主人公と私
端川礼
第1話 サッカー選手と化け物
イングリッシュ・プレミアリーグの名門で昨季9ゴール・5アシストを記録した二十一歳がJリーグのチャンピオン・チームに復帰したことは、議論を呼んだ。プレミアは今や世界最高のリーグ(少なくともそのうちの一つ)で、チームも低迷期を抜け、来季は久々にUEFAチャンピオンズ・リーグに舞い戻る。チーム内での位置づけも―――器用であるがため忙しなく多様な役割を課されてはいたが―――贔屓目抜きにしても欠かせないピースとなっていたし、少し贔屓すれば、さらに年齢も考慮すれば、エース―――少なくともエース候補―――と言えるものだった。本人は多くを語らず、我々にわかるのはヨーロッパへの再移籍もあり得るということくらいである。
長いシーズンを終えたばかりの彼を、J1を2度制している名将はしばらく実戦に投入しなかった。事情はわかっていても、ファンは待ち焦がれ、遂にこの日が来た。スターティングメンバーに彼の名前がある。約1年9ヶ月振りのことである。議論を、さらに言えば疑問を呼んだ移籍とはいえ、満員のスタジアムはやはり大歓声で迎えた。
センターサークルに立つ背中は、凄まじいフィジカルを前提とするイングランドで鍛えられ逞しくなっているのが、バックスタンド斜め最上部の席からもわかった。
相手はJ1に在籍を続けることが当面の目標であろう現在15位のクラブ。試合開始からボール保持を諦め、堅い守りからカウンターの一発を狙う姿勢が鮮明だ。昨季はホーム&アウェイ2戦ともチャンピオン・チームがものにしたが、いずれも後半30分過ぎの1ゴールのみに留まった。
楔のパスが「彼」に入る。いや、入っていない。入ったがすぐにオレンジのユニフォームに囲まれかけ、ワンタッチで下げざるを得なかった。
パスのボールスピードが遅すぎた。約2年が経ち、忘れてしまったのだろうか。
彼へのパスは特別なものでなければならない。
彼は日本で生まれた。しかしサッカー選手としては日本とブラジルで生まれたと言える。年の離れた兄が日韓ワールドカップを見てサッカーをはじめ、追って彼もはじめ、すぐに追い抜いた。
「大げさに聞こえるかもしれませんが、人生の謎です。いつ、どうやって、あんなに上手くなったんだろう」
彼が8歳のとき、一家でブラジルに移住した。すでにJFA開催の全国ジュニア『未来のSAMURAI BLUE』合宿に参加していた彼は、両親と兄の助けを借りながら、ブラジル修行の大先輩である三浦知良に手紙を書き、サイン入りのスパイクをもらった。
センターバックから縦パスが入る。鋭い。一般的な水準で言えば。彼はワンタッチで半身になり、ウイングの動き出しにあわせ、いわゆるポケットにスルーパスを出した。
歓声が高まり、収まる。センターバックがウイングを背負い、ゴールキックに落ち着けた。
チャンス、もしくはチャンスのチャンスをつくった。しかし彼の本領はこうしたプレーではない。こうしたことも出来るのが強みであるのも間違いないが。
シルクタッチ。東アジア出身も手伝ってのことではあるだろうが、いつの間にかヨーロッパで呼ばれ出し、日本のファンにも浸透した。シュートやクリアボールのような速すぎるパスをぴたりと止め、あるいはふわりと浮かせ背後へ、と見せかけて持ち出し―――既に芝生を転がっているボールをだ―――強力で正確で多彩なシュートを放つ。
チャンピオン・チームのプレッシングを嫌い蹴り込まれたロングボールに対し、ベテランセンターバックが競り勝った。アンカーが回収しインサイドハーフに付け、彼にパスが送られる。奪いに来る相手を
結局最終ラインまでボールが下がり、遅攻がはじまる。インサイドハーフが彼に手を上げてコミュニケーションをとる。遅かったよね、といったところか。彼はもうお馴染みのビッグ・スマイルを返した。
ブラジルで鍛えたのはボールを扱う技術だけではない。第二の故郷ブラジルへの愛と敬意を普段から思い切り表現する彼だが、外国人として、向き合わなければならないものは少なくなかった。それらを乗り越えるうちに培ったのが、饒舌な表情、特にチームメイトやファンをほっとさせる、弾けるような笑顔だ。世界中のファンがSNSや動画サイトのコメント欄で称賛しているのを頻繁に見かける。また、口にする言葉も磨かれた。ブラジルで話されるポルトガル語はもちろんのこと、英語やスペイン語をも流暢に話すということにとどまらず、定型的な表現を利用する傾向の高いスポーツ選手の中で、彼は自分の言葉を話す。戦術や試合の詳細に言及する際にはベテラン監督のような知性を、そして時折飛び出す率直な表現は、彼と友人であるかのような親しみを聞き手に覚えさせる。
前半が終了した。昨シーズンと同様、チャンピオン・チームは7割ほどボールを握りつつも、前半にゴールを奪えなかった。ただし、彼のプレーの感覚をチームメイトが思い出してきている。考えてみれば約2年前にはこのチームにいなかった選手も随分増えた。彼らも実戦で彼のプレーを見、表情と言葉のメッセージを受けとめた。
ハーフタイムの選手交代は両チームともに無し。やはりチャンピオン・チームがボールを握る。ハーフタイムに指示があったのだろう、攻撃のヴァリエーションが増えた。インサイドハーフが最終ラインに降りてサイドバックを押し上げる。反対側のインサイドハーフはアンカーとともに流動性を高め、バランスを取りながらコンビネーションの顔ぶれと距離感に変化をつけていく。
インサイドハーフがポケットを取りに行くタイミングに合わせ、ウイングがカットイン。ペナルティボックスのアングルを切って左足を振った。イメージ通りの巻いていくショット。しかしキーパーの左手に叩き出され、歓声もため息に落ち込んだ。年代別の代表経験もある198センチの長身がチャンピオン・チームに立ちはだかった。
前半シュート1本のみに留まった相手チームは引き分けで御の字である。完全な5バックで後ろを固められ、チャンピオン・チームといえどなかなか崩しきれない。
ホームスタジアムに充満する焦れったさが、風に吹かれたかのように引いた。視線がスクリーンに導かれる。この感覚がわからない方は一度スタジアムに来てみてほしい。他の観客の心に起きたゆらぎが自分をゆるがし、誰かの視線が他の誰かの視線を束ね、今注目すべきところへ導くのである。
早すぎる帰還を果たした彼が、パンツの紐を結び直しながら作戦ボードに目を落とし、コーチの指示を聴いている。スタジアムの良さを語った直後で申し訳無いが、映像中継の実況と解説の言葉が聴こえてくるようだった。ああ、遂にこの人を使います!
