、同じように視線を手元にやった。緑茶の表面に、どこか冷たさや鋭さを感じさせる夜色が揺れている。
教会で告げられた一言が、脳裏で再生される。
甘い響き。
綺麗で、ストンと落ちるような軽い声。
それだけに、喪失感は大きく底がない。悔いても悔いても悔い足りない。
……本当に、ハルマはよくこんな私を好きになってくれたものだ。
気分屋で異質で、群れから弾かれた不運の魔女で、ただ振り回していただけなのに。
そんなだから、私は──。
思わず、ため息がこぼれた。そうして、落ち着けるように湯呑みに口をつけ、向き直る。
「悪印象を抱かせてしまってごめんなさい。お察しのとおり私はひねくれ者だから、初対面の相手だと警戒してしまう。接しにくいでしょうけど、個性として受け取ってくれると嬉しいわ」
「……」
「……」
ぽかんとするふたりに構わず、私は「でも、」と付け加えた。トン、と手前のテーブルを指で叩く。
「ひとつだけ訂正して。このパツキンより私の方がぜっっったいハルマを幸せにできる。こんな偽善を振りかざすような女、相応しくないわ」
「はっ……はいぃぃいいッ!?!? ちょっと感動してたのに、パツキ──『偽善を振りかざす』は余計ですッ!」
「聞きなさいヨシノ、この女は例えるならチーズよ。味は濃いけど、発酵というある種腐らせる過程を経ているし、そのくせヒトの食欲をかき立てる厄介極まりない女なの。カロリーと戦う人類からすれば、美味しいだけの敵とも呼ぶべき存在」
「なんて悪質な例えですか……私とチーズに謝ってください。それと木陰さんの前で言わないでくださいよ? べつに三上さんのこと狙ってませんからね」
「ああ、あの
「函ってなんですか、木陰さんです。木陰さん」
「はいはい、覚えた覚えた。っていうか今ハルマのことを下にみたわね? 三年前ならあなたの右足クリスタルにしていたわ」
「沸点が低い」
「気に入らないのよ、つくづく。函――じゃない、彼氏クン? がいるくせに? ヨソ様の家に入り浸り、しかも私の想い人を毒牙にかけようとして。外堀から埋めようとするなんて最低だわ」
「え、えぇ……そんなつもりないですよ、三上さん自身が魔女を好いてるんですよ? それで満足できませんか?」
「無理ね。ハルマに変な虫がくっつくのは一秒でもイヤ。あなたも私と同類なら理解できるのではなくて? 去年の冬は嫉妬で狂ったって聞いたけど」
「どッ──こで、それを。なぜ知っているんですか」
「魔女だから。いいかげん学びなさい。まったく」
シスターはわなわなと震え、対する私は吐息をこぼした。
そんな様をみて、ハルマの妹からくすりと笑いが漏れる。
ふたり揃って我にかえった。シスターはわずかに顔を赤らめ、頬杖をついて顔を背けた。
「仲、良いんだ」
「よくない」
「よくありません」
お茶を一口、また含む。
暖かさが内側から染み込んでいき、荒ぶりかけていた感情がナリを潜めた。
一緒に並べられた茶菓子へと手を伸ばす連れ、視線を落とすハルマの妹。相変わらずニュースキャスターの声はぼそぼそとしていた。
どこか重い空気が漂った。
思えば、ハルマが犠牲になってから落ち着いて話すのはこれが初めてとなる。聞けば復活した日は夏休み最終日、次の日にはシスター以外の全員が登校する必要があった。
それから五日、大きな穴が空いた日常を、憂鬱とともに過ごした。学業に身を沈めつつも、失意の底にいたに違いない。どいつもこいつも私を恨んでいるだろうな、というのが正直な感想だった。こうして同じ卓についている状況すら、不思議で仕方がない。
そんな私はというと、準備に明け暮れていた。
数年ぶりに自宅へ戻り、驚きのあまり言葉を失う叔母さんを尻目に、荷物をかっさらって一日。教会の物置に居候させてもらうため、掃除に費やしたのが一日。毛布に包まって泣いたのが一日。自宅や教会周辺を散策し、変化に慣れるのに二日を要した。
そうして今はここにいる。
遅刻女を待ち、ハルマの家にお邪魔している。
「本題に入るわよ」
湯呑みの中身を飲み干した。ここへ赴いた目的を、さっさと果たしてしまおう。
「ハルマの妹。あなたに頼みがあるの」
真剣な面持ちが、こちらを見据えた。
みつめ返すと、流れを遮られる。
「……そのまえに、あたしのお兄ぃがどうなったのか教えて」
「『あなたの』じゃない。私のハルマ」
「はぐらかさないで。なにがあったのかちゃんと教えて」
彼女はリビングと隣接する壁へ目を向けた。
目で追うと、そこはただ白いだけの壁。カレンダーがかけられているわけでもない。視線をもどすと、毅然とした相貌は私だけをとらえていた。
「この一週間、お兄ぃがいなくなったことに誰ひとりとして疑問を抱かなかった。まるでそれがあたりまえかのように、平然と暮らしてた」
「そ」
「お母さんでさえも、いつもと変わらない。お兄ぃが存在した証拠はいくつもあるのに、まるで目に入っていないみたい。違和感を覚えているのは、あのとき教会に居合わせた私たち四人と、魔女さんだけ。……ねえ、なにがあったの? なにをしたの? なにをさせたの?」
なるほど。彼と近しい関係だった四人だけが、彼の存在を覚えている、と。血縁で、とくに気にかけていた兄であれば当然の疑問だろう。
腕を組んで、私は応える。
「『ガラスの魔女』は本来死人であるべき。それはいい?」
