第3話軽い気持ちでスライムに喧嘩を売ってみる
街の中央に伸びる大きな通りを脇に逸れ、しばらく路地裏を進んだ場所にそれはいた。
ツルッとした見た目、プルンとゼリーの様なボディ、手足どころか目鼻さえないそれは、路地裏の石畳の上にポツンと存在していた。
「スライム……だよね?」
真珠の呟きに反応したかの様に、スライムは体をプルプルと震わせてみせた。
砂浜に打ち上げられたクラゲの様なコレがスライムじゃないわけが無い。
コレが万が一にも誰かがここに置いていったクラゲなら詐欺である。
まだ街の住民の目には触れていないのか、騒ぎにはなっていなかった。
――よしよし。とりあえず初戦の相手としては最高だよね。なんせスライムだし。
スライムを異世界に来ての初めての敵と見なした真珠は、一度頷くと武器を――
「――武器がない!」
最初から分かっていた当たり前の事を今更ながら叫ぶ。
女神から与えられたのは能力と加護だけで、戦う為の武器も防具も授かっていない。丸腰である。
「え? え? どうやって倒せば良いの?」
困惑し、スライムを見て、右を見て、左を見て、またスライムを見た。
単に慌て、混乱したからの行動であり、なんの解決策も飛び出しては来ない。
ただ、真珠は目の無いはずのスライムと何故だか目が合った様な気がした。
スライムは最下級のモンスターである。
動きも遅く、力も無い。人にもモンスターにもただ狩られる為に存在する悲しき生き物なのだ。
しかし、これはスライムに対峙するのが大人で、更に冒険者であればの話。
ぬるま湯で育った異世界の少女にとっては十分な脅威といえた。
ここで逃げていれば良かった。逃げるだけなら子供の足でも逃げられる。
だが、真珠の頭の中には逃げるという選択肢などは全く無かった。
何故なら、少女はこのちょっと大きいだけのクラゲみたいな生物が危険だとは微塵も考えなかったからである。
ようするに舐めていたのだ。
加えて、自分には女神に選ばれた。と、いう妙な自信を獲得していた。異世界に来て、女神に加護を与えられ、能力も与えられた。
そんな自分がそこらの雑魚モンスターに負ける訳がないという、なんの確証もない自信。
ゆえに、例え武器が無かろうと、「なら蹴れば良いや」程度に考えており、プルプルと体を震わせながらこちらに近づいて来るスライムを静かに観察していた。
そうして、ゆっくりと足元近くまでやってきたスライムを、「えいっ!」という掛声と共に蹴りつけた。
水を蹴飛ばした様な感触が真珠の脚に伝わる。
が、最下級とてモンスターはモンスター。非力な真珠の蹴り一発で仕留められる程に弱くはない。
「やった?」
疑問符をつけて、真珠がフラグを口にした瞬間、今までの鈍い動きが嘘だったかの様な素早いスライムの一撃が真珠の腹部を襲った。
「がはっ!」
スライムの不定形な体を目一杯伸ばして繰り出された、肺の中の空気を無理矢理押し出す様な腹部への一撃。
凄まじい衝撃に真珠の体がくの字に曲がり、そのまま膝から崩れ落ちた。
苦悶の表情を浮かべ、腹を抱き締める様に地面にうずくまる。
横隔膜が硬直し、呼吸が出来ない苦しみに身悶えする。
横隔膜の硬直は人の呼吸を阻害する。
それは陸にいながら水の中で溺れる様な感覚。加えて、腹部への痛みが意識をハッキリとさせ、瞬間的な気絶を許さない。
その為、地獄の様な苦しみに耐えねばならない。
腹筋など鍛えているはずもない少女に、スライムの一撃はあまりに重すぎたのだ。
(痛い――苦しい――)
息の出来ない苦しみの中、されど意識はハッキリしていた真珠は、何とか呼吸を試みようとしていた為に自分がだらしなくヨダレを垂らしといる事にも気付かず、うずくまったままスライムへと目を向ける。
そもそもにして、これまでの人生において、誰かにこれだけ力いっぱい殴られた経験などなかった少女。真珠の目には、先程まで人畜無害に見えていたそれは、もはや恐怖の塊でしかなかった。
恐怖の塊がプルプルと揺れ動く。
真珠の身体がビクッと震え、全身に緊張が走った。
立つ?
