第2話

 心が次に目を覚ましたとき、一番最初に見たのは見知らぬ部屋の天井だった。


(「…夢?」)


 体を起こすと、見知らぬパジャマに身を包み、どうやらお風呂に入った形跡もある。


(「たしか…おじさんが化け物で…美人に助けられて…それでその人のペットになって…」)


 心は大きく伸びをした。


「なんだ夢か!」


 それにしたって周りは見知らぬ物ばかりだ。いったいここはどこなのか。分からないが嫌な感じはしない。なによりではないことだけで十分すぎる。


 きっと、昨晩どこかで出会った誰かと意気投合して家に泊めてもらえることになったのだろう。そんな記憶は全く無いけれど。


「お礼言わなきゃ」


 心はベッドから起き出し部屋を出た。


 ♢◇


 部屋を出てもやっぱり知らない家だった。少なくとも知り合いの家ではないらしい。


「すみませーん」


 未踏の家なので控えめに声を上げながら進んでいく。そっとドアを開け、家人を探すが誰も見当たらない。開けた先がトイレだったので心は尿意を催した。


(「それにしても…」)


 チョロチョロ

 何がとは言わないでおく。


(「変な夢だったな」)


 チョロチョロ


(「それにしても…」)


 チョロチョロ


(「あの人すっごくきれいだったな」)


 チョロ…


 水を流し外にでる。心の頭は少しずつスッキリしてきた。スッキリして現実に戻ってきたからこそ、夢に見たファンタジーが名残惜しくなってくる。


(「あの人のペットになら、なってもよかった…かも」)


 人の声がしたのはその時だった。


「あっ」


 スッキリして油断していた心はビクッと体を縮こませた。廊下の先に人の足が見える。おそるおそる顔を上げると、それは短めゆったりのルームウェアを着た夢の中の美女だった。名前はそう、リリーと言ったか。会釈する心に、リリーは大きく目を見開き、携帯でどこかに電話をし始めた。


(「尻尾がない…」)


 心はドギマギしていた。昨日見たドラゴンの尾が彼女のどこにも見当たらない。あれは、見間違いだったのだろうか。彼女はどこに電話しているのだろうか。もしかして自分のことを覚えていないのだろうか。そもそも彼女は自分の知っている彼女なのだろうか。


 昨夜のことは果たして夢かうつつか。


 自分はどちらを望んでいるのだろう。心は自分自身に問いかけた。自分でもよく分からない。だけど、リリーを見た瞬間、世界が色鮮やかに華やいで見えた。気のせいだろうか。気のせいならば、この胸の高鳴りはいったい――


「あ、ユキちゃん?」


 電話が繋がったようだ。

 リリーが心を見すえながら通話を続ける。


「うちの子天才かもしれん! トイレ教えてないのに一人でできてる…あれ、ユキちゃん? おーい。ユキちゃーん?」


 切られた、と携帯を睨むリリー。心はおずおずと一歩踏み出した。


「あの…すみません。お手洗い借りました」


 その瞬間、リリーが嬉しそうに顔を向けた。こちらへ駆け寄り、戸惑う心の肩を鷲掴みにする。


「小? 大?」

「へ?」


 なぜだろう。リリーはとってもニコニコしている。


「だから、おしっこ? それとも―」

「小! 小です小!」


 まったくなんてことを聞くんだろう。心の顔が熱くなる。リリーはそんな人の気持ちを知ってか知らずか、ニコッと笑うと、そのまま心の頭をわしゃわしゃ撫で回した。


「良くできました! えらいねぇ。すごいねぇ」

(「えぇ…」)


 まるで子犬でもあやすみたいに撫でられまくる。心は困惑しつつも、されるがままもみくちゃにされるのを許していた。リリーの体温は心よりひんやりしていて、昨晩の記憶が一気に現実味を帯びてくる。


