第1話 剣を習いたいと思ったの
「お兄様! わたしにも剣を教えてください!」
乱暴に、叩きつけるかのようにドアを開けたわたしは、ソファに寝ころんで顔の上に開いた本を置いている兄に叫んだ。
「……勉強中なんだけど」
一瞬遅れて兄は、顔の上に乗せた本を床に落とし、寝そべった体勢のままでため息交じりに返してきた。
「昼寝中の間違いじゃないですか? ただ乗せてるだけじゃないですか」
「俺くらいになると、乗せてるだけで勉強になんだよ」
「本の重さを計る勉強ですか。無意味無意味!」
「あの、お嬢様……」
呆れたような男性の声を背後に聞きながら、わたしは鼻息荒くもう一度叫んだのだ。
「いいから、剣の指導です! お願いします!」
「うるせえ」
兄はそこでわたしの背後にいるであろう男性にちらりと視線を投げた。「テイラー、妹がおかしい。医者を呼べ」
さて、ここで整理しよう。
わたしの名前はディアナ。クレーデル男爵家の一人娘であり、今日の誕生日で十二歳になったばかりの美少女である。もう一度言おう。美少女である。
そして目の前で自堕落な格好を見せているのがわたしの兄、イグナーツ・クレーデル。イケメンだけど派手な桃色の短い髪と鍛えた筋肉を持ち、鍛えすぎたせいか脳も筋肉になってしまったような少年。困ったことがあったら剣で何もかも解決しようとする無茶苦茶な十七歳である。
「確かにおかしいのです、坊ちゃま」
「坊ちゃまはよせ」
「発熱で寝込んで魘されていたと思ったら、目が覚めた直後から言動におかしいところがございまして。これではまるで別人だと思いましたので、先ほど、アドラー先生を呼びに行かせました」
「誰に呼びに行かせた?」
「リンダです、坊ちゃま」
「道草の達人じゃねえか。それと、坊ちゃまはよせ」
いつの間にか、兄とわたしの背後の男性――クレーデル家の家令であるテイラーが会話を始めていた。むっとして視線を背後に投げると、ぴしっと背筋を伸ばした白髪の男性が無表情のまま説明をしている。テイラーは小柄で柔和な顔立ちをしていて、たれ目のおじいさん。難しい表情をしていても、怖いというより可愛いという表現が似合う。
このクレーデル家において、父と兄以外の唯一の男性だった。
わたしが恐怖を抱かずに接することのできる、身内以外の男性。
そう、わたしは――何故か、物心ついた時から男性が怖かった。理由なんて解らない。ただ、怖いのだ。特に、背後に立たれると悲鳴を上げたくなる。
実際、悲鳴を上げて逃げ惑い、転んで怪我して大騒ぎになったこともあった。どうやっても恐怖感が消せず、できるだけ家に引きこもって他人に関わらないようにして生きてきた。
でも。
「お兄様」
わたしは目の前で会話をしている二人の台詞を遮り、夜着の胸元を掻き合わせながら言った。「わたし、思い出したんです。どうして男性が怖いと感じていたのか。その理由は、わたし、殺されていたからなんです」
「は?」
「お嬢様……?」
二人の訝し気な視線が同時にこちらを向いたので、さらに声を張り上げて続ける。
「わたし、前世を思い出したんです。熱を出したショックなのか何なのか知りませんが、ここではない別の世界で生きていた時の記憶を思い出して。そしてそこで、男性に襲われて命を落としていたからなんです!」
「テイラー、早くリンダを探せ。アドラー先生と道草を食ってたら引きずってでも連れてこい」
「承知しました」
「信じてませんね、お兄様! テイラーも待って!」
そんな感じでわたしたちが騒いでいると、さすがに――お兄様の声が――煩すぎたのか、こめかみに青筋を立てたお母様が廊下に姿を見せた。
「あらあら、ディアナ? そんなみっともない格好で何をしているのかしら? 女の子として……貴族の娘としてなってないわね?」
「ううっ」
わたしはぎくりと肩を震わせ、寝起きのままで寝ぐせもついているであろうふわふわの髪の毛を撫でつけつつ小首を傾げる。そして、ゆっくりとお兄様の部屋から出て廊下の真ん中に立ち、ぎくしゃくとした動きで軽く頭を下げた。
「お、おはようございます、お母様」