立てる?
逃げなきゃ――そうだ逃げなきゃ、またアレが……。
意識はしっかりしていたし、思考も出来た。しかし、酸素の全く足りていない身体がいうことを聞かない。
何とか逃げ出そうとする真珠の視界の隅でスライムが一度、大きく揺れた。
つい今しがた味わって、現在も続く痛みへの恐怖から、真珠は反射的に目を堅く閉じ、思わず腕に力を込めて抱き締めたままの自分の腹を守った。
うずくまった体と両腕で隠れてしまっている自分の腹部を、わざわざスライムが狙う訳が無いなどとは微塵にも思わなかった。
そして――スライムの全身を駆使して放たれた二撃目は、真珠のこめかみを見事に打ち抜いた。
痛みを感じる間もなく、真珠は失神した。
☆
対象の抵抗が完全に無くなった事を確認した後、それはゆっくりと獲物へと近づいた。
そうして動かなくなった獲物の身体に僅かに触れると、触れた箇所を起点に、紙に水でも染み込ませる様にじわりじわりと自らの身体を獲物へと這わせ、包み込んだ。
薄く広がり、獲物の身体の半分程を包み込んだところでスライムの身体が波打つ様に震えた。
スライムであるそれに、人の様な感情は無かったが、それの今の気持ちを代弁するなら「久々の大物で上機嫌」と言ったところだろう。
大抵の生き物は自分が覆い、空気と遮断してしまえば勝手に死ぬと本能で理解していた。
完全に包み込んだ後は、ゆっくり時間をかけて溶かしていくだけ。
違いは獲物が大きいか小さいか動物か植物かその抵抗であり、やる事は変わらない。いつもの自分の食事風景。
そのはずだった。
真珠を包んでいたスライムの身体が僅かに輝く。
そうして次の瞬間、スライムは自らが捕食の為に捕らえた少女を解き放ち、また身体を最初の楕円形をした姿に戻していった。
景色を楽しむ視界も無ければ、花の匂いを嗅ぐ嗅覚もない。小鳥のさえずりに耳を傾ける事も、それを口ずさむ事もしない。
ただ本能のままに溶かして食うのが楽しみであるスライムが、その唯一の楽しみさえも放棄したのだ。
そんな一匹のスライムの前には、何度も咳込みながら起き上がる一人の少女の姿があった。
スライムは、その場で静かに少女を見ていた。
「上手くいった――って事で良いんだよな?」
乱した呼吸を整えながら少女が言った。
それから少女は少しだけ逡巡する素振りを見せてからスライムに言った。
スライムは少女の言葉を静かに聞いていた。
「モンスターなぁ……。倒したがってたから倒してやりたいけど、せめて武器でも無いと勝てそうに無いんだよな」
小さな息を吐きつつ少し残念そうに言った少女の言葉に、スライムは考えた。生まれて初めて思考した。
思考と云っても深いものではない。
もしも、たった今、知恵を獲得したばかりのこのスライムがもう少し物事について深く考える事が出来たなら、気絶する前と後では、少女の雰囲気がガラリと変わった事に気付けたかもしれない。
見た目も、声も、全く同じ。
しかし、中だけが全くの別人。
少女の内側の変化には気付かぬまま、世にも珍しい知恵を持ったスライムは、思考ののち、少女の見ている前で自らの身体を2つに分けた。プルプルが2つになった。
「――は?」
腹を擦りながらスライムを見ていた少女は、スライムが増えた事に怪訝な声をあげる。
先程一体だけであった時と比べ、体積はちょうど半分づつ。
全てが半分。
そうして二体となったスライムは、一度だけ同時にプルンと震えた後、一体を残して森の中へと消えてしまった。
「何がしたかったんだ?」
一人言のように吐き出す少女に、残ったスライムがプヨプヨと近づいていく。
そうやって、やや緊張気味にそれが近づいて来るのを注視していた少女の前へと進み出ると、スライムはゆっくりと、まるで両腕を伸ばすかの様に上へと掲げた。
その両の手の平の上には半透明な何かがあり、それはまるでスライムが少女にそれを献上する様な、捧げる様な格好であった。
「え!? なに!?」
スライムの奇行に少女が一歩後ろに下がる。
しかし、負けじとスライムもズズイと距離をつめた後、プルンと震えた。
「……取れば良いの?」
尋ねるとスライムは身体を震わせ肯定してみせた。