「そだ、朝ごはん食べよ」


 そう言って身を翻すリリーの裾を心は思わず掴んでいた。不思議そうに振り返るリリーのウルトラマリンブルーの瞳を見ているとぐんぐん吸い込まれそうになる。心の胸がトクンと鳴いた。どうしても確認したいことがあった。


「夢じゃないんですよね…?」


 リリーは不思議そうに瞬いた。心の胸はざわついた。返事を聞くのが少し怖い。お願いだからあんまり焦らさないでほしい。


 心の願いが通じたのだろうか、リリーはあっけなく破顔した。と同時に心のお尻に鋭い痛みが走った。


「ぬっ!!」


 心のお尻がつねりあげられていた。ひりひりするお尻を擦りながら、リリーを睨むと、つねった本人は廊下の先へ歩き出し、後ろ姿で片手をひらひらさせていた。彼女はドアを開け、そして振り向く。ウルトラマリンブルーの瞳が柔らかく細まった。


「痛かったでしょ。それが答え」


 リリーは心に手招きした。心は黙って駆け寄った。心の胸はトクントクンとうるさく鳴いていた。


 ◇◇


「これが朝ごはん…」


 雑然としたリビングダイニング。3日前の新聞、キャンディーの包み紙、飲みかけのコーヒー缶…ごちゃごちゃしているテーブルに出された黒い塊を見て、心は思わず呟いた。リリーがとびきりの笑顔で両手を目の前に合わせている。


「ごめーん。ちょっと焦げちゃった。てへへ」

「ちょっと…」


 焦げてることももちろん問題だが、一番の問題は元が何なのかさっぱり見当がつかないことだ。パン、ごはん、魚、肉、野菜…いったい何が焦げてこうなったのか。焦げた目覚まし時計だと言われても納得してしまう。


 心は小さくため息をついた。


「私が作ってもいいですか」


 冷蔵庫に食材が入っていることは確認していた。ぱっと見た感じ調味料もひととおり揃っている。しかも、真新しいものばかりだ。それこそ昨日今日買ってきたような。普段料理をしない人がとりあえず揃えましたという感じ。


 すると、リリーがまたしても電話を掛け始めた。


「ユキちゃん、やっぱりうちの子天才! ごはん作れるんだって」


 心は、作れるっていっても簡単なものだけです、と横槍をいれたが、リリーが果たして聞いているのかどうか。構わずユキちゃんに猛烈に語りかけている。


「天才すぎる! どうしよう、テレビの取材きたら。ま、出るけど。全国に向けて自慢するけど。世界中の人にうちの子を見てもらいたい! ペット飼いあるあるのこの感情。もう可愛すぎるよぉ! 離れがたいよぉ! ねぇ、今日仕事いかなくて良い? 休んでいい? ねぇねぇ! ユキちゃん? ユキちゃーん……切られた」


 途中で、もう作りますからね、と心はキッチンに向かっていた。あんな電話とても聞いていられない。トイレに一人で行けたくらいで、簡単な料理ができるくらいで、たったそんなことであんなに嬉しそうにされて。どんな顔して聞いていたらいいのか分からない。


 油を引いたフライパンに溶き卵が音を立てて広がっていく。心はちょっと失敗したなと思った。この色は昨夜のナマズおじさんを思い出させる。リリーが現実ならばあれだって現実だったのだ。


 朝ごはんは、スクランブルエッグとカリカリベーコン、そしてトーストになった。天才と褒められるようなものではない。きっと猿でも作れる。リリーが仕事に行く準備を始めていたので、ささっと作れるものにしたのだ。心はそう自分で自分に言い訳した。


「こんなに美味しいごはん初めて!」

「今まで何食べてたんですか…」


 瞳を輝かせパクパク食べるリリーの言葉に嘘やお世辞は感じられなかった。心は食べかけのトーストを置き、リリーの食べっぷりに見惚れていた。レースカーテンを透過した太陽光が、リリーの髪を銀雪のように輝かせた。その美しさに思わずため息が溢れる。それに、誰かと食べる朝食なんていつぶりだろう。それだけで、何の変哲もないスクランブルエッグが、心にとっても高級ホテルの朝食になるから不思議なものだ。