議論を呼んだ早すぎる帰国も、この日に居合わせることができた観客には無関係だった。
センターフォワードどうしの交代。ピッチに駆け込む彼は声とハンドサインでベンチからの指示を伝え、最前線に立った。相変わらず、明るく柔らかい表情が饒舌である。
後半から増えているサイド攻撃をつくるかたちから、ペナルティアーク付近の彼に斜めのパスが出る。ダイレクトでフリック。最終ラインを縫って飛び出すウイングへのメッセージ・パスだ! キーパーが先に触れた。ベスト・タイミングの飛び出しで、これはキーパーを褒めるしかない。
しかし得点の“匂い”が一気に強まった。両サイドの豊かな崩しに人数をかけて対応すれば、彼にパス―――例のまるでシュートのようなパス―――が入ってしまう。無論、防戦一方に覚悟を決めた相手もわかっている。ただ、わかっていても止められるとは限らない。
ウイングが下げたボールに合わせ、インサイドハーフがポケットを取りにいく。取れる。しかしパスはノールックで中央へ。彼、の前に絞った逆のインサイドハーフがダイレクトで射つ! ように見えた。誰にとっても。だから、最もシュートを打たせてはならない選手をマークしていた、していなければならなかったセンターバックまでも食いついてしまった。彼にボールが届く。右足。アウトサイド。軌道がゴールへと反っていく。
ゴールポストの高い音が響き、大歓声がうなだれた。
彼のパスはシュートフェイクを兼ねていた。僅かな隙間でも与えれば、必ずゴールを決めてしまう。日本代表もしばらく決定力不足という決まり文句を聞かなくなった。だから3人も食いついた。その影に忍びこんだ逆側のインサイドハーフは―――距離はあったものの―――決めるだけだった。
すぐさまプレス用のポジショニングを取りながら、彼は手を叩き、微笑みを目元口元に含ませて声を上げる。
「もう一回、もう一回!」
アディショナルタイムに入る。徹底した守りの姿勢を貫いてJ1に定着しつつあるチームに、チャンピオン・チームはロングボールも選択肢に加えた。ターゲットになれる長身のセンターフォワードが体を張る。こぼれ球を拾い、サイドをまたも抉る。しかしキーパーがパンチングでクロスを弾き出す。再三のため息が観客の喉元に留まった。ボールが、会場のほとんどを埋めたチャンピオン・チームのファンの全員が望み、アウェイ・チームのファンがスタッフが選手たちがその反対のことを願った、彼のもとへ! 競り合いに加わらず引いていたのだ。嗅覚、という言葉が脳裏をよぎる。ただ、ボールが高すぎる。
一般的な水準で言えば。
シルクタッチ。東アジア出身も手伝ってのことではあるだろうが、いつの間にかヨーロッパで呼ばれ出し、日本のファンにも浸透した。あらゆるボールの速度・軌道・回転を見極め、望み通りのシュートに変換する。体勢は問わない。なんとしても足を―――状況次第では頭や胸や膝や時には腰を―――ボールの描く軌道の先に“投げ入れる”。
インサイドハーフのジャンピングボレーは空振り。長い笛が試合終了を告げた。
監督は今日も彼を使わなかった。昨季プレミアで決めた、空中で体を畳む横回転のオーバーヘッドはネットミームにまでなった。
「今のは難しいよ」
え?
手で耳を触ってしまった。
隣に男が座っている。いつから? 最初から両隣どっちも空席だった。終盤になって移動してきた? そんなやついるか?
「初日からいけますってずっと言ってきたんだけど、監督がどうしても駄目だって言うから。もちろん理由はわかるけど、正直ちょっともどかしいよ」
誰だ? 俺に話しかけてる? 何を言ってる?
