家出娘、宇宙人に飼われる

イツミキトテカ

第1話

 廃墟と化したビルの上。鋭利な三日月が下界を他人事のように見下ろしている。その冴えた光が照らすのは寂れたビルのしょっぱい裏路地。大小2つの人影が何やら言い争っていた。


「いやいやだって、そういうのは無しでって言いましたよね」


 そう言って、北條ほうじょうこころはスカートの裾を握りしめた。そのままじりじり下がっていくと、2、3歩もせずにローファーの踵が廃墟ビルの壁にぶつかった。背負ったリュックからは悲しげに空気が漏れ出る。もう後ろに逃げ道はないと押しつぶされたリュックが嘆いている。


 心はごくりと生唾を飲み込みかけ、


「そういう約束でしたよね!」


 ダメ元で、もう一度吠えてみる。


 しかしというかなんというか、目の前の男にはパーソナルスペースという概念がないらしい。ずかずかと他人ひとのスペースに踏み入ると、そのナマズみたいな間抜け面を、心の口元にずいと寄せてきた。


「ひっ…」


 男は恍惚とした表情を浮かべながら大きく息を吸いこんだ。そしてニヤリとほくそ笑む。


「うーん…臭い! 最っ高に臭い! にんにく臭い!」

「…!」


 心は思わず両手で口を塞いだ。彼女は着ている制服のとおり花の女子高生だ。つまり、まだまだうら若き乙女。どんな相手からだろうとも「臭い」だなんて、泣きたくなるほどに恥ずかしい。


 心が羞恥心から赤面していると、ナマズ面の温い吐息が心の頬をいやらしく撫でた。頬のうぶ毛がぶわっと逆立ち、とたんに膝が小刻みに震えだす。


(「食事だけで3万…そんな都合の良い話あるはずなかった」)


 今流行りのマッチングアプリ。男はたくさん食べる少女が好きなのだと笑っていた。なにより、食べている姿を見るのが好きなのだとも。

 男はベジタリアンだったのだろうか。出てきた料理は野菜と米ばかり。特にハーブ系の野菜が多く、癖が強くてそれほど美味しいとも思えなかった。だけど、これは男のおごりだ。それに3万円が掛かっている。


 だから心はニコニコしながら食べたのだ。それこそにんにくだって大量に。男はそれをニタニタといやらしい顔で眺めていた。


(「だから安心してたのに」)


 少女がたらふく食べる姿に興奮する男。そんな変態だから食事だけで3万も出すのだろう。そんな変態だからディナーが香草まみれなのだろう。そんな変態だから普通の男たちが持つような普通の性欲もないのだろう。そんなだからきっと大丈夫だろう…そんなだから―


(「…そんなわけなかった。バカすぎて泣きそう」)


 突然、男が片手を振り上げた。心はとっさに頭を庇ったが、何も衝撃はなかった。代わりにヌルっとした何かが頭上から滴り落ちてくる。眉間を伝うそれを拭うと、知った香りがふわっとした。


「オリーブオイル…?」


 ふと見上げた男の顔は、なんだかさっきまでと違って見えた。元々ナマズ顔ではあったが今ではさらにナマズに見える。それに、体もこんなに大きかっただろうか。ハイブランドのスーツはいつのまにか七歩丈になり、そのうえ、みちみちと悲鳴を上げている。


「え…」


 心の心臓は一瞬止まった。目の前にいるのは見覚えのない化け物だった。頭が真っ白になり、この世から音が消え、まるで時が止まったようだった。


 しかしそれも一瞬だった。すぐに世界は動き出した。自身の心臓が血液を爆速で循環させるベース音が両の鼓膜を内から震わせた。目の前では、すっかりナマズサイドに落ちた元人間が舌なめずりしてこちらを見下ろしている。少し開いた口の隙間から灼熱の炎がちらついていた。


「今日の3万クッキングはこちらぁ! 『女子高生の香草焼き』どぅえす!」


 そう言って、ナマズ男は心の首をつかんで締めた。青白くなった心の唇からくぐもった悲鳴が漏れる。


(「私死ぬの? ディナーになるの?」)


 ナマズの口が大きく開いた。喉奥には灼熱の炎が踊り、口の中は予熱十分のオーブン状態だ。生臭い熱風が心の白い肌をチリチリと焼いた。


「―ぃいやだあぁあっ!!」


 心の口から悲鳴が、目からは涙が、一度に溢れ出た。自分は死ぬのか。こんなむごい死に方で。自分がいったい何をしたというのだ。全然納得ができない。こんなの全然割に合わない!!


