第2話 紀元研究会

 警察を離れると、山内も三十歳代後半に差し掛かっている独身男性だった。

 ずっと彼女がいなかったが、一年くらい前に彼女ができた。その頃はちょうど、腐乱変死体が見つかってからすぐくらいの頃で、少し気が滅入っていた時期でもあった。普段からあまりお酒を呑むことはなかったが、どこかのバーででも酒を呑もうと思いながらフラフラと歩いていると、ふいに後ろから声を掛けられた。。実は彼女とは再会だった。名前を櫻井麻衣といい、山内よりも十歳近く年下の、二十七歳だった。

 山内は大学時代に、何人かの女性と付き合ったことはあったが、続いたとしても数か月、ほとんど付き合ったと言えるほどではなかったのだ。

 別れはいつも相手からだった。

 元々不器用な山内は、女性を相手にすると、余計に委縮してしまうところがあった。相手の女性とすれば、最初はその素朴さが物珍しいのか、好感を持つことが多かったのだが、不器用な付き合い方しかできない山内は、どうしても相手に気を遣わせてしまうことが多く、

「あなたと一緒にいると疲れる」

 と、表現は違っても、おおむね別れの理由は決まっていた。

 そんな山内は、結局学生時代にその不器用さが治ることはなく、彼女と言えるような人はできなかった。

 それもトラウマとなっていた。

 なぜなら、自分の不器用な性格は父親からの遺伝だと思ったからだ。

 厳格というわけではないが、父親の厳格さを不器用な性格の裏返しのように思っていたのも事実で、そんな父親を憎まないようにしていたのは、

――不器用なんだからしょうがない。かわいそうな男だ――

 と、そう思うことで、他人のように感じていた。

 そんな人間を自分の父親だとは認めたくなかったからだ。

 それなのに、自分が大人になるにつれて、明らかに不器用な性格になってくることで次に考えたのは、

――厳格にだけはなりたくない――

 という思いだった。

 相手に自分の性格を押し付けたり、強引さが高圧的にならないように心がけていると、――気を遣わなければいけない――

 と思うようになり、自分のいいところを自分自身で殺してしまっていることに気づいていなかった。

 気づいた時はすでに遅く、自分の見えるところに女性はいなくなっていた。

 またしても、父親からの呪縛だと思うと、父親に対しての恨みが湧いてきて、それを押し殺すことが、学生時代最大のトラウマになってしまった。

――大学に入ってまで、他人のように思おうと思っていた父親の呪縛に苛まれるなんて――

 と思うのだった。

 大学を卒業してから、警察に入ったのだが、考えていれば、一番自分らしかったのは、巡査時代の五年間だったのかも知れない。その頃は、田舎の交番勤務だったのだが、地元密着の交番勤務は、一番人とのかかわりが暖かかった。

 刑事になってから人間関係を、捜査のためだけにしか考えないようになると、その歪な人間関係に驚かされたり、

――もし、自分が当事者だったら――

 と思うと、やりきれない思いに何とさせられたことだろう。

 しかし、それも慣れであった。

――こんなことに慣れたくもないのに――

 とは思ったが、慣れないとやってられない。

 先輩刑事から、叱咤を受けながら自分で理解していくしかないこの世界、誰が助けてくれるわけではなかった。

「警察官は市民の安全を守るが、俺たちを守ってくれるものは何もない」

 と言われた言葉が身に染みて感じられた。

 学生時代とは打って変わって厳しい世界に飛び込んだ山内は、さすがに最初は逃げ出したい気持ちになっていた。

 別に警察官になりたくて大学に入ったわけではない。目標があったわけでもなく、学生時代も適当に勉強して適当に遊んで、それも適当なので、遊んだと言っても中途半端だった。

 ここでも、厳格な父親の血を引いているのかと思うと悔しくて情けなかった。思い切り羽目を外すことのできない自分を、父親の血のせいにしていた。半分は間違っているのだろうが、半分はその通りだった。

 だからこそ、すべてが中途半端だった。情けなく思うのも中途半端。結局、何になりたいという意志もなく、就職活動よりも、安定の公務員を目指した。

 本当なら役所勤めにでもなれればよかったのだろうが、下手な鉄砲を撃ちまくることで何とか不安を解消するしかないと思い、その中で警察官の試験もあり、最終的に合格したのが警察官試験だったというだけだった。

 最初は迷った。

 中途半端な自分に警察官が務まるわけもないし、厳しい世界に自ら飛び込んでいく勇気もなかった。

 だが、他に就職活動をしていたわけでもない。いまさら他の職を選ぶというのも、同じくらいのリスクがあった。頭の中には就職浪人という選択肢はなかったのだ。

 警察官の研修はさすがに厳しかったが、何とかやり遂げることができたのは、父親への反発心からだったに違いない。

 ここで引き下がったら、何を言われるか分からないという思いがあり、ついていくのがやっとだったが、それでも必死に食い下がった。

 その甲斐あってか、県警の中でも実家から少し離れたところの交番勤務になった。家から通うことはできないので、警察がアパートを借りてくれたが、一人暮らしは願ったり叶ったりだった。

 交番勤務はそれまでの気持ちを変えてくれた。父親に対してのわだかまりは消えたわけではなかったが、まわりの人への気遣いが身に染みて感じられるようになると、警察官としての自覚も芽生えてきたのだ。

 事件らしい事件もほとんどなく、平和な街での暮らしだったが、それでも、多かったのは少年少女による万引きや、非行に走る高校生の保護だったりした。

 自分の学生時代には、非行に走るなどという勇気もなかった。引きこもっていたわけではないが、人との関わりはほとんどなかった。家では父親はほとんどが夜遅くなってからの帰宅だったし、母親も夕方からアルバイトに出ていた。

 母親のアルバイトというのは、母親の友達がやっているスナックの手伝いだった。さすがに最後までいるわけにもいかなかったので、夜の十一時くらいまでには帰ってきていたが、疲れ果てているのが分かるので、話しかける気にもならなかった。

 母親のやっている店のママさん。娘がいるのだが、山内のクラスメイトだった。山内にとって気になる存在だったが、声を掛ける勇気もなく、母親同士が友達だというのもせっかくのチャンスのはずなのに、モノにすることができなかった。

 交番勤務になって最初の赴任地には、スナックが数軒あった。そのうちの一軒が山内の馴染みの店になったのだが、その店は、母親と娘でやっていた。

 娘はまだ高校生だったが、店の経営上、他の女の子を雇うお金が今のところないという。本当なら、ここは警察官としては、未成年のアルバイトは禁止なのだが、

「僕が来る日はカウンターの中にいてもいい」

 という条件でアルバイトを許した。

 もちろん、他の誰にも内緒だったが、彼女はカウンターに入っていると言っても、接客をするわけではなく、雑用が主だった。客は常連ばかりだったので、無理なことをいう人は一人もおらず、問題が起こることもなかった。

 そのうちに彼女は高校を卒業し、短大に進学、お店に入らない時に勉強し、短大に合格したのだ。これも山内との約束通りで、彼女が短大に入って、晴れてカウンターに立つことができるようになると、山内は刑事に内定したのだった。