こくり、と対面の彼女が頷く。
「ハルマがやったことはただひとつだけ。三年前にステンドグラスが割られた原因と、今回ステンドグラスが割られた原因をすり替えただけ」
「……? どういうことですか」
首を傾げたパツキンに説明する。
「風鈴に残した『過去覗き』の魔法──ハルマはそれを使って、過去のステンドグラスの破片と、未来で割られた別のステンドグラスの破片を入れ替えたの。三年前の破片を持ったハルマは過去へ引っ張られ、未来の破片が混ざる雨を浴びた私は、こちら側へ引っ張られた」
「あなた方は、
「当たらずとも遠からず、ね」
私の言葉に、ふたりが表情を曇らせた。
シスターは眉間にしわを寄せたし、妹の方は湯呑みを握り込んだ。
ここは、仕組みを説明しなければならないか。
「聖職者。あなたが崇拝する神、主とやらはね、だれかひとりを消したくてしょうがないのよ」
「……何が言いたいのです」
「魔女をひとりだけ生み出して、短い人生を歩ませたのち、消す。その状態を以て、人類の総数として定義する──『命の総数マイナス一』。理不尽でくだらなくて無意味な現象。私はそのルールに選ばれた、哀れな羊だった。お
手のひらを差し向けて問いかける。
凍てつくような睨みで肯定された。
「ま、納得しろとまでは言わないけど。ともかく。ハルマによって過去と未来の入れ替えが行われた。私が今現在を生きているのは彼のおかげ。ハルマは逆に、過去に送られたはず。……でもそれだけじゃ、『マイナス一』という大前提はクリアされていないでしょう?」
「それは、つまり、」
「お兄ぃは代わりに死んだってことですか」
はっきりした物言いに、私はみつめ返す。
涙を我慢するかのように強張らせた表情で、じっとこちらを凝視していた。ふたりそろって、私を仇とばかりに睨め付ける。
ああ、まったくもって──そのとおりだ。
「そう、ハルマは私が殺した」
ぴしり、とひびの入る音が聞こえた。
ガラスが稲妻を走らせたわけではなく、それはみえない溝の音だった。躊躇なく告げた結果生まれた、訣別一歩手前の響きだった。
湯呑みから手を離す。
テーブルのした、ひざの上。
拳を握り込んで、視線を木目のテーブルに目を伏せた。伸びた前髪の先、湯気が立ち昇る。
「……殺してしまったの」
いまの私は、どんな顔をしているだろう。
背もたれにかけた魔女帽子で隠したいくらいに、どうにかなりそうだ。
「私の『やがて死ぬ』という運命を、ハルマはその身をもって覆し、数年間の行方不明にすげ替えた。それが真実」
「そんなの、割に合わない」
「神なんてのはそんなものよ。大バケツの水すべてをつかって、ようやく小さい汚れを落とすことができる」
「そんな選択を、お兄ぃにさせたの?」
「……そう。その選択に追い込んだのは紛れもなく私。すべて私の
乾いた自嘲が、無音にかき消される。自虐がこぼれてしまうほど、ガラスの魔女は弱くなっていた。
思い返せば、私が強くいられたのは、彼の前だったからだ。彼の視線の届く範囲にいる限り、私は謎めいていて澄んでいて、穢れを知らない夜色の魔法使いだった。彼がいない現実は、とんでもなく狭苦しい。
「じゃあ、あなたがお兄ぃを返してよ」
……顔を上げる。
ヨシノが咎めるような表情を浮かべていた。
「魔女なんでしょ。ならお兄ぃを生き返らせてよ」
「妹さん、それは、」
シスターを手で制して、言い返す。
実を言うと心が折れそうだ。ちょっとしたことで虚勢が剥がれそうになる。ビー玉を吐き出すみたいに溢れそうな、そんな自分の胸に、強がりな私は破片を突き刺す。
「チカラも持たないくせに、よく言うわね」
「チカラを持っているのに、行使しないのはよくないと思う」
「そういうヤツは身を滅ぼすわ。結局のところ、他力本願のあんたには理解できない」
「だとしても、結果は得られるものだと思う。お兄ぃが帰ってくる」
「素晴らしいわね。ええ、できるならそうしたい。じゃあその正しい方法ってやつを教えなさいよ」
黙り込む妹。ただし射竦める視線だけは衰えない。
張り詰めた空気は晴れない。
湯呑みの温度は引いていくだけ。
不毛なやりとりを繰り返すだけで、針は刻々と時を刻む。
そんな時間に、杭を打つように。
「そう──あなたたちじゃどうしようもないことを、私は知っている」
はっきりと、そう告げた。
ヨシノの目が見開いた。
「そも、これは私の恋路であって、他人に譲るつもりもない。だからここへ来た」
その意味を悟れないふたりではない。
「──、魔女、さん」
「……え、でき、るのですか? 三上さんを生き返らせることが」
「知らない」
そんなもの知るか。私は精巧な数式を組み立てる証明者ではない。ただ泥だらけで糸に縋っているだけの人間だ。打算もなければこれが合っているのかすら曖昧だ。
だけど、「これしかない」ってくらいの希望はある。
私は私の全てをつかって追うだけである。
「最初の話題に戻るわ、ハルマの妹。頼みがあるの。あなたは私に借りがある。覚えていて?」
「……、」
病院での初対面を思い出していて助かった。
神妙な顔で頷く小娘に指を立て、上へ向けた。
「ハルマの部屋をみせなさい」
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