ガラスの魔女は復活できない。Ⅳ
九日晴一
一章 命の総数マイナス1
1-1
澄み渡る快晴。
相も変わらず深いそいつは、数年の
降り注がれる光を遮り、私はため息を吐いた。
「──はぁ、」
不変の色を涙で滲ませたあの時間は、世界にとっては三年前、私にとってはつい先週のことだった。
胸の内にじんわり広がる感覚――『死』というおよそ絶対の運命から解き放たれたカタルシス。私からすればソレすらも忌々しい。
フン、と鼻を鳴らして気分を紛らす。
落ちてしまう可能性を無視して、背中を柵に預けた。教会からさほど遠くないこの公園は、遊具があまりにも少ない。のぼり台と、鉄棒と、こうしてわずかに高いだけの滑り台。それでも、近辺ではそれなりに空へ近いからもの悲しい。慣れ親しんだあの屋上に入れないのがもどかしいほどだ。
まぁ、お陰で魔女帽子が飛ばされることはない。それは感謝すべきところだろう。皮肉だけど。
眩しさに目を細めながら手首を捻った。
視界の外、軽い空気の抜ける音。
腕を持ち上げれば、見慣れたボトルが光を反射。
三年程度の月日では、やはり世間は変化しない。この果てない空も、唇を乾かす乾燥風も、ダイヤカットの装飾すらも。
こうして昼下がりを潰しながら、見えない神に中指を立てたい。こんなにも残酷な人生、
「……ん、んっ……、」
喉を流れる刺激。
蒼矢サイダーの爽快感が、瞬時に抜け落ちていく。秋という季節に場違いな飲み物だけど、今日が暖かくて幸いした。
ふと、最後に口にしたのはいつだったろう、と考える。
以前はもっと美味しかった。冷たい飲み口に煌めくガラスみたいな透明感があって、口にすれば、大抵の嫌なことは忘れられた。
「いや……違う」
いつからか、私にとっての炭酸は価値が変わっていた。嫌なことを忘れるために、なんて理由は消え去って、良い気分を高めるために飲むものになった。
そう、だってそばには彼がいて。
落ち着いた声で私と話して。
ときどき揶揄うように笑って。
その度、胸が弾んで。
平静を装うために、一分一秒を味と共に刻むために、私は炭酸を選ぶようになっていった。
ああ、想いを馳せるにはちょうどいい気温だ、今日は。夏が終わり、秋に突入したお陰か。出来のわるい神のくせに、こういうところは繊細な美を創っていやがる。
一口、二口。
また喉を炭酸が伝っていく。なぞるように記憶が浮きあがっては過ぎていく。夕暮れに染まる教室での邂逅だろうと、なんてことないただの一日だろうと、雨に濡れるどんよりした時間だろうと関係なく流れる。
前髪を微風が揺らした。
身につけたカーディガンがはためいた。
目を閉じて、指の隙間からこぼれ落ちた、あの再会に胸を傷める。
いままでのこと。これからのこと。
現実は暗く地面に影を落とすが、私は進まなければ。でなければ、積み重ねた時間が無駄になる。葛藤や決意が泡となる。
──ガラスは割られた。
互いを隔てる『死』という壁が、壊された。
なら、次は私が割る番だ。
この世界は色味がない。唯一目を奪っていた色彩は飛び去り、残されたのは届かぬ無力感。こんな息の詰まる現実では生きる価値も見出せない。当たり前に歩いていたはずの場所から、たったひとりが消えただけでこんなにも虚無が満ちていく。屋上から身を投げて後を追いたいくらいに、私の心は冷えきっていく。
明けない夜はない、と他人は偉そうに言うけれど。私にとっての夜明けは、分厚いガラスに隔てられ、指さきが阻まれていた。
──それを、割る。
彼がそうしたように、私も割るしかない。
再び、目をあけた。
視界には数秒まえと同じ顔をした世界が広がっていて、薄らと俯瞰した。
ひとつの誓いが私を奮い立たせ、こうして今に至る。陽の下で待ちぼうけを喰らっている。こんな状況でなければとっくに去っているところなのに、律儀に他人を待っている。
私らしくない。
『ガラスの魔女』を知る人間は笑うだろうか。どういう風の吹き回しかな? なんて言いながら。
ええ、そうでしょうね。私ってば無愛想で可愛げがなかったものね。
