第15話 夜見に会いたい。

 黒猫を抱きしめたまま、夜見と別れる。だれかと遠くに遊びに行くなんて、何年ぶりだろうか。楽しかった。純粋にそう思えたことがうれしい。

 ぽつぽつと雨が降ってくる。夜の街はとても静かだ。人々は眠っていて、車も人もいない。ただ、ずっと信号機が色を変える。昼とは打って変わって少し肌寒い夜の街を、腕の中のぬいぐるみを守りながら急ぎ足で往く。


 家の電気はついていない。ドアを開けるとリビングは青白い光で包まれている。母親はまたテレビをつけたまま眠っていた。足元に落ちていた錠剤を拾い上げる。炭酸リチウムと書かれていた。これがどんなものかは知らないけど、母親がこんな小さな粒で昔の姿に戻るとは思えない。髪はぼさぼさで、頬がこけた母親の姿を見て、なぜか苦しくなる。時間は前にしか進まない。つまずいた人間や、それを助けようと後ろを向いた人間はおいて行かれる。その差はもう二度と埋められることはなく、取り残された人間はぽろぽろと、少しずつ崩れていく。そんな世界の掟を錠剤ごときで変えられるのなら、私はもっと…楽に生きられたのかもしれない。夜見がくれた楽しい一日が台無しになった。今日の存在をただ一人証明することのできる唯一の証言者を抱きしめて、ベッドに潜る。


 いつもは聞こえない音で目が覚めた。しかし、もう一度目をつむってひと時の快楽を貪る。

 強い日差しに半ば強制的に起こされる。

 下に降りると、めったに使われずにきれいなままのキッチンが使われた形跡がある。

 そして、机の上には久しぶりに見るかわいいデザインのお弁当箱。

 いつもよりちょっとばかり重いリュックを背負って、家を出る。

 今日はお昼いらないんだけどな。


 学年集会やらで無駄に時間を奪われて、学校が昼前に終わる。

 部活に行く生徒以外はさっさと校門へ向かう。楽しそうにはしゃぐ夜見の一行を無視して、生徒の波と違う方向に行く。

 ちいさな公園。めったに人が通らない道に面したしょぼい公園の、壊れそうな、すこし湿ったベンチをハンカチで拭いてから、そこに座る。

 久しぶりに食べたお弁当はもう冷め切っていたけど、一人で食べるカップラーメンよりはおいしかった。

 母親にメッセージで感謝を伝える。


 すっかり人どおりが減った通学路を歩く。電車に乗って、塾に行く。いつもと同じように勉強をして、でも今日は少し早めに家に帰る。

 まだ日が落ちてないうちに家に帰るのは久しぶりだ。

 電気がついている家に入る。


「ただいま。」

 滅多に口にしない四文字を、唱えるように、言う。自分でもぎこちなかったと思う。


「おかえり、ちーちゃん。」

 返ってこないと思っていた返答に戸惑う。まるで過去に戻ったかのような感覚に陥る。母親は、その細くて、骨ばった腕で私を抱きしめる。

「ごめんね。」

 今にも消えそうな、かすれた声で謝る。

 どうして。とても苦しい。過去には戻れないし、戻りたくもない。なのに、なぜか涙があふれる。


 冷たくて、ぬくもりなど感じられない腕に抱かれて、涙を流す。


 やめて。やめてほしい。私を混乱させないでほしい。私のことをおいていったくせに。押し寄せてくる感情の波はめくるめく変わっていく。心がぐちゃぐちゃにかき乱される。急に母親面しないでほしい。


 一瞬訪れた喪失感と後悔は怒りに変わる。ぼろぼろの母を押しのけて、家を出る。空はさっきよりも少し、暗くなっていた。赤い夕焼けが私を後ろから突き刺す。


 夜見に会いたい。今の私に必要なのはそれだけだ。すっかり歩きなれてしまった道を往き、夜見の家に行く。

 夜見の家のチャイムを鳴らす。出てきたのは、夜見…ではなく、姉?いや、それでも多分夜見なのか。夜見…真冬よりもっと背が高くて、真冬とそっくりなきれいな金髪に白い肌、しかし、首の目立たないとことに小さく花のタトゥーが彫られており、、耳にはいくつもピアスが空いている。正直普通に怖い。真冬の柔らかい感じに慣れ切っていたけど、本来彼女もこういう人種に分類される。私は蛇に睨まれた蛙のように硬直する。