「くれぐれも飲酒はしないようにね」

「はい、分かっています。今日まで本当にありがとうございました」

 彼女の短大合格祝いと、山内の刑事昇進祝いとを同時に行った。

 結構賑やかだったが、

――もっと、この街で巡査をしていたかったな――

 というのが山内の本音だった。

 それから山内は刑事として赴任することになったが、赴任地は実家からは遠かったが、巡査として赴任していた街からは、それほど遠くではなかった。

 刑事になってから、九年が経った昨年、ちょうど勤務を終えて、明日は非番だという、一番楽しみな時、歩いていると後ろから、

「山内さん? 山内さんですよね?」

 と言って声を掛けてくる女性がいた。

 最初は誰なのかすぐには分からなかったが、

「制服じゃないんで、すぐには分からなかったわ」

 と言った言葉を聞いて、

「あっ、麻衣ちゃん?」

「ええ、お久しぶりです」

 そこにいたのは、交番勤務の時、スナックに出ていた麻衣ちゃんだった。

 麻衣ちゃんとは、もちろんその時以来の再会だった。

「すっかり大人っぽくなっちゃって」

 何しろ自分のイメージの中の麻衣は、まだセーラー服姿の女子高生だったからだ。

「そういう山内さんだって、警官の服を着ている時も思ったんだけど、今はもっと頼りがいのある男性に見えるわよ」

 と言ってくれた。

「いやいや、刑事になってからというもの、巡査の時と違って、庶民の目はあまり温かくなくてね。しょうがないところなんだけどね」

 これは本音だった。

 やはり刑事というと、どうしてもまわりからは、鬱陶しい目で見られる。警官の服装をしていると、

「自分たちを守ってくれる警察官」

 というイメージが強いのか、頼りなくても、頼ってくれているのが分かるのだが、刑事ともなると、どうしても威張り散らしているイメージと、聞かれたくないことでも、ズバズバ聞いてくるというイメージが重なっているのか、どうも人当たりは決してよくない。

――俺も昔はそうだったからな――

 テレビドラマのサスペンス物などを見ていると、どうしても出てくる刑事は胡散臭い雰囲気の人が多い。事件を解決しまくっている刑事ほど、庶民から疎まれたりするのが多そうな雰囲気だが、そう思うと、これほど損な役回りもないというものだ。

 実際に、刑事になりたての頃と今とでは、完全にマンネリ化しているとでもいうべきか、マンネリ化というよりは、自分たちの力の限界を知ってしまったことでのジレンマが実際に襲ってきていた。

 警官時代は、

「刑事になれば、やりたいこともできる」

 という思いがあった。

 実際に事件があまりない街ではあったが、たまに起こる犯罪で、県警から刑事が出張ってきた時など、警官というのは、ほとんど雑用係だ。テレビドラマを作成する監督とADのようなもので、刑事もののテレビドラマでよく見る光景を、思い知らされた。

「やっぱり、刑事にならないと、しょうがないんだな」

 と思って、やっとなった刑事だったが、刑事の中でも先輩には逆らえない。

 さらに先輩刑事でも、県警本部のお偉方や、検察には逆らえないのだ。

――どこまでいけばいいんだ?

 という思いがジレンマを引き起こし、

――刑事なんかにならなければよかった――

 とさえ思うようになったが、それでも事件が解決した時など、自分が解決したわけでもないのに、脇役として従事したことに、自己満足を感じていた。

 そのうちに、部下が入ってくるようになり、年数を重ねていくうちに経験も積んでくると、第一線では責任者として扱われるようになると、それなりにやる気も出てきた。三十歳後半になってくると、ちょうどその頃が、同僚や部下とも会話ができてきて、警官の頃の自分を思い出してきたのだ。

――やっと、第一線で認められるようになって、ここからがスタートだ――

 と思うようになると、それまでうまく回っていなかった歯車が、少しずつ噛み合うようになってきた。

 それが、麻衣との再会だったのだ。

 もし、あの時、麻衣に声を掛けてもらえなければ、再会することもなかったかも知れない。近くにいても、昔の知り合いと再会するきっかけは、そうあるものではない。どちらかが発見して声を掛けなければ成立するものではない。山内には、相手を知り合いだと思っても、自分から声を掛けるだけの勇気はなかったのである。

 それを謙虚と呼んでいいのかどうか、山内には分からなかった。相手が男性であれば、躊躇なく話しかけていただろう。もし、自分の思っている人と違っていたとしても、

「ああ、ごめん。知り合いと間違えた」

 と、正直に言えるだろうし、また自分の思っている人だとして、相手が忘れていたとしても、

「俺だよ、俺」

 と言って、忘れていたことを思い出させようとすることで、自分に対してのショックを和らげようとするに違いない。

 しかし、相手が女性であれば、違った相手に声を掛けてしまうと、その恥辱から顔が真っ赤になってしまったり、相手が覚えていてくれなければ、思い出させようとする気力もないほどに、ショックに陥るに違いない。

 それなのに、今回は相手から声を掛けてくれた。何とも感激なことであるのに、何と自分が相手を思い出せなかった。

 それでも、相手は怯むことなく話しかけてくれたことで、山内に悩む隙を与えなかったのは、ありがたいことであった。

――いきなり声を掛けられると、どんなに覚えている相手でも、すぐには思い出せないものなんだな――

 と思うと、自分から声を掛けて、相手がすぐに思い出してくれなかったとしても、それは仕方のないことだということも分かった。

 声を掛けてくれたことで感激したのと同時に、この思いを抱かせてくれた麻衣に、感謝の言葉は見つからないほどだった。

 それにしても、麻衣は大人っぽくなっていた。

 高校生から短大生になった時も、

――うわあ、こんなに大人っぽいんだ――

 と感じたはずなのに、それ以上に感じるというのは、この十年というのは、自分の想像以上のものだったに違いない。

 麻衣と再会した日、別に何かいいことがあったわけでも、むしゃくしゃすることがあったわけでもない。ただ、酒が呑みたい気分だった。

 そんな時というのは、結構あるもので、一か月のうちでも、二、三日はあるかも知れない。

 歩いていて、何となく汗ばむ気がしてくる日がそんな時だった。顔がポカポカしてきて、アルコールを欲しているのが分かる。お腹も減っていて、食事をしながら酒が呑みたいのだ。

 山内は、そんな時、居酒屋や炉端焼き屋に行きたいとは思わない。まわりはほとんどが集団で、一人で来ている客がいようがいまいが、意識することなく、自分たちの世界を作っている。

――うるせぇな――

 と思いながら、バカ笑いをしている連中に歯ぎしりしながら、我慢するなど、実にバカげている。

 一人で呑む時は静かに呑みたいものだ。そんな時は、バーがいい。料理もマスター独自の味を持っていて、見た目よりもボリュームのあるものを出してくれる。これがまた酒にマッチするのだ。型に嵌った料理しか出してくれず、騒がしいだけの居酒屋に行くよりも、一人静かに呑む時は、やはりバーに限る。

 そんな馴染みの店を、いくつか山内は持っていた。

――いずれは、女性を伴って来てみたいものだ――

 と思う店もあり、最近は一番のお気に入りの店に、その日は出かけるつもりだったのだ。

 後ろから声を掛けられた時は、すでに店の近くまで来ていた。

「山内さんは、これからどちらに?」

 と言われ、

「馴染みのバーが近くにあるんだけど、そこで軽く呑んでいこうと思ってね」

 というと、麻衣は嬉々として喜びをあらわにし、

「私もご一緒していいかしら? 実は私も、呑みに行きたいって思っていたんです」

 これには、山内も驚いた。

 まるで運命のようなものを感じながら、店に入る自分を思い浮かべていた。

「おや、山内さん。今日はお連れさんがいるんだね?」

 とマスターから言われてみたいと思っていた絵を、想像していた。まさに、想像どおりのシチュエーションが浮かびそうだ。

「ええ、ぜひ。ご一緒しましょう」

 久しぶりにワクワクした気持ちになり、その日、バーに行こうと思い立った自分を褒めてやりたかった。

――やはり歯車は噛み合い始めたんだ――

 と感じた。

 今まであまり信じていなかったバイオリズムが信じられるようになってきた。

 もし、刑事の山内しか知らない人が、普段の山内を見てどう思うだろう?