本心などだれも知らなかった。だれにも告げなかった。あのハルマにだって、私はひた隠しにしていた。
そういう風に、言われていたから。
「……ハルマ、」
ミステリアスな仮面を、私はつい先日脱ぎ去った。
約束された別離と同時、秘密は明るみに出ている。私は死んで、ここにいる。彼に救われ、ここにいる。もう本心を隠す必要もない。
やるべきことが定まったなら、あとは当たって砕けるだけだ。
熱は冷めない、記憶は褪せない、想いは留まるところを知らない。『魔法使い』は、じっとしてなどいられない。こうやって炭酸を流し込みながら居なくなった存在を探し求めるのは、必然な行動だった。
私は懐から懐中時計を取り出すと、クセのついた手つきで目前にぶら下げた。
カチコチと、針の運びを確かめる。
「遅刻してんじゃないわよ」
時計を仕舞い、毒を吐く。苛立ちを込めた言葉は清々しい空に消えていく。
炭酸の爽やかさ、交差した影がわずかに傾き、時間の流れを意識する。見上げた空に、また目を細める。
私は、待ち合わせを続けた。
「ねーぇ、なんでコスプレしてるのー?」
下方で声がした。
間の抜けた子供の声だ。年齢でいえば私も子供だけれど、声の主はさらに子供だった。
私は後方をじろりと睨む。
「うるさいガキ。どっかいきなさい。見せ物じゃない」
「そのすべりだい、飲食しちゃダメって言われてるんだぜー」
「でしょうね、子供はね。どっかいけ」
「偉い大人に言っちゃおうかなー」
ああもう。鬱陶しいことこのうえない。こういう情緒が備わっていない年齢は嫌いだ。相手との距離感を測る思考はなく、ただ土足で踏み込んでくる。興味本位でヒトの領域を侵すのだ。ときに、この無垢な状態を残したまま大人になった人間もいるからタチが悪い。
それだけに、ハルマの距離の取り方は絶妙だったとわかる。過ぎ去った日々はどうしようもなく、私の居場所だったらしい。
……思い出に浸ったら気分がよくなった。視界から子供を外しながら、尋ねる。
「ねぇガキ。あなた最近親と喧嘩したでしょ」
「え?」
「喧嘩とまではいかなくても、キツイこと言われたでしょ」
「……まぁ、ちょっと」
ビンゴ。
もじもじと答えた子供に、私は魔女帽子を目深くして笑った。
「イヤよね、楽しいことしてるだけなのに口煩くて。私もイヤだった。口喧嘩もいっぱいしたわ」
「まじで? どんな喧嘩した? やっぱそっちの母ちゃんも怖いの?」
「ええ怖いわ。四百回と二回喧嘩したけど未だに慣れない」
「そんなに喧嘩してんのか! 悪ぃヤツじゃん! ……それとも、やっばみんなもそんな感じなのかな」
「わかってるじゃない。そうよ、みんなそんな感じなの」
私、親らしい親なんていたこともないけど。
「でもあなたは大丈夫ね。まだ百回と十二回しか喧嘩してないもの」
「百回と……十二回……わかるのか」
「悪い魔女だもの。わかるわ」
「悪い魔女……」
「良いこと教えてあげる。母親っていうのはね、四百回と一回怒ると、子供を捨てちゃうの」
「え?」
子供が目を丸くした様子が、背中越しにでもわかる。あとすこしだ。
私はペットボトルを揺らしながら、歌うように声を上げる。さながら気分は吟遊詩人だ。
「ホントはね、大人は子供なんて嫌いなのよ。言うこと聞かない悪い子は、私と同じわるーい人間なんだから当たり前ね」
「うちの母ちゃんはそんなこと、」
「ないかしら? ホントに?」
冷たく言い放つ。
後方の声が、貫かれたみたいに押し黙った。私は声の高さを変えて続ける。
「私ね、四百一回を越えちゃったの。もう親に嫌われたわ。だからこうして滑り台の上にいる。帰る家がないから。お母さんに捨てられたから。わかる? あなたも羨ましいなら乗せてあげましょうか。私は魔女だから、お母さんにあなたを嫌いにさせることだって可能よ」
「……やだ、」
「なんでよ。口煩い大人イヤなんでしょ? 細っかいコトばっか言ってきて、腹立つんでしょ? ルールを平気で破ってる私を妬んでるんでしょ? なら私と一緒に家出しましょうよ。ね、楽しいよ。ルールなんてクソくらえ、お母さんのお小言もないし、自由で楽しい。どうせあなたも時間の問題なんだから、さっさと認めてこっち側きて──」