 心は祈った。神様、仏様、お釈迦様、誰でもいいから助けてください。いや助けろ! 何がなんでも全力で私を助けろ!


 ナマズのオーブンはもう目の前だった。心が喘ぐたびに熱風が吹き込み、喉を焼ききりそうになる。


(「もうだめだ」)


 諦めかけたその時――ナマズ男の後ろを銀色の何かが横切った。


 その瞬間、心の首を締め付ける男の手の感触が緩まった。見下ろした首元にはネックレスのように男の腕がぶら下がっている。顔を上げると、腕があるはずの付け根からイエローの鮮血が吹き出して、心の全身にスプラッシュした。


「リリー、やりすぎだ!!」


 ナマズ男の呻き声を遮るように一つの怒声が割って入った。声のした方を振り返ると、銃を構えたスーツの女性が忌々しげにこちらを睨んでいる。


「このくらいかすり傷だって。にとってはね」


 場違いなほど暢気な声。その声は心のすぐそばで聞こえた。いつの間に、と驚く間もなく、心はその声の主が心とナマズ男の間に入ってくるのに気が付き、そして思わず目を見張った。


 思えば一目惚れだったのかもしれない。


 心は自分に命の危機が迫っていることも忘れて、その美しい生き物に目が釘付けになった。


 銀色に輝く長い髪。光の加減でコーラルピンクがちらつくその髪は、月光を浴びて天の川のようにさらさらと流れている。ウルトラマリンブルーの瞳は涼しげでまるで宝石のようだ。それでいてその宝石がウインクしてくるものだから心の心臓はドギマギした。


 そして極め付きは尾なのだ。くびれた腰元、その先の尾骨から髪色と同じに輝く鱗美しいドラゴンの尾――


 すべては一瞬だった。心が見惚れている間に、ドラゴンの尾はナマズ男の樽のような腹を突き刺し、貫通した。


 気がつけば男の腹からイエローの血が垂れている。抜いた瞬間、血しぶきが再び心にクリティカルヒットした。ナマズ男は仰向けに倒れ、そしてひくひくと痙攣を繰り返す置き物になった。


「リリー、これはにとってはかすり傷なんだな?」


 スーツの女がこちらに歩いてきた。異形の美女を呆れたように睨んでいる。美女はナマズ男をしばし凝視し、そしてニコッと愛らしく笑った。


「ちょっと重傷かも。てへっ」


 スーツの女が盛大に舌打ちする。


「ほれみろ。だから言ったじゃねぇか」

「わーん! ユキちゃんごめんてー。でもさ、この子の命がさ、危なかったからさー」


 突然、二人の視線が心に注がれた。心は軽く飛び上がった。


(「な…なに…この状況」)


 足元には穴の空いたナマズ男、左手には拳銃所持したスーツの女、そして右手には尻尾の生えた異形の美女。


 心は考えた。今日はハロウィンだったろうか。いやまだ4月だな。ドッキリか何かかな。だとしたら何のために―


「きみ、ずいぶん黄色いけど大丈夫?」


 声を掛けられ我に返ると、スーツの女―ユキちゃんと呼ばれていた―が心の首にぶら下がる男の腕を引き剥がしながら、一応とばかりに聞いてきた。心はどういう状況が大丈夫でどういう状況が大丈夫じゃないのか迷った挙げ句、とりあえず手の甲で顔を拭ってだんまりすることにした。何もかもがとにかく黄色い。


 ユキがおもむろにケツポケットから携帯を取り出した。


「名前は? 親御さんの連絡先教えてくれる?」

「…」


 未成年が出歩いていていい時間はとっくに過ぎていた。だから、その問いは当然の問いだった。そのうえ、心は危うく死にかけたのだ。それもほんのついさっき。彼女たちの助けがなければ、数時間後にはナマズの糞だったに違いない。