「あれって、本当に山内刑事?」

 と思われるかも知れない。

 刑事として勤務している時は、あまり仕事以外の話をしようとしない。重要な事件を捜査している時は当然なのかも知れないが、事件が解決して一安心している時も、誰かと話すこともなかった。

 最初の頃は話しかけられていたが、返事が曖昧で、疲れているようにしか見えないその様子に、誰も話しかけることはなくなった。次第に山内刑事が疲れているわけでなく、普段から不愛想なのだと分かれば、誰も相手にはしなくなるというものだ。

 刑事としては、

「あいつなら、安心して任しておける」

 と、上司に言わせるほどの仕事ぶりだったが、そんな人ほど、一匹オオカミだったりするものだ。

 しかし、どうも一匹オオカミというのとも少し違うと考える人が多いのも事実で、何か人に言えない過去を背負っているのだろうかと思われていた。

 人には誰でも人には言いたくないような過去があるものだが、露骨に態度に出す人は、意外と刑事には多いのかも知れない。

 ただ、刑事を離れると、結構一人で自由に過ごしている。一人なので孤独なのだが、孤独を寂しいとか、辛いとか思わなければ、それなりに楽しかったりするものだ。誰にも関わることなく一人でいる時間の楽しみを覚えると、刑事でいる時間も、事件が解決した時など人と関わりたくないと思うのも無理もないことだった。

 山内が背負っている過去というのは、巡査時代のことだった。

 巡査になって四年目が過ぎていた頃だった。街の人にも慣れ切ってしまっていて、すれ違う人皆に挨拶をする、

「優しい駐在さん」

 として、皆から親しまれていた。

 農業の時期には、農作業を手伝ったり、通学時間帯には、率先して見回りを強化したり、自分から街の人に溶け込んできたおかげで、摂れた農作物を持ってきてくれる人も後を堪えなかった。

 中にはお弁当を作ってくれる人もいて、完全に街の一員になっていた。

 そんな頃、一人の青年が池で溺れて亡くなったという事件があった。

 その青年は、元々は街の人間ではなかった。都会の大学を卒業し、都会で就職したのだが、生活に疲れて田舎にやってきた。大学は農学部だったこともあり、農業には興味もあったことで、住み着いてから農業の手伝いをしていたが、実にさまになっていた。山内も、そんな彼のことを気に入っていて、

「今時珍しい真面目な青年だよな」

 と、一目置いていた。

 その青年も、山内とり一歳年下というだけで、年齢的に近いこともあり、話が合うようだった。

「兄貴」

 と言って慕ってくれていたが、年齢としては一歳しか違わないのに、それ以上の年齢差を感じているようで、山内には本当に弟ができたようで嬉しかった。

 そんな彼が、池で溺れて死んだ。

 彼は運動神経は決して悪い方ではなく、泳ぎも達者だと聞いていた。それなのにどうして溺れたのか、不思議だったが、発見された死体を見て、監察医は、

「これじゃあ、泳げなかったでしょうね」

 と言った。

「どうしてですか?」

 と聞くと、

「彼は、肩を脱臼しています」

「えっ? 池に落ちた時に脱臼したんですかね?」

「ええ、これほどの脱臼した状態で、治療も施していないというのは、考えにくいことですからね。きっと身体を捻ったか、何かに捕まろうとして無理な体勢になったかのどちらかなんじゃないでしょうか?」

 それが監察医の見解だった。

 彼は名前を佐土原修二と言った。

 佐土原の遺体は家族が引き取り、荼毘に伏された。葬儀も佐土原の家で行われたようで、街からも町長をはじめ、山内も参列した。

 彼は人望が厚かったようで、大学時代の友人が多数集まってくれていた。就職してから入社した会社からは誰も来ていなかったこともあって、

――なるほど、彼が話していたように、都会の生活に疲れるはずだ――

 と思わせた。

 佐土原は事故として処理されたが、実際の死亡推定時刻が明らかになると、ちょうどその時、山内は近くをパトロールしていたことが判明した。

「もう少し、僕が気を付けて見回りをしていれば……」

 後悔しても始まれないが、この思いは山内の中で静かなトラウマとなった。

 監察医の人からは、

「あなたのせいではないですよ。仕方のないことで、不慮の事故ですからね」

 と言って慰めてくれたが、それくらいのことで、精神的な苦痛が取れるわけはない。

 一つ気になっていたのは、その時に顔色が悪かったのが麻衣だったということだ。

 最初は顔色が悪かっただけだったが、次第に山内に対して憎しみに近い表情を見せるようになった。だが、それも少しの間のことで、

――なぜそんな表情をするんだ?

 と、感じた時には、もう普通の表情になっていた。

――気のせいだったのかな?

 と思い、麻衣が自分を睨んでいたという意識は、すぐに忘れ去ってしまっていた。

 佐土原の死は完全な事故だった。誰にもどうすることもできなかったことで、運が悪かったとしか言えないだろう。

 運が悪かったといえば、ちょうどその時、道から池への策の一部が壊れていて、そこから落ちたからだった。ただ、兄貴として慕ってくれていた人が急に目の前から消えてしまい、二度と目の前に現れることはないと思えば、やりきれない気持ちにもなるというものだった。

 それでも、ずっと塞ぎこんでいるわけにもいかず、また今までと同じ毎日が始まった。街の人も何事もなかったように生活しているのを見ると、彼の存在が本当に消えてしまったことを思い知らされたが、思い知ることで、これ以上必要以上に落ち込むことのないようになったのだ。

 山内は、バーで元気に話をしている麻衣を見ていると、つい昔のことを思い出してしあった。その時に自分に恨みを持って見つめていた目を思い出してしまったが、それは十年も前のこと、今の麻衣からは想像もできないほどの幼さだった。

 しかし、幼さが残る中で、バーでアルバイトを始めた時に感じた大人の色香は、今の麻衣を彷彿させるものだったことは間違いない。

――あの時の麻衣の中に残っていたあどけなさが消えると今の麻衣になるんだ――

 と思うと、あの時のあどけなさを必死に思い出そうとしている自分がいることに気づいて、少し恥ずかしく感じられるほどだった。

――バーカウンター越しに見たあの頃の麻衣と、今の麻衣ではどっちを好きになるんだろう?

