第8話 研究室に猫耳
「新入生か」
そう言った男性の声に、わたしは一難去ってまた一難……と思いつつ顔を上げた。何なのこの学園、女の子と出会う確率が低すぎ――。
「え? 猫?」
わたしは彼を目にした瞬間、素っ頓狂な声を漏らす。だって、わたしが飛び込んだその教室には、一人の男の子が立っていたのだけれど、それが。
「猫耳と、尻尾……」
そう呟きながら、相手をじっと見つめてしまう。
彼の襟元にあるバッジの色は青だから、わたしの一学年上の先輩なのだろう。
黒くて短めの髪の毛と、吊り上がってはいるけれども整った形の涼やかな目元、僅かに神経質さを見せている薄い唇。細身で長身の彼の頭の上には、ふっさりした黒い猫耳がついていて、彼の背後にはぶわりと膨らんだ黒くて長い尻尾があった。
そういうの、前世でアニメや漫画の中で見たことのある。
「獣人」
「違う」
瞬時に彼が否定した。
「え?」
「俺は人間だ」
そう彼は無表情に続けたけれど、彼の周りにもわたしと同じような防御壁ができていた。まるで、急にこの教室――研究室かな?――に入ってきたわたしを不審者だと認識しているかのようだった。
防御壁に囲まれたわたしと、防御壁に囲まれた彼。
変な人間同士が出会ってしまった的な空気が流れた。
しかし。
「人間ですか? でも、耳と尻尾が」
「そんなことはどうでもいい。早く出て行ってくれ」
「えっ」
平坦で冷たい声は、明らかにわたしを拒絶しているものだ。
わたしは思わず背後の扉に背中を押し当てながら、必死に愛想笑いを浮かべた。今ここでここを出たら、もう逃げ場がない。エリス様にはどうしても捕まりたくないのだから、何とかしなきゃ。
「そうしたいのは山々なんですが、ちょっと追われていまして」
「なるほど」
そこで彼は僅かに目を細め、わたしの背後に視線を投げた。微かに伝わってくる魔力の波動から、何か魔法を使ったのは感じ取れた。一瞬だけ彼の瞳の中に小さな魔法陣が生まれたのが見えたから、目に関わる魔法――透視か鑑定か、そういった類のものだろう。
「何か訳ありなのは理解した。だが、俺には関係ない」
彼は低くそう続けたけれど、わたしに視線を戻すと諦めたようにため息をこぼした。「外にいるアレがいなくなったら出て行ってくれ」
「ありがとうございます」
わたしが安堵で胸を撫でおろしながら改めて彼を見つめ直すと、彼の猫耳が後ろに倒れていることに気が付いた。相変わらず尻尾が膨れ上がっているのも視界にちらちら入ってくるし、これは――もしかして、わたしに怯えている?
数十秒ほど、距離を取ってお互い硬直していた。
そして、わたしがほんの少しだけ身体を横に移動させると、彼はすぐに眦を吊り上げて言った。
「あまり近づかないでくれないか」
「はい、もちろん」
わたしがこくこくと頷き、自分の防御壁を右手で指し示すと、彼もやっとそこで「おや」と首を傾げつつ訊いてきた。
「……どうして防御壁を?」
「わたしは男性が苦手なので。距離を取らないと、恐怖で心臓が保ちません。それで、あなたは何故防御壁を?」
「……女性が苦手だからだ。近づかれると怖い」
――なんと!
「仲間ですね」
「嬉しくないな」
わたしが親近感を覚えつつ言うものの、彼の眉間には深い皺が刻まれていく。でもちょっとだけ、わたしはこの状況がありがたかった。彼が女性が怖いというなら、わたしに必要以上に近づいてこないのが確定である。
そう気づいたら、防御壁の魔法は解除してもいいかなと思える。
「わたしは男性が苦手ですが、あなたはそれほど怖くないです。猫だからですかね? 可愛いし」
「猫じゃないと言ってるだろうが」
「じゃあ黒豹?」
「違う」
彼の猫耳がだんだん立ち上がり、緊張感が解けたのか尻尾も細くなっていくのが見えた。でも、わたしから距離を取っているのは変わらない。警戒した視線をこちらに向けつつ、彼はその部屋の一番奥にある机の前に移動した。
改めて辺りを見回してみると、それほど大きな教室ではないことに気づく。
机、椅子、ぎっしりと中身が詰まった本棚にロッカー、薬瓶や薬草が入った籠が整然と並んだ背の高い棚。この研究棟と呼ばれている建物については、まだちゃんと説明は受けていないのだけれど、部活か何かで教室を借りられるという話を知っていた。だから、彼は部活か何かでこの部屋を借りているのかもしれない。
彼は机の上に転がっているキラキラ輝く小石を籠の中に片づけながら、忌々しそうに扉の向こう側に視線を戻した。
こうしている間にも、がつがつ、と何かがぶつかっている音が聞こえている。エリス様の白い鳥が体当たりでもしているんだろう。
「面倒事には巻き込まれたくないから訊かないが、困ったことがあれば担任か誰かに相談しろ」
「そうします……」
わたしは背中を扉に押し当てながら、ずるずるとその場にしゃがみ込んで、埃っぽい床に視線を落とした。