途端、ぐすりと声が聞こえてきて、私は口を閉ざした。途中からちょっと楽しくなってしまった。さすがにやりすぎたか、と振り返る。
滑り台のちょっと離れたところで、目元を拭う子供がいた。
「がえるッ」
おぼつかない足取りで、小さい背中が引き返していった。公園の入り口の方へ小走りで去っていく。
「はぁ」
……ようやく解放される。
私は再びペットボトルのフタを捻りながら、ため息を吐いた。
子供は、苦手だ。
また遅刻中の知り合いを待つことにしようと思った──その矢先。
「えっ!? どうしたのですか!? そんなに泣いて、お母さんとはぐれちゃいました? 大丈夫ですよ、私が一緒に……え? 違う?」
小さく舌打ちする。
タイミングがわるい。
「なにやってるんですか!?」
「勝手に泣いたのよ」
「勝手に泣いた!? そんなわけないでしょう!」
滑り台の下で、私は遅刻したシスター服と向き合っていた。彼女は清楚な白と黒に身を纏い、啜り声で泣く少年の頭を撫でていた。相変わらず、絹糸みたいに綺麗な金髪だこと。一房売ったら儲かりそうだと、情緒の欠片もない想像がよぎった。
そんな印象などつゆ知らず、無垢の守護者は怒りの声を返した。
「どうみてもあなたが主犯であなたが悪い状況ですが?」
子供が声も出さず、私を指差す。
こういうとき、人間は残酷な行為に走る。言葉で真実を語ってほしいものだ。
キッと視線を鋭くする彼女に、私は反論する。
「親の偉大さを教えてあげただけじゃない。ソイツに訊いてみなさい」
「そうなのですか? このヒト、何か怖いこととか言わなかった?」
「ひぐ、もうすぐ母ちゃんに捨てられるっ、て……」
そんなことを言ったかもしれない。
よく覚えていない。炭酸の味とハルマとの思い出しか覚えていない。あと空が蒼かったかも。
肩をすくめる私に、シスターが
「ど・こ・が! 親の偉大さですか!」
「良い子でいないと、って前置きはしたわよ」
「ならもうちょっとマイルドな教え方にしてください!」
「マイルドすぎ。あなた甘いわね。こうでもしなきゃ将来的にやってけないでしょ」
「だからって……あぁもう。ボクくん大丈夫ですよ、このお姉ちゃんあんなこと言ってるけど、お母さんもお父さんも息子のことは愛するものですから。怒るのは、あなたが大切だからです」
「……ほんと?」
「本当です。大事だから、世話を焼いてしまうんです。過保護になってしまうんです。だから捨てたりなんかしません。もし喧嘩しちゃって、お
なんとまぁ、お優しいこと。
「食われるわよー」
「あなたは黙っていてください! ねー、このお姉ちゃんヤダねー」
その後、少年は和かなシスターのお陰か、落ち着きを取り戻した。しかも飴をふたつもらい、最後は笑顔で帰った。
一部始終を見守ったころには、シスターにも疲れがみえていた。しかし、子供を相手取ったことに対する疲労ではなく、私に辟易した結果のようだ。
「あなたってヒトは……何やってるんですかホントに……」
「あまりにも遅いから絡まれたの。悪いのはそっちじゃない」
「くっ、この傍若無人っぷり、理不尽理論っぷり、まさしく魔女ですねあなた。シオンさんが可愛くみえる」
「お褒めの言葉ありがとう」
にこりと微笑んでみたが、シスターは苦い顔を濃くするばかりだった。
兎にも角にも、合流は果たした。待ち合わせからは二十分ほど過ぎているが、些細なこと。まして、何かに急いでいるわけでもなし。
ふたり公園を後にし、移動を開始した。
「で? なぜ四百一回なのです?」
数歩さきを行くシスター服が、金髪を揺らしながら一瞥した。
それに対し、は、と呆れたように応える。
「くだらないことが気になるのね、あなた」
そんなの、決まっているじゃない。
「お『シマイ』、だからよ」
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