「でも練習はもうフルでやってるから。次あたり出るよ」
そっちを向くと、まっすぐ俺を見て俺に話しかけている。知り合いじゃない。なんだ? 気持ち悪い。
「じゃ」
男は目元口元に微笑みを含ませ、席から立ち上がり、すぐそばの階段を上がっていく。気持ち悪い。でもこれは頭のおかしいやつに話しかけられたときの怖さ半分の気持ち悪さと違う。
デ・ジャヴに近い。比喩的なデ・ジャヴじゃなく、本物の脳のやつ。
奴は階段を上がっていく。
「ちょっと」
声をかけた。帰っていく観客の間で奴は振り向き、目を少し見開いて眉を少し上げ、表情だけで「何かあった? なんでも言ってよ」と言っている。本当に表情だけでそう言っている。
俺は小振りの手招きをした。ニュートラルな、しかし明るさのこもった表情になり、奴は降りてくる。さっきまで座っていた(んだよな?)席の背もたれに手をかけ、立ったままでいる。でも表情は柔らかで、引き止めてしまっているという感じが俺の中にあまり無い。
「え~~~~~っと~~~」
何を言うつもりなんだ俺は。視線がぐいんと奴の頭上を横切る。奴の表情がまた俺に発言を促すものになるが、やっぱり柔らかさを保っていて、「ごめん、やっぱなんでもない」だとか「やば、何言うか忘れた」だとか俺はなんの引っかかりもなく言うことができる状態だった。でも言わなかった。
「ごめん、とりあえず、あの~~~~どこに行くつもりだった?」
「え?」
ひねり出した言葉に小さな驚きが返ってきた。でもその驚きの中に不愉快な感じはまったく無い。軽く周りに視線を飛ばし、
「チームのところだよ」
と答えてきた。カラッと晴れた表情で。
一応、今シーズンの全選手を知っている。しかも当然どの選手とも知り合いではない。
「ごめん、なんていうか、その~~~~~~~~~~~~」
バグったみたいに俺の言葉が伸びる。奴は困り眉でちっちゃな笑い声をもらす。俺は手を銃にして奴に向ける。次の語をぶっ放すために必要で。
「どちらさま?」
はじめて微笑みが凌駕された。戸惑いが勝っている。俺はずっとそうだ。
「え? どういうこと?」
実のところ、この人の単なる人違いか何かなんだろう。そう思いながら次の言葉を―――
「私は、兄上の弟です!」
ビィンと背筋を張りビシッと手を体側につけ、にひひっと笑った。その所作も言葉選びも発言への注釈だったが、その内容が嘘であるという注釈であるとは感じようがなかった。親しみとおどけだけで満たされていた。
俺に実在する弟はいない。
サッカーをはじめてから、いや正確にいつからかはわからないのだが、自分の空想の中に架空の理想のサッカー選手が存在するようになった。最初はいわゆる「将来の夢」の中の自分の姿だったのかもしれない。いや、はじめから自分以外の誰かだったかもしれない。
サッカーをやっていた以上、小さい頃の将来の夢はサッカー選手だった。と思う。しかしどれほど、そしていつまで、本気でサッカー選手になることを目指していただろう。実際のところ一度も無いんじゃないだろうか。小3ではじめて高校卒業まで、一貫して俺は強くないチームの上手くない奴だった。
「彼」はプレーしていないときに現れた。いやこんな言い方をしちゃいけない。現れた、なんて言い方は駄目だ。自分の頭が彼を登場させ、時には自分の口や手足で、彼を動かしたというのが正しい。試合の前、後、プロや代表の試合を見ているとき、さらに実はサッカーと何の関係も無いときにも俺は頻繁に彼を登場させた。「彼」のプロフィールは頻繁に変わり、「彼」のプレースタイルも実は頻繁に変わった。名前、体格、経歴、年齢、プレーの特徴、性格、俺との関係。ただ、高校を卒業して(もちろん俺がだ)以降、考えてみれば俺との関係はある程度安定していた(俺が安定させていた、というべき)。「彼」は俺の弟ということになり、そして年の離れた弟ということになっていた。
一体何の話をしてるのか。
イマジナリーフレンドという言葉を聞いたことがある。その一種なのか? でも確か小さい子供の話だろう、それは。なんでこんなことが俺の頭の中では続いているのか(続けているのか)。
そして、それ以上にとんでもないことが起こった、のか? 体が浮くような気持ち悪さがある。俺の弟だと奴は言った。
念の為確認しておく。俺の空想は幻覚とは違う。それが現実でないことは百も承知で、にもかかわらずなぜか考え続けてしまうものだ。なぜか、じゃないな。楽しいし気持ちいいから続けてるんだと思う。あと、我ながら異常すぎて笑えてくるが、たまに空想の真っ最中に「まあ、空想なんですけどね」的な考えを挿し込むことすらある。とにかく幻聴とかではない。
俺はこの空想のことを誰かに話したりしたことはない。
いや、でも、小さい頃に親や友達に知られた可能性が無いとは言えない。ごく小さい頃には「彼」に名前(その頃の自分にとってカッコよかったやつ)を付け、さらに自分の体に“宿し”て楽しんだこともあった気がする。「神川勇気シュートおおおおおおおおおお決まったあああああああああああああああああ」って感じで。それを覚えていたやつが今になって俺をからかっている? ただその頃は弟じゃなかったはずだ。
それに、今俺に友達はいない。親がやるのは想像できない。
当然のごとくチームに合流しようとする彼に対し、俺は曖昧に返事をするしかなかった。スタジアムを出て、帰ってしまおうかと思ったが、このままじゃどうにも変で、駐輪スペースまでの通り道にあるベンチに座りスポドリを飲み、念の為相手チームの今シーズンの所属選手もスマホで確認した。
彼が歩いてきた。サッカー選手についていえば、体型によって推量できるのは選手ではなさそうかどうかだけで、選手でありそうかどうかは正直なところわからない。表情は戸惑いに満ちているが、不満さは感じられず、困ったなあと言っている。
俺を見つけると困ったまま顔が明るくなった。器用だ。
「おかしいんだよ~。普通に戻ろうとしたら警備員さんに止められちゃって。荷物も全部中だし、みんなもう出ちゃってるみたいだし」
そう言ってこいつ、肩をすくめた。驚く。やっぱり誰かが俺をからかってるのか?