 目の前の女性は、硬直して何も言わない私に戸惑っているようで、目を丸くする。「真冬のお友達?」その声色は、私のよく知ると同じように、安らかで、落ち着きをくれた。

「は、はい。」

「うそ!?あ、ごめん。ちょっと待っててね。今呼んでくるから。名前教えてくれるかな。」

「ち、ちなつです…」

「ちなつちゃんね。おっけー。」

 そのどこか気の抜けた返事は、よく知っているものだった。


 しばらくして、一番知っている夜見が現れる。「千夏ちゃん!?どうしたの?」

 すごくうれしそうな声を上げる。この声がずっと聞きたかった。夜見の声。夜見の声が聞きたかった。オレンジ色の光に照らされるきれいな顔。夜見の顔が、見たかった。


「上がっていいよ、ちなつちゃん。」

 夜見の、お姉さん?が優しく招き入れてくれる。

 こっそり夜見に耳打ちする。「夜見のおねえさん?」

 夜見はびっくりした顔をして、すぐに笑う。「お姉さんって、はは、お母さんだよ。」

 聞こえていたのか、夜見のお姉さん改めお母さんが言う。

「ちなつちゃんはめっちゃいい子だな。アホの真冬にはもったいない。」

 食卓にはおいしそうなカレー。

「ちょうどご飯だから、食べてってよ。今日はカレーだから、ちょうどよかった。」

「ありがとう、ございます。」緊張して変な話し方になる。

「あは、千夏ちゃんめっちゃ緊張してる。」

 夜見がからかってくる。足を軽く蹴って応戦する。

「うるさい、夜見。」

「真冬ってよんでよ、今夜見二人いる。」

「いい。じゃあ、

 夜見も足を蹴り返してくる。「なんだー、こいつ。」

「やっぱり真冬あほの友達だ。はは。」お母さんがすこし失礼なことを言ったように聞こえたけど、カレーはおいしかった。

 何だか居心地がいい。


 夕飯を食べ終わると、夜見のお母さん、茜さんはフラフラとどこかへ行った。

 私と夜見は2階にある夜見の部屋へ行く。

 夜見は自分の部屋なのになぜか落ち着かない様子で居る。


 私はそんな夜見を観察してみる。

 まず、髪の毛。私よりずっと弄り倒してるだろうが、とても綺麗だ。みずみずしくて艶がある。夜見に髪を触られたことはあるけど、私は触ったことないや。言えば触らせてくれそうだけど。


 顔を見る。目が合って、夜見の白い頬は真っ赤に染まる。わかりやすい。とても綺麗で…かわいい、顔だと思う。私が男だったら、目が合っただけで恋に落ちていたかも。

 いや、今でさえ、彼女の瞳を見つめていると、変な気持ちになってくる。


 体を見る。四肢は白くて細い。だけど筋肉がついているのか、引き締まっている。不摂生な私と違って、健康的な体をしている。


 数分にも満たない時間だったが、流石に黙って体をじろじろ見られるのは誰だって気になるだろう。

「え…?どうしたの、千夏ちゃん。」

 明らかに取ってつけたような笑顔をした彼女は困った声を出す。彼女の作り笑顔は嫌いだ。

 夜見の周りにいる、その他大勢に向けるその表情が嫌いだ。

 夜見は、私にしか見せない表情をするべきだ。


 私は分かりやすく不機嫌な声で言う。

「あのさ」

「?どうしたの。」


 夜見の肩を押して、自分より大きな夜見の体を床に押し倒す。

 夜見は抵抗することなく私に倒されて、顔を真っ赤に染めて、焦った顔をする。こう言う顔が見たかった。初めて真夜中に会った時、学校で見かける時みたいな余裕のある顔を見るとむかむかする。他の人に向ける顔を見るとむかつく。


「髪の毛、私にも触らせてよ。」

 自然と口角が上がる。

 夜見は呆然としたまま、こくん、と頷く。

 やっぱり夜見の髪は綺麗だ。指が滑らかに通ってゆく。

 髪を触りたいだけだけど、夜見が余計なことをする。私の頭を腕で包んで、抱きしめる。

「ハグしろなんて言ってない。大人しくしててよ。」

 夜見は「ごめん。」とだけ言って、それでも私を離さない。


 綺麗な、夜見の顔が近付いてドキドキする。

 夜見のシャンプーの匂いは甘い。

 私はかすかに抵抗するが、夜見の力には勝てない。そのまま、夜見の胸に頭を押しつけられる。やわらかい。夜見の心臓の音が聞こえる。


 夜見に抱きしめられるのは、嫌じゃない。だけど今は違う。

 夜見は私を抱きしめて離さない。夜見の体は暖かくて、触れ合う肌と肌の感触が気持ちいい。


 このままじゃ、自分がわからなくなる。自我は、夜見の体温に溶かされていく。抵抗することはできずに、溶かされていく。「千夏ちゃん、あったかい。」私の心臓の音も、きっと夜見に聞こえてる。


「やだ。」小さな声で言うと、

 夜見が小さく、びくんとはねた。

 少し力が抜ける。

「やめて、夜見」


 私は緩くなった腕の間から抜け出す。夜見は起き上がって、私から目を逸らす。

「ごめん…」


 私は近くにおいてあったティッシュを引っ張り、丸めて投げて、抗議の意を示す。


「その、つい調子乗ったて言うか」


 夜見が言い訳を始める。ハグされるのは嫌じゃない。それでもダメだった。あのまま抱きしめられていたら、夜見の吐息で窒息してしまうからだ。


「サイダー。」


「サイダー?」

 夜見はとても焦っている。


「サイダー飲みたい。」

 夜見は私から垂らされた希望の系に顔を明るくして、すぐに階段を駆け降りる。


 透明で刺激的なサイダーが喉をすぎると、夏の夜みたいにベタついて、暑苦しい思考をクリアにしてくれる。


 クリアになった思考は、時々滑らかすぎて、私自身の心の検閲を潜り抜けることがある。

「…ああいうの、誰にでもやるの?」

 言ってから、恥ずかしくなる。


「え?」

 夜見はまた驚いた顔をする。


「なんでもない。もう帰る。」


 驚いたままの夜見を置き去りにして家を出る。

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