そこで、さらりと自分の髪の毛が頬を撫でる感触に気づいて、またため息をこぼしてしまう。せっかくの入学式ってことで、リンダに髪の毛を結いあげてもらって可愛くしてもらったのに、さっきの逃亡劇の間にリボンを落としてしまったらしい。真っ白なレースのリボン。お気に入りだったのに。
「本当に、ご迷惑をおかけしました。わたし、ディアナ・クレーデルといいます。あの、あなたは?」
落ち込みながらそう言うと、彼は僅かな逡巡の後、短く言った。
「俺はユリシーズ・ヴェスタ。二学年だ」
彼の指先が襟元を差し、それから机の脇に無造作に置いてあった箱の中に伸びた。その中から取り出されたのは、小さなチョコレート。流れるようにそのチョコが彼の口の中に消えてしまうと、つい、いいなあ、なんて心の隅で考えてしまった。
その視線に気づいたのだろう、彼は少しだけ気まずそうに眉根を寄せる。
「……甘いものは疲れている時にいい」
「解ります」
にへら、とわたしが微笑んで見せると、彼――ユリシーズ様は困惑の表情を作って見せた。そしてまた、わたしという女の子という生物に怯えたのか情けなく猫耳が伏せられた。
でも。
「猫耳、可愛い」
「うるさい」
「すみません」
また少しだけ沈黙が降りて、彼の視線は目の前に開かれた書籍と、片づけたばかりの石や棚の上に並べられた何に使うのか解らない薬草などを行き来する。
そして、彼はわたしの視線の圧に負けたのか、やがて口を開いた。
「ここは見ての通り、俺が借りている研究室だ。研究目的がはっきりしていれば、担任に申請すると借りられる。お前も何かやりたいことがあれば借りてみるといい。学園生活に疲れたら、逃げ場所にもなる」
「なるほど! それはいいですね!」
わたしがぽん、と手を叩いて頷くと、彼はわたしが予想していなかったことを続けたのだ。
「俺はここで『呪い』について研究している。俺のこの……耳と尻尾は、呪いによるものだからな。呪いの解除のための研究をしているわけだ。だから俺は獣人でもなんでもなく……」
「呪い! とな!」
「あ?」
「何という僥倖! これは神様のお導きですか!?」
「はあ?」
わたしは勢いよく床から立ち上がって両手を胸の前で組む。そして、扉の向こう側で相変わらずがっつんがっつん何かがぶつかっている音を聞き流しながら、一歩だけ彼に近づいて彼の尻尾を膨れ上がらせた。
「わたしのお父様も呪いに苦しんでいます! いえ、苦しんでいるというのは言いすぎでした! あまり気にしていないですが、わたしはお父様の呪いを解くためにこの学園に通い始めたといっても過言ではありません! というわけで、呪いの解除ができるのならばぜひともご教授いただきたく!」
「解除できるならしている」
「あっ」
「さてはお前、馬鹿だな?」
ぴこぴこと動く彼の猫耳を見ながら、そりゃそーだ、と我に返る。何も好き好んで可愛くなっているわけではなかろうに。
「ええと、では。何か情報があれば教えてもらえませんか? お父様、ええと、わたしの父の呪いは全身が毛に覆われているというもので。その、気が付いたらモップになっているという状況で」
「……なるほど」
彼は渋い表情で少しだけ考えこんだ後、幾度かその視線をわたしと書物に行き来させた。「少し、考えさせてくれ。お前も新入生なら、まだ当分は忙しいだろう。暇になった頃、また話そう」
「解りました。ありがとうございます」
わたしはそう言いながら頭を下げると、彼が苦笑する気配が伝わってきた。
「外も静かになったようだ。逃げるなら今じゃないのか」
「ありがとうございます!」
わたしはそこで扉の向こう側で何も音がしないこと、魔力の流れもないことを確認して笑みがこぼれた。そこでわたしと彼の――ユリシーズ様の視線が合い、再度彼に頭を下げる。
匿ってもらって助かった、と思いながら扉にかけた施錠の魔法を解除して廊下へと出る。辺りを見回しても上級生らしき生徒の姿がちらほら見られたけれど、エリス様の気配はすっかり消えていてほっとする。
そしてもう今日は疲れたから屋敷に戻ろうと決め、歩き始めてから――そう言えばユリシーズ様ってゲームには出てこなかったな、と考えていた。あれほど目立つ特徴なら、わたしだって覚えているはずだ。
彼の魔力はかなり大きく感じられたし、多分――名のある貴族なんだろうな、とは思うけど。
あのまま、猫獣人のままでいてくれたら会話しやすいのになあ、なんて申し訳ないことを考えてしまった。
でも……うん、それは駄目だ。早く呪いは解くべき。彼も気にしているようだったし。
わたしも呪いを解くために勉強しつつ、何とか――エリス様たちから逃げる方法も考えねば、と胃が痛くなった。
まずはアレだ、チームである。彼らに勧誘されないために、早々にどこかのチームに入ってしまおう。できれば女の子だらけのチームがいい。
さて、どうしよう?
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