「スマホも財布も中なんだよね。悪いけどスマホ貸してくれない?」
電話したいということだろう。電話番号の入力画面にして渡してみる。色々と話させればこれが何なのかわかるかもしれない。
一瞬、スマホ泥棒の可能性も思った。離れていこうとするなら、と身構えたが彼はその場ですぐ電話をかけた。コール音がしばらく鳴り、相手が出たようだ。
「あっどうもすみません。あの~~~~~~~~~」
なんだ? さっきの俺みたいに「の」がびよ~んと伸び、少し暗くなり、視線も迷いはじめた。スマホを耳からいったん離し、ちょっと固まってからまた戻した。
「あっすみません。あの、大変申し訳無いんですが、あの、どちら様ですか?」
は?
相手も俺と同じような反応をしたんだろう、ペコペコしながらすいません・ごめんなさいを繰り返し電話を切った。
なんなんだ?
顔を上げて俺をまっすぐ見てきた。とても困惑しているのがわかる。少なくともそういう顔をしている。俺を見る瞬間に眼差しが揺れたのもわかった。スマホを返そうとしてやっぱりやめる。
「チームの、スタッフさんに、かけようと思った、っていうかかけた、ん、だけど」
俺は相槌だけ返す。できるだけこいつに喋らせたい。
「なんか違うみたいで、っていうか~~~~~~~~~~」
まただ。そして顔が歪み、はじめて鋭い負の感情が表情にこもり、俺の心の表面にも同じ感情が立つ。これは不安という感情だ。
「番号、違うのかな」
俺が知るはずない。迷わずかけてただろ。俺は相槌すらしない。
「いや、そういう問題じゃないっていうか」
スマホを上下させる。今度は返そうとかいうわけじゃなく、そうせずにはいられないという感じだ。
表情の不安が増し、途端ぱっと笑顔がそれを散らした。
「ははっ。なんか、いやあ、なんか、おかしいわ」
明るさが負けている声色・話し方だ。
「なんかほんとにおかしい。なんていうか、脳の、なんか、あれ、とかなのかも」
「脳?」
わっと不安がまた顔に集まり、それ以上の何かになった。
「自分の名前がわからない」
それは苦痛と恐怖の感情だった。
とりあえず座らせ、「記憶喪失 救急車」で検索した。案の定、と言っていいのかわからないが、「脳梗塞の可能性も」などと出てくる。
「ほんとなら救急車とか呼んだほうがいいと思うよ」
彼はうなだれる。こいつが実のところ誰でどんな意図があるのであろうと、俺の助言は妥当だ。でも俺の内に、ドッキリで本物の救急車に乗る奴なんて普通いないという思考があるのも確かではあった。
「明日行けばいいやとか言って―――脅すわけじゃないけどさ―――大変なことになったっておかしくない状態だと思うよ」
うなだれた頭を腕で抑えつけるようにしてから彼は目を開いた。絞るように瞑っていたのだ。
「気持ち悪い」
呼ぶよ、と言おうとしてやめる。俺発信で呼ぶ流れにしちゃ駄目だ。
しかし改めて俺はほんとに何をしてるんだ。こいつは誰だ? 弟ですと言った。それが何だ? とんでもないことをする奴も世の中にはいる。いつまでこいつに付き合うのか。
「ごめん、呼んでほしい」
誰であれ人が救急車を呼んでほしいと言っていたら当然呼ぶ。電話の受け手からの質問に答える彼に注意を払いつつ、救急車が来るんだとしたら俺も乗り込むのかどうか考えた。彼が電話を切り、重そうに返してくる。
「家はわかるの?」
「ああ、それはなんとか。チームの寮だから」
彼はふぅと大きく息を吐き出して、少し頬もゆるんだ。でもここのチームは寮なんて持ってない。スポドリをなんとなく俺が手に取ると、ちょっと飲んでいいかというので渡すと、口を付けずに飲んだ。
サイレンが聴こえてきて、本当に救急車が来た。
手を上げた俺の方に、大仰な専門衣の救急隊員さんが小走りで駆け寄ってくる。うつむきがちに座っている彼に視線を向けるとそれだけで伝わったらしく、彼に二三質問をし、連れ立って救急車のほうに歩き出した。
「お知り合いですか」
救急隊員さんが振り返って俺に問いかける。
「ええ、はい」
「ではお付き添いをお願いできますか」
「ええ、はい」
ふにゃけた返事だが即答してしまった。たぶん迷惑をかけたくないという思いからだった。しかし乗り込みながら、ずるをしたのに褒められてしまったような感覚がした。彼は記憶が無いといっていて、俺はその知り合いだと言ってしまった。
なにか訊かれたらどう答える? そもそもどんな関係にする? もしそういう質問をされてしどろもどろになったらまずい。記憶が無い彼を騙そうとしているとか、もしくは彼ともども悪趣味ないたずらをやっているとか疑われるかもしれない。
救急隊員さんは彼にまず身体的な事柄を訊いた。やはり気分が悪い以上の異常は身体的には無いらしい。次に名前・年齢・生年月日を問う。二十一ですと奴は答えた。でも生年月日はわからないと言った。
病院についた。俺は結局何も訊かれずに済んだが、待合室に案内された。これから色々と訊かれるかもしれない。いっそのこと本当のことを言ってしまおうか。急にスタジアムで話しかけられて、知らない人なんです。記憶喪失が本当なら本気の人違いもありえない話ではないだろうし。
たぶん今MRIか何かを受けているんだろう。不安な表情を思い出す。誰であれ、もし本当に記憶に異常があるならかわいそうで、よくなってほしい。