 山内は、今自分が麻衣をオンナとして意識していることを感じている。好きになっていることも分かっていた。しかし、それも昔の麻衣を知っているから好きになったんだと思っている。そこには、今と昔の間に存在するギャップが影響しているのだろうか。そう思うと、

――元々自分は麻衣のことが好きだったのだ――

 と思えてならなかった。

「麻衣ちゃんは、あれからずっとお母さんのお店で?」

「いえ、私が街から出てきたんです。今、お母さんのお店には、アルバイトで他の女の子が入っています」

「こっちにはいつ頃から?」

「もう三年近くになります。だいぶこの街も慣れてきたところです」

「誰かのつてを頼ってきたのかい?」

「実は、山内さんが巡査時代に池で溺死した佐土原さんっていたでしょう? あの人の実家にしばらくお世話になっていたんですよ」

「えっ、麻衣ちゃんは佐土原さんと知り合いだったのかい?」

「ええ、勉強を教えてもらっていたんですよ。私が短大に合格できたのも、佐土原さんのおかげなんです。ただ、途中であんなことになってしまって、しばらくは勉強が手につかなかったんですが、開き直ると、彼のためにも頑張らないといけないと思い、頑張って合格しました」

「そうだったんだね。麻衣ちゃん、よく頑張ったよね」

 そう言って麻衣を見つめた。

 あの時の麻衣が山内を見つめていた目が、恨みの籠ったように見えたのは錯覚だったのかも知れないと思った。

 事情が分かってくると、麻衣が自分を恨みに思う眼をするとは考えにくかったからである。

――すぐに忘れてしまったのは、その目が本当に恨みの籠った目だという自信がなかったからなのかも知れないな――

 と感じた。

「そんなことはないですよ。私は佐土原さんにも感謝しているし、山内さんにも感謝しているんですよ。佐土原さんがいなくなって心細い時、山内さんがそばにいてくれているようで、本当に嬉しかったんです」

 そう言った麻衣の顔がほんのり赤みを帯びたのを見逃さなかった。

 いくら十年近く経っているとはいえ、久しぶりに再会した人が自分の好きだった人だと思うと、この十年をまるで昨日のことのように感じたとしても、それは大げさなことではないのではないだろうか。

「ありがとう。なんか照れ臭いな」

 この言葉にウソはない。

 この時ばかりは、本当に自分が刑事であることを忘れてしまいそうだった。いや、麻衣と一緒にいる時は、自分は刑事ではない。一人の男性として、彼女に接することが最高の悦びになるからだ。

「佐土原さんのお母さんが優しい人で助かりました」

「でもどうして、佐土原さんのところに行ったんだい?」

「お墓参りに行ったんですよ。まだ街を出る前のことだったんですけど、ちょうど命日の日にですね。その時に、佐土原さんのお母さんとちょうど墓前で出くわして、お話をしているうちに意気投合して、お宅にお邪魔することになったんです。その時は三日間ほどの滞在だったんですけど、お母さんはよくしてくれました。まるで本当のお母さんのような気がするくらいにですね」

 そう言って、麻衣は遠くを眺めるように斜め上を見つめていた。

「ひょっとして、その時に街を出る決心をしたのかい?」

「ええ、私のお母さんも、私が街に出たいと言ったら、反対するかと思ったんだけど、別に反対はしませんでした。『新しい人を雇うから、お前は心配しないでいいんだよ』って言ってくれたんです」

「それで、佐土原さんの方は?」

「私が街を出ると言えば、『じゃあ、私のところに来ればいい。私も一人で寂しいから、娘ができたようで嬉しいんです』って言ってくれたんです」

「それはよかったね。でも、お母さんは一人で寂しいって言っていたというけど、お父さんは? 確か、いたはずだったと思ったけど」

「ええ、佐土原さんが亡くなった時は確かにお父さんはいたそうなんですが、それから三年後に、急にお父さんが行方不明になったらしいんです。お母さんは息子を亡くして、夫が行方不明になって、本当に一人になってしまったんですね。私はそんなお母さんを見て、私が娘になってあげたいって本気で思ったんですよ」

「そうだったんだね」

 父親が行方不明になったとは想像もできなかった。

 確か佐土原さんのお父さんは、自分の家の父親とは逆で、実に頼りない人だった。気が弱くて、仕事もいくつも変えていて、定職についていたわけではない。そのくせパチンコやマージャンなどのギャンブルにのめり込んでいて、少しだが借金があったようだ。

 そんな父親だったので、行方不明になって、母親はむしろ安心しているかも知れない。後で調べてみると、借金はすでに完済されていて、母親が返したわけではなく、行方不明になる前に、父親の方で完済していたようだ。

「それなら、行方不明になった理由は、借金取りから逃げているからだというわけではないようだ」

 ということが分かった。

 しかし、麻衣はそんな事情は知らなかった。

「お父さんがいなくなった理由、何なんだろうね?」

「よく分からないんですよ。お母さんも分からないって言っていました。でも、私と出会った時にはすでにショックから立ち直っていて、一人でたくましく生きていました。でも、やはり寂しいんでしょうね。私が見ていないところでは、寂しそうな顔になっていましたからね」

「よく分かったね」

「ええ、悪いとは思ったんですが、影から時々覗いてみたんです。だって、私はどうしても他人でしょう? いくら娘がほしかったと言っても、私が夫や息子の代わりになんかなれるわけはないからですね」

 と、淡々と麻衣は語った。

「お母さんは、どんな人なんだい?」

 ついつい人のことを聞いてしまうのは、刑事としての悪い癖なのか、思わず聞いてしまったことがどういうことなのか、気づいていない山内だったが、

「優しくて、強い人ですね」

 と、気にすることもなく、ありきたりな返答をした麻衣には、以前警官だった頃の山内とは違っていることに気づいていた。

 気づいていて返事をしなければいけないので、ありきたりな返事をするしかなかったに違いない。

 今度は、麻衣の方から質問してきた。

「山内さんは、刑事さんになってから、結構いろいろな事件を解決してきたんでしょう?」

 急に刑事の話をされて山内はハッとした。さっき、母親のことを聞いたことが、自分の刑事としての無意識の言動だったことに気づいたからだ。

――やっぱり、自分は刑事なんだ。そして、彼女も僕のことを、刑事として見ているだけなのかも知れないな――

 と感じた。

 山内は、普段と刑事でいる時の自分とを、意識して分けるようにしていた。そのいい例が自分のことを呼ぶ時、普段であれば、

「僕は」

 というが、刑事でいる時は、

「俺は」

 という。

 意識して使い分けているのだったが、一人称の言い回し一つで、本当に自分が別人になったような気がしてくるから不思議だった。

「そうだね。解決したというほどではないけど、貢献はしていると思っているよ」

「そんなご謙遜を」

 と言って、麻衣は笑った。

 それにつられて山内も笑ったが、その笑いは麻衣の笑いとは種類の違うものだったに違いない。麻衣の笑いは愛想笑いの類だろうが、山内の笑いは、

――自分はそんなに謙虚な人間ではないのにな――

 という照れ笑いにも似た、どちらかというと戸惑っているような笑いだった。

「最近は、どんな事件を扱っているんですか?」

 麻衣は悪気はないのだろうが、捜査上の話を漏らすわけにもいかず、話を逸らすしかないと山内は感じた。

「そんなに大きな事件はないよ。細かいのがいくつか山積しているような感じなんだけどね」

 というと、

「私の方で気になっていることもあるんだけどね」

 と意味深なことを言う。

「ん? どんな事件なんだい?」

「最近、変死体がたくさん発見されているらしいというのを聞いたんだけど、不思議な感じですよね」

 山内はその話を聞いてビックリした。

 確かに、新聞には、小さな記事として変死体が発見されたことは載ってはいるが、毎日というほどのものでもないので、よほど気にしていなければ、変死体が多いというのは気にならないはずだった。

