第21話:ねぇねぇ
―――ねぇねぇ――くん、紙を42回折ったら月に届くんだって。
―――えぇ?嘘だぁ。
―――えぇ〜?嘘じゃないよ。じゃあ一緒に計算してみよ?
―――やだよめんどくさい。
―――そんな事言わないでよ〜
一緒に、が口癖の可愛い子だった。
あぁ、幸せだ。
でもこの幸せは、長くは続かなかった。
だって彼女はもう―――で―――だから。
「――はッ――はッ」
浅い呼吸音が空気に飲まれて簡単に消える。
嘘だ、と叫びたい。しかし喉が張り付いたように乾き、声が出ない。
粘度の高い唾液だけが口内にたまり、全く喉を潤すこと無く胃の中に消える。
血走る瞳、開ききった瞳孔、言葉を紡ぐこと無く開いたままの口元。
彼女が、あれが一歩私の方に近寄ってくる。
『――くん、随分可愛くなったんだね』
クスクスと笑いながら、あれはもうすでに掠れて思い出せなくなった俺の名前を呼んだ。その部分はまるでエラーのように修正されて聞こえなかったが、確実に俺の名前だとわかった。
また一歩、もう一歩、更に一歩俺に近づく。
その度に空気が重くのしかかり、その場に倒れ込んでしまいたい衝動に駆られる。
膝が笑う、肩が震える。先程から口内につばが出ない。喉が渇く。酷く、酷く、酷く。
鉄臭く、しょっぱい味が口の中いっぱいに広がり、液体として満たす。
いつの間にか口内を噛み切っていたのか、口角から血が滴り、喉を伝わり、新調したばかりのワンピースの襟を赤く染める。
液体を飲み干しても、更に流れ込んでくる。しかしそれで喉の乾きが収まるわけではない。
喉に流れ込んだ血が、乾ききった喉を刺激し、胃の中に落ちる。
そのたびに焼けるような刺々しい痛みが俺を襲う。
喉が渇いた。酷く、酷く。
『酷い顔、大丈夫?――くん』
やめろ、その名前で私を呼ぶな。
私は―――俺は―――
『ひッ―――!?」
いつの間にか私の正面まで来ていたあれが私を優しく抱きしめ、耳元でささやく。
体温は感じられない。死人のように冷たく、凍えるような体でわたしを包む。
『ねぇ、もしかして、私のこと、忘れちゃった?』
「―――はッ―――はッ」
返事ができない、そんな私を見て、彼女はもう一度クスクス笑ったと思うと―――
『一緒に、思い出してあげようか?』
「―――ッ!?ァア!?」
彼女を無理やり引き剥がし、後ろにあった噴水に左腕を沈める。
熱い、熱い、あつい。
左腕が焼けるように熱い。2つ、4つ、3つと額から汗が滴り落ちて水面を汚す。
再び腕が見えるようになると、服の袖が長くなっていた。いや―――
始めて見た、見慣れた、俺が通っていた高校の紺色のセーラー服に姿を変えていた。
水面に映る顔は―――
「……俺?」
男子にしては高いアルトの声が耳いっぱいに伝わる。
羨ましがられた大きな目、小さく程々に高い鼻形と形の整った唇に、総じて女子のように見える顔。
見慣れた俺の顔に、口元から血が一滴落ち、鏡面を揺らし、赤く染める。
「……血?」
次に飛沫が落ち着くようになると、その左手には一本の血濡れた包丁があった。
「うわぁっ!?」
慌てて腕を引き抜き、必死に包丁を離そうとするが、呪いのように左手にくっついて離れない。
必死に振り払おうとするたびに、包丁から絶え間なく滴り落ちる赤い液体で、セーラー服が、スカートが、左腕が汚れる。
ジュウゥ……と音を立てて、血に染まった部分が発熱し、俺の体を焼く。
『ねぇ、ここはどこなんだっけ?』
「こ、ここはッ……」
そうだ、思い出した。ここは俺が通っていた高校の屋上で。
『――くんはここで何をしようとしてたのかな?』
「お、れは」
一体何を。
『さぁ、思い出してみて』
俺は―――
「……死のうとして」
『よく思い出せ、たねぇ、じゃあ、やってみようか』
「……いやだ、死にたくない」
『どうして?』
そう言って彼女は再びクスクス笑った後。
『もう私もいないのに?』
……そうだ、彼女がいない世界に、用なんて無い。
途端に、彼女の声が酷く甘美で、優しいものに聞こえる。
『じゃあ、一緒にやってみようか』
「……うん」
彼女にそう返事をした後、俺はそっと包丁を首に当てて―――
「永遠ッ!」
「ッ!?」
もう彼女も、包丁も存在しなかった。紺色のセーラー服も、白いワンピースに姿を戻し、ただ口の中の酷くしょっぱく、酸っぱい味が残った。
祐希が心配する声が耳に伝わる。
「ゆー、き?」
確かめるようにして、声を出す。その声は酷く掠れていた。
本当に祐希だろうか。私は―――?
「あぁ、祐希だ。大丈夫か!?俺の言ってること分かるか?」
「……あァ」
―――うるさい。
今だけは、祐希の声がうるさく感じる。
声が発生されている口元は酷く魅力的で、私はそのまま―――
「大丈夫か!?待ってろ、今救急車が―――」
自身の口で、祐希の口を塞いだ。
「んむぐっ!?」
そのまま私の舌を祐希の口内に侵入させ、その中にある、よく回る舌を封じる。
舌を伝わって、粘度がある液体が私の喉に流れ込み、喉を潤す。
―――甘い。
脳が痺れるような、甘美な甘みが私の頭の中を支配する。
もっと、もっと飲みたい。
私は貪るように祐希の口内を虐め倒し、どんどん溢れ出る唾液を飲み込む。
どのくらい時間が立っただろうか。息が苦しくて、でも口を離したくなくて。
「―――プハッ」
口を離す。二人の唾液が混ざった液体が、お互いの舌先をつなぎ糸を引く。
少しの間、私は祐希の胸元に
私はそのまま眠るように気を失った。
―――あぁ、幸せだ。
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