長々と待たされる間、俺の頭こそがおかしくなったのではという考えも浮かび上がってきたが、あまりにも日常的な感覚が普通なので、つまり、よく飲むペットボトルのお茶の味とか、ゴミ箱に一発で入らず口のところに引っかかったのを、ぐっと体を伸ばして押し込む感じとかがごくごく普通なので、もしかして夢を見てるのではとかいった考えも頭の中に浮かべてはみるだけで、まともに取りあえるものではなかった。胡蝶の夢なんていうのもあるが、自分のこの人生は誰か(何か?)の見てる夢かもなんて、もちろん思考実験みたいな議論としてはちゃんとあるんだろうけど、実感としては個人的にはまったくだ。日常的な感覚とか動作とか、そういうものが変じゃなければ、現実以外の何かの中にいるなんてとても思えない。
やっぱりドッキリか、いたずらか、もっと怖い詐欺か何かなのか? でもまあいいか。いやよくないだろ。
気づいたら外はもう真っ暗だ。
また空想のことを考えてしまう。その中で俺は「彼」に具体的な容姿を与えていない。そういうものなのだ。名前もだ。名字は自分のと(ここのところしばらく)同じだけど。基本的に「彼」はプレーし、実況・解説に実況・解説をされ、インタビューに答え、ファンの子どもにサインをあげて大喜びされ、試合中にゴミを拾って褒め称えられ、うるさがたのサッカーマニア達の好意的な論評を受ける。そして怪我をした相手選手に肩を貸し、仲間が受けた侮辱に真っ直ぐな言葉で問い返す。ドラマチックな出会いや、辛い過去を乗り越えてきたからこその強さ。
馬鹿が。
小股でスタスタ速歩きしてきた看護師さんだかが話しかけてきた。
「あ、あの、記憶の件で救急車の付き添いをされたお兄さまで大丈夫ですか?」
大丈夫です。
「ええと、いまのところ器質的な異常は見つかりませんでした。一応明日もう一度脳神経外科の先生にかかっていただきます。ご本人にもお話してあります」
「ああ、そうですか」
あいつが歩いてきた。とりあえず落ち着いてはいるようだ。
救急車でもお金は払わなければならない。彼は何も持ってないので俺が払った。
「ごめん。悪いんだけど今日……」
「いいよ別に」
ほんとにいいのか? 起きたら財布がなくなってたりするんだろうか。財布に入ってる分の現金くらいで勘弁してほしい。
「大分狭いけどね」
「うん。あんまり人呼ぶタイプじゃないもんね」
自分のことを言い当てられた。でも雰囲気で大体分かることかもしれない。実際、自分以外誰も上がったことがない。あ、引越し業者の人たちと水道修理の人たちが上がったか。
自転車はスタジアムに置いてきてしまったが、十分歩いて帰れる距離だ。しばらく無言だったが、気まずさは感じなかった。が、それも俺が人付き合いをしなさすぎて、沈黙が気まずいという感覚すらほぼいつの間にか消えてしまったということなのかもしれない。それかこの謎の男の演技力か。といっても俺には足音しか聴こえておらず、それだけでこっちの印象を操作できるものなのかわからない。
まだ蒸し暑くない夏の夜は外にいる感じがしない。とりあえず大通りに出て家の方向へ歩いていると、辺りが見慣れたものになってきて、今朝も自転車で通った道に折れた。
鋭く息を吸ってしまった。変な看板か何かがある。夜なのに秒で黒とわかる真っ暗な背景に真っ赤な目が一つだけ描いてある。今朝は無かったと思う。
もちろん立ち止まったりはしないのでそれはすぐに視界から消え、見慣れた景色だけになる。道も間違えてない。今日描かれた、もしくは今日設置されたものなんだろう。ぎょっとする鮮烈さも合点がいく。しかし何なんだ。いや、ああいうのが好きな人がいっぱいいるのも知ってるけど。
俺のじゃない足音が跳ねた。蹴っつまづいた? あの看板(か何か)に気づいてビビったんなら笑えるな。
奴が躍り出てきて俺の腕を引っ張る。ビクッとする。背中も掻き抱くように引かれる。な、なに? という声が出ない。横だか後ろだかに跳ねながら奴は後ろに視線を向けたままだ。俺も振り返る。
あの真っ赤な目に視野が吸い付く。でも場所がおかしい。高さが違う向きも違う。その周りに黒が増える。
通ってきた道に黒い遮蔽物が降りる。歯がガチンと鳴る。足がバタつき耳鳴りが痛い。地面が揺れたんだ。
「走るよ!」
上体がグイと前に押し出され、走り出してしまう。腹の肉がバタバタ跳ねて苦しい。ひょこひょこ跳ねるようにしか走れない。
また地面が揺れて歯がうるさくぶつかりあう。走りながら振り向いて眼を見張る彼は俺に合わせてくれている。さして広くない道で、段差やガードレールを素早くやり過ごしながら、何度も首を振って後ろの何かを見ている。
「すり抜けてる!」
俺もなんとか振り向いた。脇腹が痛い。喉も奥の奥まで痛い。
赤い目がやっぱり本当についてきてる。しかも迫ってきてる。ただ、すり抜けてる。確かに俺にもそう見えた。赤い目の周りの黒色が、それよりは暗くない家の壁や窓を遮蔽するが、あくまでも遮蔽するという感じで押し崩したりしてない。家が崩れるような衝撃や音も感じてない。
ただ、あの地面を揺らすやつは? もしかして足だとか手なのか? だからなんだよ。地面もすり抜けろよ。また歯がガチンと言う。