「どうして、それが気になるんだい?」

「佐土原さんも発見された時、溺死だったけど、変死体のような感じだったでしょう? 私は変死体という言葉には、少し敏感になっているの。だからかな? 気になってしまうのよね」

 アッサリとした口調ではあったが、声の強弱から、佐土原に起こった事故と結び付けてしまっていることで、

「私は、佐土原さんが死んだのは、ただの事故だとは思っていないのよ」

 と言っているように思えてならなかった。

 ということは、佐土原という男性と麻衣は、もっと深いところで繋がっていたのではないかという思いもよぎった。だが、これもすぐに打ち消された。どうやら、山内は自分に都合の悪いことを思いついたら、すぐに否定して、忘れてしまおうとする性格のようだった。

 もちろん、自分でそんなことが分かるはずもない。悟らせてくれるのはいつも麻衣なのは、ただの偶然なのだろうか。

「変死体というのは、自殺だったり、事故だったりする場合、どちらかハッキリさせるために、司法解剖をするんでしょう?」

「そういうことになるね」

「じゃあ、佐土原さんの時も司法解剖されたのかしら?」

「もちろん、してるよ。別に怪しいところもなかったので、事故だと判断したんだ」

「でも、解剖だけで分からないこともあるんじゃないかしら?」

「どういうことなんだい?」

「だって、あの人は泳ぎは達者だったって聞いているわ。だから、あの程度の池に落ちたくらいでは死なないと思うのよ。まさか、誰かに突き落とされたとかじゃないんでしょうね?」

「そんなことはないと思う。争った跡もなかったし、誰かが怪しい人を見かけたわけでもないので、事故以外には考えられないという判断だったんだよ。麻衣ちゃんは、何か彼の死に疑問でもあるのかい?」

「いえ、そんなことはないんです。ごめんなさい、急に昔の話を蒸し返してしまって」

 少し激昂していた麻衣の溜飲が、次第に冷めてくるのが分かってきた。

 一体何にこんなに興奮したのかよく分からないが、確かに当時、彼の死が、誰かに襲われたのではないかということで捜査が行われたのは事実だ。付近の聞き込みも行われ、それで怪しいところはないという結論になったのだが、当時の山内にはなぜ彼の死に疑いが向けられたのか分からなかった。

 しかし、それから少しして、彼の死について疑問を呈した投書があったということを聞かされた。ワープロで打たれたもので、しかも匿名だったので、誰が出したのか分からなかった。

 文面としては、

「この間、池で溺れて亡くなった佐土原修二さんの件についてですが、彼は本当に事故死なのでしょうか? 怪しいところがないかどうか、厳正に捜査の方、よろしくお願いします」

 というような内容のものだったらしい。

 半分は悪戯ではないかと思われたが、投書を無視するわけにもいかず、聞き込みや厳正な司法解剖、さらに彼の交友関係などから、彼を恨んでいる者がいないかなどの捜査が行われた。

 しかし、怪しいところは何もなかった。投書は悪戯だったとして、そのままになってしまったが、山内の中では、

――彼の死が事故だったことは間違いないだろう。しかし、投書が誰が何のために出したのだろう?

 と、しばらくは頭から離れなかった。

 これも、彼の死がトラウマになってしまった一つの原因だった。だが、山内はなぜか、このことを意識しないようにしていた。意識することで、自分が抱えていたトラウマがせっかく薄れかけているのに、また元に戻ってしまうことを恐れたのだ。

――だが、投書があったことは、その時の当事者しか知らないはずだ。それなのに、麻衣の話はまるであの時の投書のようではないか。まさかとは思うが、あの投書は麻衣が出したのではないか? だが、それなら何のために麻衣がそんなことをする必要があったというのだろう?

 ということを、頭の中でいろいろ考えてしまっていた。

 しかし、これもすべて憶測だ。

 麻衣は佐土原さんの家にお世話になっていたと言っていたが、その時に、母親によって何かを吹き込まれたのかも知れない。何か少しでも疑問があれば、アリの巣ほどの穴が、どんどん大きくなって、大きな洞窟になってしまったのではないだろうか。

「麻衣ちゃん、佐土原さんのお母さんは、どう思っているんだい?」

 と聞いてみた。

「事故だと思い込んでいるみたいです」

 という答えが返ってきたが、考えてみれば、冷静さを取り戻した麻衣にそのことを訊ねても、返ってくる答えは決まっているのではないだろうか。

「そうだよね。お母さんとしては、息子が誰かに恨まれていたなんて、考えたくもないからね」

 愚問を口にしてしまったことに、山内は後悔した。

 だが、麻衣が何かを考えていることだけは確かだったが、あまり詮索しない方がいいのではないかとも思えてきたのだ。

 その日は、それ以降、砂土原の話はしなかった。お酒も適当に入ったことだし、明るい話に終始したのがよかったのか、

「また会っていただけますか?」

「ええ、もちろん」

 まるで妹のように思っていた麻衣が、熟した果実のように新鮮さに甘みを増した姿で現れたことは、山内を有頂天にさせた。

 その日はそのまま別れたが、連絡先を交換していたので、次に会うまでにはそれほど時間が掛からなかった。山内の方は仕事が忙しいということもあり、自分からなかなか連絡を取ることができなかった。刑事という職業柄、自分から誘ってしまって、もし急遽事件が起こってしまえば、すっぽかすことになる。もっと仲良くなってからならそれでもいいのだろうが、再会した相手とはいえ、十年という年月は想像以上に長いものだった。

 それでも、麻衣は時々メールを入れてくれ、

「今の段階でお暇であれば、今度の土曜日などいかがでしょう?」

 というお誘いだった。

 山内は、とりあえずの決まっているシフトを提示していたので、麻衣の方も誘いやすかったに違いない。

「いいですよ。待ち合わせ場所はお任せします」

 約束はメールで簡単に決まった。

 事件らしい事件もなく、ちょうど平穏な時期だったのは幸いだった。

 それだけに、麻衣が変死体が増えていることを口にしたことは、少し気になっていた。再会が十年という想像以上の時間だということと同時に、あの事件からも同様の時間が経過している。確かに、十年という期間は長かったが、麻衣との再会では、まるで昨日のことのように思えた。それを思うと、麻衣が自分と出会ったことで、それまで遠い過去だと思っていたことに対し、急に身近に感じたとしても、それは無理もないことではないだろうか。それだけ時間の感覚というものは曖昧で、人が関わってくると、簡単に変わってくるものだということを感じさせられたような気がした。

 麻衣と待ち合わせをする数日前、紀元研究会の内通者と連絡が取れ、団体の建物の外で話が聞ける人がいるという。その人は最近まで研究会に所属していて、今では脱退し、ジャーナリストの道を進んでいるという。

「その人には、団体の秘密について、聞こうとはしないでください。彼が話したいことをこちらが聞く。そして、それについて質問は受け付けるが、決して立ち入った話はしないということを約束してください」