「おはよう。そして、これは何の騒ぎかしら」
我が家の一番の権力者とも言っていいのが、お母様――マルガレーテ・クレーデルだ。桃色の髪の毛を綺麗に結い上げ、耳元にはお父様からプレゼントされたという赤いピアスが輝いている。形の良い赤い唇、金色にも見える瞳、童顔ながらも迫力のある美女。年齢はもうすぐ四十を数えるというのに、二十代後半にくらいしか見えない。
お母様は元々は平民だったらしいのだけれど、男爵であるお父様と結婚した後は、貴族としての礼儀をこれでもかと詰め込んで出来上がった淑女と言える。肝が据わっていて、正しいと感じたことには猪突猛進。わたしも兄も、そして父さえも絶対に逆らってはいけない権力者、それが母なのだ。
でも、今だけは。
前世を思い出してしまった今だけは、意見を口にすることを許して欲しいのだ。
「あ、あの」
「さあ、早く着替えてきなさい。若い娘がそんな格好で歩き回るものではないわ」
「それはもちろんですが、その前に」
「着替えてきなさい」
イエス、マム。
そんなことを口にしてしまいそうになりながら、わたしは慌てて自分の部屋に向かったのだった。そして、廊下を走ろうとしたらすぐに背後から叱咤が飛んできた。お母様、怖い。
――というわけで。
わたしは悪夢の後で寝汗を掻いてひんやりとした夜着を脱ぎ、お気に入りのクリーム色のドレスに着替えている。ドレッサーの前に座り、乱れた髪の毛に櫛を通しながら『夢』のことを思い出してため息をつく。
夢……ではなく、記憶。それも、前世の記憶だ。
普通の夢だったら、起きて数十分後にはどんな夢だったか曖昧に溶けてしまうだろう。楽しい夢だった、悲しい夢だった、変な夢だった、そんなぼんやりした輪郭だけを残し、記憶には残らない。
でも、鏡の中を見つめている今のわたしには、細かいところまで明確に思い出せるものとしてそれは存在し続けている。
前世――日本に生まれ育った平凡な女の子だった自分。その時は末松亜季という名前で、漫画と小説を読むのが好きで、さらにお菓子作りという趣味に力を注いでいた高校生だった。本当にどこにでもいるような、目立たない女の子だったのだ。
平和な日本で暮らして、高校に入学してすぐに、ちょっと遅めの初恋も経験した。
サッカー部にいた先輩にほわほわした片思いをして、友達と一緒に恋バナをして盛り上がった。渡す勇気もなかったのにバレンタインデーにはチョコレートマフィンを作って、結局一日の終わりに自分で食べた記憶だってある。
毎日が平穏に過ぎていくことを疑わず、自分が何らかの事件に巻き込まれるなんて想像したこともなく、ただ友達にどうやって告白したらいいか、なんてわたわたしているのが一番の大事件だった。
だけど、ある日の放課後。
友達と一緒にカラオケ行って、ちょっと遅めに帰路についた時。電車から降りて、歩きで自宅へ向かっていた。空がすっかり暗くなったとはいえ、大通りにはそれなりに人通りがあって、コンビニや薬局といった明るすぎるくらいの光が溢れている。
スマホの画面を時折見ながら、街灯の明かりの下を歩いて。
そして、路地裏で犬の散歩をしている人たちの姿も消えた時、背後から誰かの手が伸びてきた。正直に言うと、お父さん以外の手に触れるのなんて学校行事以外になかった。
自分の口を塞いでいるのが男性の手だ、と気づいた時には遅かったんだと思う。
暗闇に浮かび上がった、男性の影。
今まで感じたことのない恐怖。必死に暴れたのに、敵わなかった。こんなことが自分に起こるなんて考えたこともなかったから、それが身に降りかかったきた瞬間、何もできずに――そこで夢は途切れている。
多分、わたしはそこで死んだのだ。
そして今、その記憶を思い出した。
そんな話を、母と兄の前で説明することになって。
「だから、剣を習いたいと思ったの」
前世でのことを語り続けていたわたしは、亜季としての意識が強くなっていたせいか、ディアナらしくない弱々しい口調でそう言ったのだった。
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