もう肩まで痛い。何なんだよこれ。
俺のスピードが落ち、彼の走り方がちょこまかしてくる。俺と後ろを視野に入れながら、ほとんど横走りだ。笑いが喉から出てこようとして、痛すぎて咳き込み、立ち止まってしまう。顔を上げると、彼の顔が歪んでいる。苦痛の表情だ。どこも痛くはなさそうだけど。
すり抜けよう、という言葉が喉も胸も痛すぎて出ない。一歩寄って来た彼がわたわたする。腰を落としかけたり腕を出しかけたり。抱き上げようとしているのか。無理だよ。
「すりぬける」
なんとか吐き出した言葉を聞いて彼はフリーズする。地面が激しく揺れるタイミングはなんとなくわかってきていて、しかもその間隔はまあまあある。振り返って目を見上げる。止まった俺たちを見ているが、特に動きが変わった感じはしない。足(と呼ぶことにする)が地面にまた落ちた。タイミングが変わった感じもしない。
ていうか、なんなんだこれ? すべてが信じられない。でも揺れも耳鳴りも汗も全身の痛みも確かなものだ。
少し化け物(と呼ぶことにする)の方に寄り、ちょっとでも息を整えてタイミングを測る。昔やったマリオのゲームを思い出す。
「危ないって!」
振り返らないまま手を上げて指で指示する。お前は普通に行け。
「駄目だよ!」
化け物の黒の部分が少しよく見えてくる。なんというか、リアルじゃない。勝手にゴリラみたいな毛むくじゃらを想像していた。黒い線が猛スピードで表面を塗りつぶしているような感じに見える。昔のテレビのモノクロのモザイクの砂嵐みたいなスピード感。まったくリアルじゃなくて、だからすり抜けられるかもしれないと思えた。
口を小さく開け姿勢に余裕をもたせる。数メートル先に足が着弾する。足は他の部分と比べよく「澄んで」いる。足でない部分についてはすり抜けられるという考えへの信用を俺は脳内で上げる。
「兄ちゃん!」
彼の叫びがなんか痛い。現実でそう呼ばれるのは初めてだ。
奴の足が上がる。
ノイジーな胴体(と呼ぶことにする)が見えたタイミングで駆け出し、急停止。フェイントをかけた。足の上がり方に変化は無い。スプリントで足の下をくぐり抜け、胴体に突っ込む。でもさすがに視野いっぱいの黒線に微かなめまいがし、勢いを落としてしまったとき、言葉未満の声が後ろからして、顔だけ振り向けると苦い顔をして彼が追ってきていて、俺を掴もうとしている。
なんでと言いかけて飲み込んだ。もう二人ですり抜けたほうがいい。
視界が一瞬で中央に向けて真っ暗に消えた。冷たい汗が全身に吹き出た。しかし足裏から伝わる地面と自重の感覚が確かであることに気づき、状況をおそらく理解した。
すり抜けられている!
右足を引いて化け物のケツの方へおずおずと足を踏み出す。視界にあのスピーディな黒線を見出だせるようになった。くすぐったい感じがしたし、耳がずっとサーッというノイズに塞がれている感じもしたが、自分の脳が勝手に生み出したものかもしれないと思える程度のものだった。
彼もついてきているのだろうか。化け物の足をかわして別の道を見つけたかもしれない。俺より相当機敏だったから、いずれにせよなんとかなっていると信じる。
あれ? 俺は俺の足を止める。
あれが本当に「足」なのなら、一本だけか? もしこの胴体をすり抜けた先にもう一本だか二本だかもしあるなら、避けなくちゃならない。
入り込んだときの感じを思えば、出るときも一瞬だろう。即応できるよう、重心をやや前にかけ、膝を伸ばしきらない小さめの歩幅で進む。再び息を整えていく。やっぱりホワイト・ノイズが聞こえているような気がする。
道・塀・家! 軽く跳び上がりながら上を見上げ、左右に首を振る。視界の片隅の化け物の背中(と呼ぶことにする)を除き、自然な暗い夜空と家だけだ。上に気を配りながら走り、化け物から離れることができた。
相変わらず化け物の体は黒線の砂嵐だ。ただ、何か少し正面と異なる気がする。砂嵐がなにか、ボコボコ沸き立つような感じがあった。
彼はどう逃げたろう。大声で呼んでみれば届くかもしれないが、家を飲み込む大きさの黒い砂嵐がこうそびえ立っているのを見ると、届かないような気もした。
一定のペースで進み続ける化け物に、とりあえず―――もちろん十分な距離をとったまま―――ついていくと、化け物の体から出てくる地面が妙に暗いのに気がついて足が止まった。一歩足を踏み出すと、そこが街灯を反射した。
濡れてる。
黒線の沸き立ちが増して見える。
靴だと思った。一足だけ、ぱったり倒れた状態で出てきたから。でも、何かをひしゃげるような音がはじまって、それが続いて、もう一足も出てきた。
やだ。なんで。俺はなんともないのに。
いやだ、いやだよぉ。いやだよぉ。いやだいやだいやだいやだいやだ。
きゅうきゅうしゃ。けいさつ。スマホは。たすけて。意味ない。
右足から潰されたんだ。左足は膝が曲がっていて、地面を蹴ろうとしたのかもしれない。
顔。顔が、割れて裂けて。
全身に鳥肌が立ち、口が異常に乾いてベロが焼きつけられたみたいにひっついて痛い。足が緩んで、尿道も肛門も鋭く緩んでる。
彼の顔がモノになってしまった。
なんで。ホイッスルみたいな声が自分から出た。
なんでこんなものを見なくいちゃいけない?