 と言われた。

「それはもちろんです。それにしても、宗教団体を脱退してジャーナリストの道を進むなんて、すごいじゃないですか」

 というと、

「いやいや、紀元研究会のスタッフも信者も、入信前はしっかりした職についていたり、高学歴だったりする人が多いんですよ。だから、脱退しても、自分で自立もできるし、社会に適合もできる。これが他の宗教団体との違いなんですよ。他の宗教団体は、脱退する人がいないでしょう? 脱退できたとしても、いきなり社会に放り出されることになるので、なかなか社会適合ができるはずもない。元々、社会適合ができない人が救いを求めて宗教に入るというパターンが多いので、それも当たり前のことなんですけどね」

 なるほど、言われてみればその通りだった。

「宗教というのは、救いを求めて入信する人が多いのに、入ってしまうと、隔離されたようになって、独裁的な組織の中で、自由もなく、よくそれで精神的に耐えられるなと思っていたんだよね」

 というと、

「一度挫折を味わったことのある人間からすれば、そんなことはないんですよ。自由がなくて、縛られている方が安心できる場合もある。何でも自由にしていいと言われると、その場で競争社会に身を置くことになる。気の弱い人なら、すぐに押し潰されてしまう。それに比べれば少々自由がなくても、生活の保障をしてくれるんだったら、そっちの方がいいと思う人は少なくないんですよ」

――俺だって挫折の一つや二つ――

 と思ったが、口に出すのはやめた。

 まるで負け犬の遠吠えにも似た行為は、刑事としてのプライドが許さない。宗教団体というのがどうしてなくならないのか、その秘密がそのあたりにあるのかも知れないと、山内は思った。

「ジャーナリストとしてはフリーなので、本当に自由に話をしてくれると思います。ただ彼もプライドが高いようなので、そのあたりは気を付けて話をしてくれると助かります。さらに彼は見た目と性格に開きがあるようなので、奥に秘めた何かがあると思っていただけるといいかと思います」

 内通者も、さすがに危険な仕事をしているだけに、感覚が鋭くなってくるのも当然だった。

 さらに彼は話してくれた。

「元々、紀元研究会というところは、前身を創生会と言っていたのをご存じですか?」

 と聞かれて、

「ええ、存じています」

「創生会は最初から宗教団体だったわけではなく、ただのサークルだったんですよ。創生というように、何かを作り出すことをモットーにした人の集まりで、それは、いわゆる頭脳集団と言ってもいいような感じでした。私が入った時はすでに宗教団体になっていたんですが、パッと見、宗教団体と分からないような感じでしたよ」

「それって怪しいですよね」

「そうじゃないんですよ。宗教色が強くなったと言っても、別に人に迷惑を掛けるわけでもないし、入信も脱退もほとんど自由だった。今もその傾向は残っているんですが、普通の宗教団体のように、神様を崇めたり、教祖が一人で教えを諭したりと言ったカリスマ性があるわけでもない。法人格として宗教法人になっていますが、その一部は学校法人と言ってもいいのではないかと思うようなところもあるんですよ。私は、その部分に共感して入信したんですけどね」

「でも、脱退したんでしょう?」

「ええ、フリーでジャーナリストをしようと思うと、紀元研究会という名前がネックになってしまう。そこで止む負えず脱退することにしたんですが、仕事が理由で脱退する人は結構いて、そういう脱退に関しては、あの団体は寛容ですね」

「聞けば聞くほど、宗教団体らしくないような気がしますね」

「ええ、団体の中は一応組織になっているので、上下関係を示す役職は存在しているんですが、実際には、それほど厳しくはないんですよ。一般サラリーマンが働いている会社の方がよほど上下関係が厳しい。紀元研究会では、メリハリさえしっかりしていれば、そんなに上下関係にやかましいわけではないんです。その方が、目上の人に対して尊敬の念が湧いてくるというもので、上のものも、尊敬の目で見られると、襟を正して、下のものの相談にも親身に乗ってあげられるんですよ。だから、私は紀元研究会というのは、現代の『理想郷』のようなものじゃないかって思うんです」

「なるほど、よく分かりました」

 話を聞いていれば、いかにもと思えてくるが、少し冷静になって考えれば、あまりにも都合のいい受け答えに感じられた。もし、彼がプロパガンダのために脱退したように見せかけているのであれば、完全に確信犯である。何と言っても、入信や脱退が、ある程度自由だというのも胡散臭く感じられる。

 しかし、彼のいうように、紀元研究会はその前身の創生会の時代から、宗教団体として世間を騒がせるような事件を起こしたことは一度もなかった。二十年前に世間を騒がせたあの宗教団体は、紀元研究会とはまったく違って、明らかに独裁団体だった。

 内部は完全にシャットアウトしてしまい、政府の官房長官のような人がスポークスマンとして出てきて、彼が報道陣の相手をしているだけだった。窓口として彼の姿をテレビで見ない日はなかったくらいだ。

 彼の場合は完全に時間稼ぎの役割が強かった。

 警察組織も、確固とした証拠もないので、令状が取れず、内部を捜索することができなかった。

 彼らの犯罪のほとんどは、入信した人の家族から、捜索願いとともに、宗教団体に入っているのが分かると、連れ戻してほしいという要望だった。

 しかし、肝心の本人が拒否しているのだ。

 そんな家族が一人や二人ならそれほど問題にはならなかったが、弁護士団を率いて、訴訟を起こしたりしたものだから、大きな社会問題になった。

 そんな時、彼らが起こしたかも知れないと思われる犯罪が露呈したことで、訴訟から目が逸らされた。

「保身のために、新たな犯罪を起こされてはたまらない」

 ということで、捜査も慎重にならざる負えなかった。

 そんな状態で、警察と宗教団体の間で睨み合いが行われる中、スポークスマンが出てきたことで、またしても世間の目はそちらに向いた。

 しかも、スポークスマンのパフォーマンスは、他人事のように見ている人から見れば、面白い存在だった。ワイドショーで騒がれると、いきなり時の人になり、完全に目は彼に向いてしまった。

「またしても、やつらの常套手段だ」

 と思われ、次第に警察も手が出せなくなってしまった。

 下手に動けば、余計な社会問題を引き起こさないとも限らないからだ。

 その宗教団体も時間稼ぎをしていたが、思ったよりも早く収束に向かった。

 きっとスポークスマンも、

「こんなに早く、話題が収まるなんて」

 と思ったことだろう。

 何しろ、彼はテレビに出すぎたのだ。

 改まって新しい事実が出てくるわけでもなく、ただ彼がテレビでパフォーマンスを示すだけだ。

「人の噂も七十五日」

 というではないか。

 新しい話題があるわけでもないのに、ただテレビに出ているだけでは、そのうちに飽きられてしまうのは当たり前のことだった。

 最初の印象が強ければ強いほど、それ以上のパフォーマンスはない。どんどん萎んでいって、最後には消えてなくなるのだ。

 そんなことは分かっていての時間稼ぎだったのだろうが、それ以上に人間の飽きが来る早さと、他人事だと思っているアッサリ感とでは、どうしようもなかったに違いない。

 宗教団体の教祖は逮捕され、内部が公開された。

 テレビで放映できないほどの装備があったことで、またしても話題を攫ったが、教祖が逮捕されてしまっては、もう人の心はすでに団体から離れて行った。

 ただ、人の気持ちの中に、

「宗教団体イコール社会悪」

 というイメージが浸透してしまった。

 元々、胡散臭いものだというイメージは誰もが持っていたのだろうが、その思いを決定的にした出来事が、この二十年前の一連の社会問題だったのだ。

「ここまでくれば、少々のことが起こっても驚かない」

 とまで言われた社会問題、今考えてみれば、

――一体何が問題だったんだろう?