 しかしそれでも、あの家に、あの両親のいる家に、心は帰りたいとはどうしても思えなかった。


 ユキは片手でメールを打っている。押し黙る心に一瞬視線を寄越した。


「その制服フィオーレ女学院でしょ。人数多いから探すの面倒なんだけど。あんまり手間掛けさせないでくれる?」

「こ、これは、コスプレです」


 ふうん、とユキが興味なさげに呟く。まるで全く信じていないふう。それもごもっともだ。心は焦った。このままでは家に連れ戻されてしまう。


 逃げるか。路地裏の奥をそっと見る。逃げおおせたとして、黄色いままだ。それからどうする。あてにしていた3万円も手に入らなかった。どうしよう。これからどうしよう。


「じゃあさ」


 聞こえてきた暢気な声に、思わず釣られて顔をあげると、すぐ目の前で銀色の髪が揺れていた。いたずらっぽく笑う美人は So Cute で、心は一瞬ドキッとした。


「じゃあさ、うちにおいでよ」

「リリー」


 ユキの咎めるような声に、リリーと呼ばれた美人は発色の良い唇を尖らせた。


「いいじゃーん。この子帰るところが無いんでしょ。わたしが引き取るって言ってるの」

「この子は未成年なの。分かる? ディナーにしなくても、手出したら捕まるよ」


 ユキは親指をクイッとナマズ男に突き立てた。まるでこれがおまえの末路だぞと言わんばかりだ。リリーはニコニコしていた。


「手とか出さないよー。わたしね、昔からペット飼いたかったんだー」

「ペットて。自分の世話もちゃんと出来ないやつがペットて」


 心は顔を右に左にするのに忙しかった。口を挟む隙が無い。しかし、心は勇気を出して口を開いた。


「あ、あの…」

「そもそもよ。この子を家に帰したとしてよ。こんな時間にふらついている子よ? 今日は家に帰ったとしても明日にはまたふらつくと思うわけ。てことはよ? 今日はわたしたちがいたから助かったけど、明日はどうなることやら」

「そう頻繁に宇宙人と遭遇されたら困る」

「地球人にだって危ないやついるでしょ。わたしイヤだよ? この子の顔を朝のニュースで見ることになるの。事件が起きてからでないと警察は動けないってさ、これは怠慢だとわたしは思うわけよ。そこんとこどうよ、ユキちゃん」


 ユキが携帯片手に肩をすくめる。


「警察だって頑張ってる」


 リリーが首を振った。


「別にわたしは警察を責めてるわけじゃないの。だけど、わたしがこの子をペットにしたらよ? わたしが飼い主…つまり、保護者ってことだよ。そしたら、ユキちゃんもこの子の素性を調べる必要なくなるわけ。わたしは念願のペットを手に入れ、ユキちゃんは身辺調査の手間が省ける。これって―」

「WIN-WINじゃねぇか! そもそもあたし、警察でもなんでもないし」


「えっ」


 心は思わず声を上げた。

 私がペット? 美女に飼われる? 彼女たちはいったい何者? しかも、そのうち一人は絶対に人ですらないのだ。


 心が回らない頭を懸命に整理していると、二人が声を揃えて視線を向けてきた。


「「で、どうする?」」


 どうするって聞かれても。おずおずとリリーを見やる。ウルトラマリンブルーの瞳が優しく笑った。なんだかきゅーんと吸い込まれてしまいそうだ。


(「なにより、家に帰らなくていい…」)


 それだけで十分じゃないか。


 心はこくりとうなずいた。


「私をペットに、リリーさんのペットに、してください」

「やったー!」


 その瞬間、リリーが心に抱きついてきた。ひんやりとした感触に、心の火照った身体が冷やされて気持ちがいい。胸が枕代わりにちょうど良い位置だ。リリーにぎゅっとされるがまましばらく顔を埋めていたが、ふと胸の感触がなくなり、寝ぼけ眼で見上げるとリリーが小首を傾げていた。


「結局名前はなんだっけ?」


 心はとても眠かった。今日は、たらふく食べたし、化け物に食べられかけたし、助けられたし、助けてくれた人は人間じゃないし、そしてその人のペットになったし、住むところは見つかったし、胸枕は気持ちいいし。


 だからもう、自分の名前を告げるのもやっとだった。


「こ…ころ…」


 そこで心の意識は安らかに途切れた。

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