答えは意外にすぐに浮かんできた。
罰が当たったんだ。ガキ臭いこっ恥ずかしいクソみたいな妄想を三十にもなってまだ続けて。現実に寄生して生きる寄生虫が。喉が震えて視界が滲む。寄生虫っていうのはもちろん俺のことだ。
地面が揺れて、彼がさっきまで宿っていたモノが少しだけ揺さぶられる。
罰。じゃあアレは裁判官だか処刑人か? 見た目だけで言やあ、あのカスこそ寄生虫だろ! 怒りが焼けてきた。奇声で喉が痛い! 地団駄で足が痛い! 自分が暴力を振るえる状態に入ったと分かった。
相変わらず進み続けるカスの前に、細い横道を通って回りこむことにした。
クソ腹が立つ。俺は罰を受ける。でもアレだっておかしいだろ。ってかアレこそおかしいだろ。あいつはまがりなりにも人間だった。MRIだって受けたんだぞ。
コンクリートの欠片を拾う。あの赤い目ん玉にぶっ刺してやる。乾いて穴が開いたような笑いが出てしまう。ゼルダの伝説みたいで。
ほんと何なんだろ、これ。新しいタイプの夢なのかな。相変わらず、接地する度に響いてくる足の痛みも、手に持ったコンクリ片のザラザラ感も確かすぎるんだけど。
糞虫の前に充分な距離をとって出る。三角のコンクリ片を握り直し、ちゃんと回転をつけて目ん玉にぶっ刺すイメージを描く。半身になり、右腕をテイクバックする。
ボールがあったらな。俺は一応サッカーやってたんだ。投げるよりも蹴るほうが動作の感覚が格段にいいだろう。うまくぶち当てられる画も、よりはっきり浮かぶ。「閑静な住宅街」だし、石塀やフェンスの向こうにならあってもおかしくない。
あった。はは。ガレージと玄関を道路から隔てるキャスター付きの金属柵の向こうに、しかも柵に内側から接した状態でそこにあった。白黒の古典的なサッカーボール。
変な感慨が湧き上がってくる。念のためコンクリ片をアレが来るのとは反対方向の路端に転がしておき、柵の間に手を突っ込んで手と柵でしっかり抱え込みながらボールを取り出した。
道路の中央やや右にセットする。アレが地面を揺らすたびに転がってしまうが、それでも投げるより当てられそうだ。俺はやっぱり一応、サッカーをやってたんだ。
また地面が揺れボールが動くが、すぐに止まってくれた。そっと踏み出し、体重をボールに向かわせる。左足をアスファルトに突き刺し―――それは地面を揺らすためでも、誰かを踏み潰すためでもない―――右足を振り抜くと、ボールはほぼ一直線にあの毒々しい目に向かい、遂にこの糞虫こそがギャーンと身を震わせる。というイメージを俺は脳内に太線で描く。
と、視界が落ちた。電源が抜けたみたいに。飛び跳ねた俺の回復した視界に映ったのは、イメージだった。
踏み込んだ左足が体重を引き受け、自由を得た右足が地上を低空で飛行する。
俺たちの視線を引きながら、ボールが真っ赤な一つ目を思い切り叩いた。
赤い目が激しく乱れ、黒い巨体もうごめいた。
ボールを蹴った男が振り返る。見張られた目で俺に真剣な困惑を伝えている。俺は、口だけでだが、笑うしかない。俺の理想のサッカー選手が口を開く。
「何が起きてるの? あいつに轢かれて―――」
赤い目が闇に消えた。俺の視線を追って彼もヤツの方を向く。
足が振り上げられたのだ。
途端、足裏から地面が消え、爆音が全身を叩いた。俺はアスファルトにケツから落ちて痛い。すぐに彼が正面から俺の両手首をとり、立ち上がらせてくれた。確かな感触と温度があった。
再び現れた一つ目は明らかにこっちを見据えていた。
俺たちは同時に駆け出した。すぐに地面が変に震えだし足がキツく、気持ち悪くなった。地面にノコギリがかけられているみたいだ。彼をグチャグチャにした砂嵐の泡立ちを思い出す。でも、こいつはここにいる。やはり頻繁に首を振りながら、手の届く位置を走ってくれている。
ボールは効いた。だから俺も首を振って視線をそこかしこに飛ばした。でもボールを探したんじゃない。このおかしな夢みたいなもののルールみたいなものが少しわかった気がして、ボールの出どころを探したのだ。
腰くらいの高さの小さな門が開き、サッカーボールが転がり出てくる。ボールに気づいた彼はすぐ俺に向き直った。俺は真っ直ぐ見つめ返した。
彼は小さく跳ねて右足でボールを越え、追ってやってくる左足でボールの背中をとんと押した。彼の意図を宿したボールは、振動する地面に乱される間もなく、跳ね上がる右の足裏で重力を振り切った。
直撃の瞬間に思わず目をつぶってしまった。瞼は無いらしいヤツの一つ目はまた苦しそうに前後左右に暴れた。すぐに不快な振動が体の内外から再開する。
彼が―――とんでもなく流麗にプレーしてみせた直後なのに―――また困惑を目に浮かべ、何か言いたそうにしている。
「続けよう!」
俺はそう言って走り出しながら辺りに視線を高速で飛ばした。疑問は尽きないだろうが(俺だってそうだ)、ヤツが追ってこなくなるまでそうするしかない。
壁際が物置化したガレージからボールが転がり出てくる。
こんな時間でも電気がついているマンションの高階から誰かがボールを投げ落としてくれる。
遅くまで練習していた小学生が近隣住民にキレられて持って返りそびれたボールのパスが出る。
そのボールだけは彼は蹴り戻した。すべり台の足元にきゅっと収まる。ヤツはまだ追ってくる。なんで攻撃しないと問う暇は与えられなかった。
「これが何なのか、分かる範囲でいいから教えてほしい」
彼の真剣な眼差しから困惑が見てとれなくなっている。
「よく、わかんないけどさ―――」
息切れの合間に率直な本音を吐き出す。そう、よくわかんないんだけどさ。
「たぶん、夢の世界なんだよ」
彼の真剣が深刻に変わった。
「しかも、俺の夢の世界なんじゃないかな」
間が空いて、俺の死にそうな呼吸が何往復かする。
「じゃあ俺はなんなの」
俺はなぜかまた笑いながら答えた。
「主人公でしょ」
一層激しくなったノコギリ的な揺れに本当に吐き気を催す。もう体力も限界だ。でも俺は大丈夫だ。すり抜けるんだ。見ただろ? 見れてないのかな。
「問題はお前なんだよ!」
大声で言葉を届かせようとする。
「お前はアレと同じ次元にいるんだよ!」
顔が幾重にもブレて表情が読みにくい。それでも、一瞬の間の後に目が見開かれ口が大きく開けられるのがわかった。
「おかしいよ!」
そうだね! 一つ目のバケモンに街中で追いかけられてるんだから!