 と思えてならない。

 それだけ時間稼ぎが巧妙だったのか、それとも、事件そのものよりも、宗教団体という得体の知れないものに対しての、漠然とした悪いイメージがこびりついてしまったことが問題だったのだろう。

 それ以降、宗教団体が世間を騒がせるということはなかった。

 むしろ、個人による凶悪犯が増えたり、陰険な苛めやネットなどによる見えない暴力が蔓延ってみたり、ストーカーのような人間の心理の奥深くに住み着いた悪魔が悪さをするような時代になっていた。

 全体的に陰湿で、暗い何かが渦巻いている世の中になったものだ。

 それに対しての法整備も追いついていない。急激な世の中の変化に、社会がついていけない時代が続いていた。

 この話も、ジャーナリストにしてみると、

「そうですね。私はずっと紀元研究会の中にいたので、世間のことをまるで他人事のように見ていましたが、他人事のように見ていても、その陰湿さが伝わってくるのが最近の時代なんですよ。世界大戦が終わって、米ソの二代大国による時代を『冷戦』つまり『冷たい戦争だ』と言いましたよね。まさに今の時代はそうなんでしょうね。社会問題にしても、昔のように、一つの大きな問題があるわけではなく、小さな事件が無数にあって、掴みどころのない時代に入ってきた。まさしく今こそ『冷戦の時代』だと言えるんじゃないでしょうか?」

「まさしくその通りですよね。私も警官から刑事になって実際に捜査に加わるようになると、特にそう感じますね。警察の力の限界とでも言うんでしょうか。正しいことをしようとしても、何もできない。しかも、悪だと思っている連中から、何もできないことをあざ笑われて、どんな思いでそれに耐えているかと思うと、こんなに悔しいものはない」

 思わず愚痴をこぼしてしまったが、本音だった。

「ところで山内さんは、何か紀元研究会に興味があるんですか? 何かを調べているとは思うんですが、あの団体に犯罪の影は見えなかったように思うんですが」

「本当にそうですか? ウワサらしいものは、いろいろ聞いたんですけどね」

「どういうウワサですか?」

「入信した人が、実は行方不明になっているとか、誰かの身代わりにされているとかですね」

 それを聞いたジャーナリストは苦笑いを浮かべて、

「ははは、そんなことはありませんよ。宗教団体への偏見がそういう噂になったんでしょうね」

 彼の表情を見ている限りでは、ウソを言っているようには思えなかった。

 それは、本当に彼の言っていることが事実だからそんな表情になったのか、それとも、彼自身、何も知らされていないのかのどっちかにしか思えなかった。

 だが、紀元研究会は、入信も脱退もある程度自由だというではないか。いつ誰の口から秘密が漏れるかもわからない。そんな状況で、何かヤバいことができるというのもありえない気がした。

 もう一つ、入信と脱退が自由だというと、一つ気になるのが、団体の運営に関してのことだった。

 他の宗教団体は、入信の際にはお金を取ったりしているはずだ。宗教法人と言っての慈善事業ではない。資金が必要なのは当然のことで、どこからそれを得ているのか、分からなかった。

 内通者も、団体に寄付をさせられたりしたわけではない。

「来る者は拒まず」

 というのがモットーのようで、宗教団体としては、本当に異色な存在だった。

「きっと、一般の信者には分からないところでスポンサーがついているんだ」

 と内通者は言っていたが、そのスポンサーが問題だ。

 どこかの団体なのか、それとも個人からなのか分からないが、ひょっとすると、紀元研究会がその人、あるいは何かの団体の「隠れ蓑」のような存在なのかも知れない。

 そう考えると、少し厄介である。

 何かの力が働いていると思うと気持ち悪くなった。

「悪魔は、言葉巧みに人に近寄り、人間であれば、誰にも敵うことのない力を与えると約束したが、その代償として、その人の目標が達成させると、その人の血液を一滴残らず差し出さなければいけないという契約だ」

 という小説を読んだことがあった。

 つまりは、命と引き換えに自分の目的を達成するという、命がけの契約なのだが、これを見て、意見は賛否両論なのではないだろうか。

「いくら目標が達成されるとはいえ、そこで死んでしまうのであれば、何にもならないのではないか」

 という考え方。

 または、

「目標が達成されるのだから、死んだって構わない。どうせ、寿命を全うしても、目的を達成できなければ、生きていた意味がない」

 という考え方、

 はたまた、

「目標が達成できるかどうかは二の次で、寿命を全うする中で、どれだけ目標に近づけるかどうかが生きている意味であり、生き甲斐なんじゃないか。だから悪魔に血を売るなどという行為は許されない」

 という考え方である。

「倫理観、潔さ、生き甲斐」

 それぞれに、言い分があり、間違った考えではないと思っているだろう。

 そもそも、何が正しいのかなどということは生き方については、人生を全うしなければ分からない。終わってしまわないと分からないことというのは往々にしてあるというもので、山内も、時々考えることだった。

 山内が考える宗教団体というのは、二番目の潔さにあるのではないかと思っている。

 特に人生に失望したり、目標を見失いかけているような人、さらには、目標に対する思いが強すぎて、世の中の理不尽さが身に染みて分かっている人などは、この潔さに感服するのではないかと思った。

――世の中に裏表があるとすれば、もう一方の世界は宗教団体の存在のようなものなのだろうが、ではどちらが裏で、どちらが表なのかと聞かれたら、自分は何と答えるだろう――

 と、考えていた。

 山内は、宗教団体というものは、人間の弱い部分に巧みに入り込み、甘えたくなる気持ちを引き出すことで、何かに頼ろうとする人間本来の本能を利用するものだと思っていた。それがいいことなのか悪いことなのかというのは、

――考えるまでもなく悪いことだ――

 と思い込まされていた。

 それは、まわりの話からもそう思えたし、実際の報道を見ていても、そう思わされるプロパガンダがその中にはあったのだろう。

 二十年前のスポークスマンの存在が、そのことを証明していた。

 彼は時間稼ぎの役割だったが、本来は宗教団体を正当化し、信者を増やしたり、信者の家族を安心させるのが、本来の役割だったはずなのだ。

 違う役割を押し付けられたことで、彼は時の人となった。自分の立場に何を感じて、彼はマスコミの前に立ちふさがっていたのだろうか?