「ごちそうさまでした!」


 リリーはぺろりと平らげて満足そうに舌なめずりした。時計を見上げハッとしている。カバンをひっつかみ、慌ただしく玄関に向かうリリーのあとを心はパタパタついていった。


 ヒールのあるパンプスに骨ばった足を突っ込み、リリーがくるりと振り返る。


「それじゃ、わたし、お仕事に行ってくるね」 


 心はこくりと頷いた。リリーが仕事に行ったあと、自分はどうしたら良いのか聞く勇気は無かった。もしも「好きにしていい」なんて言われでもしたら、心はここを出ていかなければならない。


「…お気をつけて」


 なんとか絞り出した言葉がそれだった。それが一番無難な言葉だと思ったからだ。『いってらっしゃい』を言う勇気はなかった。それは帰りを待つ人の、帰りを待っていることが期待されている人の言葉だ。心が使っていい言葉ではない。


 ちらと見上げたリリーは瞳を潤ませ、心を見ていた。表情がくるくる変わる人だと思わず関心してしまう。次の瞬間、心の足首にリリーがしがみついていた。


「うわーん! お仕事行きたくないよぉ。サボりたいよぉ。でもでも生活費を稼がなきゃ。お金はなんぼあってもいい。備えあれば憂いなしだもんね。だってもう、わたしの身体は自分一人のものではないのだから!」


 最後の方はもはや演劇チックだった。ついさっきまで潤んでいた瞳にはすでに闘志すら宿っていた。本当に表情がくるくる変わる。心はついつい吹き出してしまった。


「何がおかしいの〜?」

「何でもないです」


 訝るリリーに、そう応える。この人と一緒にいたらきっと毎日楽しいだろうな、そんなことを考えながら。そんな夢みたいなことを考えながら。


「ヤバっ、遅刻する!!」


 リリーが立ち上がり悲鳴をあげた。同時に心も悲鳴をあげることになった。


「わっ!」


 心の体が宙に浮いていた。リリーの尾骨からドラゴンの尾が現れ、心の腰に絡みついたのだ。露出が高めな服だとは思っていたが、尾をスムーズに出し入れするためのデザインだったらしい。尾はそのまま心の体を抱き寄せ、リリーの冷たい体と密着させた。


「ちゃんとしててね、コロちゃん♪」


 リリーの柔らかい唇が心の眉間に軽く触れた。するりと上がり框に戻された心はその場にペタリと座り込んだ。リリーは尾をしまいながらドアを開け、外からカチリと鍵を掛け、行ってしまった。


 リリーの足音が遠ざかっていく。心は眉間にそっと手を伸ばした。柔らかな感触と微かな体温がまだそこには残っている。主の言葉が脳内をリフレインした。


 ―ちゃんとしててね、コロちゃん―


 留守番とは留守を預かることだ。つまりここにいなくてはならないということ。うなじがカッと熱くなる。心は紅く染まったほっぺを両手で鷲掴みにした。


「夢じゃない…! めちゃめちゃ嬉しい…!」


 間違いなく自分はこの家のペットになったのだ。ようやくその自覚が芽生えてきた。ここが自分の新しい家。そう思えることが自分でも驚きなくらいとんでもなく嬉しい。犬ならきっと嬉しょんしている。


 しかし、1つ気になることがあった。


「てか、って何?!」


 ◇


 こうして、心もといコロちゃんは、謎の美女リリーのペットになった。リリーが一体何者で、どんなお仕事をしているのか、それは心にも分からない。


 しかし、そんなことペットからすれば知ったことではない。


 ペットはただそこにいるだけでいい。それだけで主を幸せにできる、そういう尊い存在なのだ。

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家出娘、宇宙人に飼われる イツミキトテカ @itsumiki

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