横の家からボールを飛び出させる。震える地面で踊るボールを彼はいとも簡単に自分のものにする。目は近い。向かってくる勢いもある。潰すしかない!
ボールが緩やかに転がっている。化け物の方へ。揺れが止んでいて、ヤツはピタリと止まり、足も―――吊り上げられてしばらく経ったかのように―――空中に静止している。ただ目だけがボールを追って動いていた。
ボールはその足の下をくぐり、ヤツの腹にトンと触れて少し手前に転がった。
もうひとつ出すが、ちょうど彼が歩き出すタイミングと重なってしまい、踏み出した足に当ったボールが家の敷地に戻ってしまった。
違う。彼は化け物に向かって手を軽く広げる。完璧なノールックで、余計なボールを消したんだ。そしてぴょんぴょんと軽く跳ねる。化け物から目を切らないように注意しつつ彼の顔を覗き込むと、「ほら、やってごらん」と言っている。
裂けて潰れて物になった顔が急に脳に来て、何かが喉を上がってきた。
「ボールは武器じゃない。友達でしょ」
喉を上がって来るもののせいで目が潤む。その隅でそれ以上の動きがある。化け物の足が降りる。ボールの向こうに。夜を貫通する黒色にスポーティな蛍光色の模様が光ってるように見える。
アスファルトを靴が擦る音がする。彼が足を振っている。ゆったりと、でもぎこちない。片足立ちで蹴り足だけが動くようにしているからだとわかる。こいつ本気なのか? ヤツの中に入った瞬間を思い出してしまう。聴こえなかったと思っていた声が聴こえていた気がしてくる。
腹に来る低音がしてその方向を向くとボールが無い。ヤツの足は見たことのないかたちで上に上がっている。
「蹴った―――の?」
「たぶん」
そう答えた彼はボールをセットして顔を上げる。さっき
彼はまた片足立ちになるが、今度は蹴り足の振り上げがほとんど無く、つま先が外を向いている。インサイドキック。もどかしいほどゆっくりとボールがヤツに向かう。ヤツの足にあたり、ゆっくりと道の脇に逸れてしまった。
一応、もうひとつだけ出してみようと思ったとき「線」が飛んで彼が揺れた。しかしもう体勢が整っており、また同じインサイドキックでヤツにパスを出す。ボールも同じ柄のやつだった。転がっていく先で道の脇のコンクリ塀が切れている。
「線」が何だったのかわかる。ヤツの方を向いたまま表情で「大丈夫、もう少し」と言っている彼から俺は無意識に少し離れる。
彼が跳ぶ。後ろに跳ね上げた足から今度はボールが跳ねる。
シルクタッチ。東アジア出身も手伝ってのことではあるだろうが、いつの間にかヨーロッパで呼ばれ出し、日本のファンにも浸透した。見えもしないボールの光線をトラップしてバックスピンまでかけ、地面を滑り帰ってくるボールをまたインサイドで送り出す。
聞き馴染んだ素朴な蹴り音を合図に転がっていくボールの先、ヤツの方を見て驚く。普通の夜が増えている。ヤツが熊ぐらいの大きさになっている。さすがに笑った。姿まで真似るか。この夢、悪夢のまま終わらないでくれるらしい。
「あのさ」
彼が声をかけてくる。声に深刻さが入っていた。
「これが夢で、俺が主人公って、どういうこと?」
知らないよ。ヤツが人の大きさを過ぎてもっと小さくなっていく。パッと消えたら目が醒めるのかな。
「俺、兄ちゃんの弟でしょ」
醒めてくれ。
「俺もお前の名前知らないよ」
ヤツがボールに吸い込まれていくように小さくなる。彼の方を見られない。
彼に跳んで倒した。アスファルトが痛い。黒い線が見えた。真似なんてしてなかった! 擬態だった!
彼がもがく。緩慢に。怪我させたかもしれない。手をついて顔を上げると彼の表情がおかしい。緩い。状況がわかってないのか!?
一瞬フリーズした俺にリズムが入り込んできた。彼のもがきともうひとつのもの。背後から音がする。なんとなく馴染みのある音。彼にのしかかった体勢のまま振り返ると、真っ黒なボールがリフティングされていて、足に触れる度に真っ赤な目が閉じていた。
主人公と私 端川礼 @hskw35
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