 山内は最初、今回会ったジャーナリストも、あの時のスポークスマンと同じような人なのではないかと思って会ってみた。しかし、途中で少し雰囲気が違っているのを感じ、話を聞いていたことに気が付かなかった。そして、最後までそのことに気づかなかった。

 しかし、彼と別れて冷静になると、自分が最初に思っていた雰囲気と違っていることに気が付いてみると、今度は彼の話をどこまで信じていいのか分からなくなった。これでは彼と会った意味がないではないか。

 その感覚は、

「タマゴが先か、ニワトリが先か」

 という理論に似ている。

 彼と会ったことで、本当は紀元研究会の内情を知ることが目的だったはずなのに、その目的を知ろうとすると、彼を信じないといけなくなる。しかし、彼を信じるということは、紀元研究会への疑惑を追及したい自分にとって、

――信じてはいけない人を信じなければいけない――

 という一種、辻褄の合わない理屈を正当化させなければいけなくなってしまう。

「入信した人が、実は行方不明になっているとか、誰かの身代わりにされているとかですね」

 という質問をした時に見せたあの態度、いかにも、そんなことはないと口では言いながら、軽く笑って見せたところなど、どこかわざとらしい。誰の目にもそのわざとらしさが感じられるということは、みえみえの芝居をしているように思わせるには一番だ。

 もし、それが芝居であるなら、カマを掛けたことが事実ということになる。

 山内は、内通者から、

「立ち入った話はしないでほしい」

 と言われたが、それは、

――立ち入った話を聞いても、彼は何も知らない――

 ということなのか、それとも、

――彼は知っているけど、話そうとはしない――

 ということなのだろう。

 後者であれば、

――話をしてしまって、秘密をばらしたことで、今度は自分がばらされてしまう――

 という恐れもあるから、聞かない方がいいと言われた可能性は否定できない。

 それでは、二十年前の社会問題と同じではないか。そう思ったことで、慌てていろいろなことを聞かないようにした。変死体の多いことを口にしなかったのは、正解だったかも知れない。

 それから山内は、そのジャーナリストと会うことはなかったが、彼の表情の中で、カマを掛けた時に見せた笑った顔が、しばらく忘れられなかった。

 山内がジャーナリストから、何ら情報を得ることができなかった次の日、また変死体が数体見つかった。

「そういえば、最近変死体が見つかっていなかったですね」

 と後輩の刑事が山内に言った。

 彼はまだ刑事になってそんなに経っていないこともあって、目の前の事件に当たるのに精いっぱいで、少なくなってきて、最近ではほとんど発見されなくなった変死体のことなど、きっと頭の中にはなかったに違いない。

――そうじゃないと、そういえばなんて言葉が口から出てくるわけもないしな。まあ。それもしょうがないことだな――

 と、新米刑事に対して大目に見ようと考えていた。

 今度の死体は、五体が発見されたというが、同じ場所で発見された。その場所は誰もが立ち入ることのできる場所で、発見されるのは時間の問題だったのだろう。

 つまりは、前日にはなかったということを意味している。したがって、その五体の変死体は、誰かが何かの目的をもって、その場所に遺棄したということになる。まだ死体を見たわけではない山内だったが、それくらいのことは見当がついた。

 だが、横にいる新米刑事はどうだろう?

 変死体というと、普通考えれば、自殺を思い浮かべるが、集団自殺でもあったのかと思っているかも知れない。最近ではネットで一緒に死んでくれる人を募集するものもあるというが、自殺募集サイトの画面でも思い浮かべているのではないだろうか。

 実際に死体を見ると、山内の考えが正しかったことは明白だった。

「なんだこの死体。完全に腐乱しているじゃないか」

 と言って新米刑事は驚いている。

 山内刑事は十年前の事件を知っているだけに、こんなことではないだろうかと、最初から感じていたので、それほど驚きはしなかった。

 だが、それよりも、十年前とまったく同じ現象だということが気になっていた。

――ということは、ここで事件を解決しておかなければ、今後も続く恐れがあるということか――

 十年前に解決できなかった事件と酷似した事件が起こった。近年であれば、何かの目的を持っての連続犯罪か、模倣なのか、すぐに判明するだろうが、十年も経ってしまっていると、どちらも可能性は極めて低いが、それ以外には考えられない。判断も難しいところである。

 監察医が腐乱具合を見て、

「う~ん」

 と、頭をひねっていた。

「どうしたんですか?」

 と訊ねてみると、監察医はおかしなことを言いだした。

「これは実際に解剖してみないと分かりませんが、どうも、全員の死亡推定日は違っているように思えるんですよ」

「こんなに腐乱していても分かるんですか?」

「ええ、腐乱していると言っても、これは死んでから腐乱したんではなく、生きている間にこんな風になってしまったんではないかと思えるんですよ。つまりは、最初に腐乱し始めた時は生きていて、死んでからその腐乱が進行したというべきでしょうか?」

「そんなことがありえるんですか?」

「普通は考えられません。だから余計に気になるんですが、腐乱具合だけに気を取られていると、まるで一気に寿命まで年を取ってしまったような感じに見えますね」

「それって、まるで浦島太郎の玉手箱のような話じゃないですか?」

「そうですね。何かの辻褄合わせなのか、次元が違っているのか、まるでSFのようなお話になってしまいます」

「医者の立場で、それを認めちゃっていいんですか?」

 新米刑事が茶化すように言った。

 すると、監察医は一瞬ムッとした表情になったが、すぐに気を取り直して、

「いや、状況だけを見ると、そうとしか表現できないというだけですよ」

 と、答えた。

 内心では、ムカついているのかも知れないが、新米刑事の茶化しに対し、まともに相手にするのも疲れるだけだと思ったのではないだろうか。

 遺体発見現場では怪しいと思われたことが、解剖されるとハッキリしてきた。

「やはり、それぞれの遺体は、死亡時期は違っていますね。一番古いものは二年前くらいで、一番新しいものは、数か月前です。またこれも不思議なんですが、一番古いはずの二年前の遺体なんですが、腐乱状況は、二年も経っているとは思えないほど、綺麗なんですよ。腐乱はしているのに、どこかでその腐乱が止まってしまったとしか思えないんですよ」

「それは、人の手が加わって、腐乱状況が遅れたというんじゃないんですか?」

「いや、二年も経っていれば、顔など見れたものではないはずなのに、特徴は残っている。しかも、身体のすべてが同じ時期に死んだものとは思えないようなところもあるんです」

「というと、殺しておいて、身体を切断し、また元に戻したとでも言いたげな感じですね」

「いえいえ、そんなことをすれば、見ればすぐに分かるでしょう。接合した後があるはずだからですね。しかも、いくら接合したとはいえ、一旦切り離したのであれば、どんなに綺麗にやっても、切断部分から腐乱が始まるはずなんですよ。その気配はないですからね」

「とにかく、科学的に診断すればするほど、分からないことが明るみになってくるというわけですか?」

「そういうことになりますね。私もずっとこの仕事をしていて、こんなことは初めてです。一人でいるのが怖くなるくらいですよ。普段死体と向き合っているはずのこの私がですね」

「何か、オカルトっぽくなってきましたね。何かの怨霊でも憑りついているいるんでしょうか?」

「私は医学者なので、非科学的なことは認めたくないのですが、世の中には常人がとても想像できないような恐ろしいこともあるんでしょうね。事実は小説よりも奇なりということわざもあるじゃないですか。まさにその通りなんでしょうね」

 オカルトという言葉を自分で言っておきながら、どうしてすぐに宗教団体が思い浮かばなかったのか、自分でも不思議だった。内通者まで入り込ませて紀元研究会を探ろうとしたのが何のためだったのか、今回の変死体の発見が、さらに頭の中を混乱させる結果になった。

 発見された変死体の身元は、今回も相変わらず簡単に分かるものではなかった。しかしいずれあることがきっかけで分かることになるのだが、やはり紀元研究会が、今度の事件に深く関わっているという考えは、グレーよりも真っ黒に近かったのだ。

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