自分で尋ねておきながら、少女は僅かに眉根を寄せて訝しむ。
何故かは分かっていなかったが、この時少女にはスライムの気持ちが何とはなしに理解出来ていた。
言葉ではなく、心の内に伝わるスライムの感情みたいなものが直に伝わってくる。
「えっと……じゃあ貰うよ?」
最終確認とでも言いたげに言って、スライムの掲げる物に手を伸ばす。
触れた瞬間、ヒンヤリとした感触が手の平に伝わり、無意識の内に手に力がこもる。
けれど、手にはしっかり、それを握りしめている。
そうして、それを受け取った後、スライムからの意思が胸の内に流れ込んで来た。
食べろ――と。
「……マジで?」
初めて目にする生き物から差し出された、この得体の知れない物を食べろと言われても……。
手の中の物をまじまじと見つめながらそう困惑する。
それは一口サイズよりは少し大きい位の物で、ちょっと冷たいグミの様な感触。匂いは無い。
しばらく無言で、
食べるべきか――
食べても平気なのか――
そんな事を考えながら手の上に転がるグミを眺めた。
ふと、思考の切れ目に足元を見ると、こちらを不安そうに見つめる(ように見える)スライムと目が合った気がした。
そのスライムに目など無いのだけど、そんな風に思ったのだ。
少女に、スライムの気持ちが伝わると言っても、それは酷く大雑把なもので、例えるならペットの犬が尻尾を振っているのを見て「あ、今喜んでるな」と、何となく伝わるその程度のもの。
この場合は、目には見えないジェスチャーと言ったところ。
そして、今のスライムの気持ちを言葉で表すならば、自分の唯一の楽しみである「食べる事」、その喜びを少女にも感じて欲しい、欲しいけれど少女を困らせてしまって申し訳ない。
という、ジェスチャーだけでは中々表現しにくい感情で、それに加えて上手く伝えられない自分へのイラ立ちや不満、悲しさなんかも入り混じって、感情がごちゃごちゃになってしまっている。
もしもスライムに目があったなら、今頃は目の端に大粒の涙を湛えていたかもしれない。
そんなスライムの様子に少女は妙に居たたまれない気持ちになって、ため息をついた。
「分かったよ。食べるよ」
観念した様に小さく笑って見せて、一拍のち、
覚悟を決めて、スライムグミを口の中へと押し込んだ。
「……ん」
咀嚼する。
不味くは……ない。上手くもない。というより味が無かった。
水をグミ状にした様な、そんな風。
間違って食べ物と一緒にラップを口にしてしまい噛んでしまった時みたいな何となくちょっと残念な気持ちになる。
そんな感想を抱きながら口を動かしていると、突然、足元のスライムがベチャリと音を立てて崩れた。
「むぇ!?」
突然の出来事に、口に物が入ったまま驚きの声を上げる。
――なんで突然崩れたんだ?
え?
ってかこれってもしかして――死んだ?
そう思った次の瞬間、少女の頭の中が激変した。
『レベルが上《水操作を獲[自然治癒力が上昇し『レベルが「毒耐性が(物理耐性の『が上がりました[生命力吸収のス《短剣技能が『レベ《気配探知を獲と『レベルが[分裂体創《格闘技能が《レベルが上[を獲得「精神攻撃耐《剣技能が上昇《レベルが上が[採取スキルを「石化耐性が《レベル《槍技能が[く得しました《レベルが――
「ッッッ!!」
突然頭の中に届いた無数の声であった。
声、声、声の、声の雨。
何十人もの人間がいっぺんに喋った、そんな沢山の声が少女の頭の中に流れ込んで来たのだ。
何を言っているのか殆ど聞き取れず、ひたすら一方通行に紡がれる雑音の波。
あまりの出来事に思わず両手で耳を塞いだが、頭の中に直接届くその声の前に、その行為は何の意味も為さなかった。
一度も途切れる事なく続いたその声――雑音は、少女が慌てふためき、パニックに陥る寸前のところでピタリと収まった。
時間にして20秒程。
「……………………なに?」
先程の騒がしい頭が嘘の様に無くなり、静まりかえる路地裏に、驚愕の表情を浮かべ、両耳に手を当てたままの少女の声が、ポツリとこだました。
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