ひとりぼっちの笛吹き

 果たして、どれだけの時間が経ったのか。

 もはや時間の感覚はなく、一つの思いを笛の音にのせるのみ。


 鯉がパシャリと水を弾いても、われの衣は濡れなどしない。幾日か前に水面みなもに落ちた桜の花びらに乗って、吾は今日も笛を吹く。



 なんの変哲もない、公立高校の中庭。そこには池がある。メダカが遊び、鯉が悠々と泳ぐ池だ。

 その音色に気がついたのは、確か夏だった。キラキラと反射した日差しが、水面すいめんでパチパチと跳ねていた。嘘だと言うなら見て欲しいものだ。時間と環境が合えば、線香花火のように陽が光るのが見れるのだから。


 その音色に気づいたのは、あの日だった。


「おい、隼斗はやと!何してんだ」

「置っいてくぞー」

 小学校からの友達と、三人で中庭前を通った時のことだ。

「あのさ。この学校、和楽器を使う部活なんてなかったよな?」

 この学校には吹部も軽音もあるが、こんな音は聞いたことがなかった。前を歩く二人も、怪訝そうな顔をして

「あるわけねーだろ」

「聞いたこともないよ。隼斗ボケたの?馬鹿になってはない?」

 だいぶ辛辣な答えが返って来た。いつものことだが。

「なんでそんなこと聞くんだ?」と、本気の心配に笑って返す。

 では、海都と真美矢は疑問に思わないのだろうか。自分などよりもずっと頭が良く聡いはずの二人が?

「でも、さっきから笛みたいな音聞こえるから。二人は気にならない?」

 そう、さっきから聞こえている音。それは、小学校で聞いた横笛などに似た音だった。金属が出す音ではなく、木や竹特有の、のんびりとした柔らかな音。


 詳しくはないけれど、間違いないはずだった。なのに、二人が見せたのは、心配と奇妙さが混じったような表情だった。


 後から気づいた。


 どうやらこの笛の音は、僕以外には聞こえていないらしい。



 少しして、笛の音の源を見つけた。それは信じられない光景だった。

 春の日差しの下で、親指姫や一寸法師と同じサイズ感のが、笛を吹いていたのだ。教科書でしか見たことがないような古い着物を身につけて。

 水面に浮かぶ木の葉に乗ったその体は、間違いなく透けていた。

 


 あまりの不思議さと美しさに、僕は通りかかるたびにその笛吹きを見つめた。どうやら、あちらは僕が見ていないようだったけど。




 頭の中に、一人の姿が思い浮かぶ。長い黒髪を背に垂らし、着飾らない袴を身につけた彼女の姿は、吾の心に、小さな穏やかさと痛みをつれて来た。

 大切な人。守りたかった人。

 吾を、置いて行ってしまった人。吾が、置いて行ってしまった人。



(うわ、久々にこんな暗いんだが。本当に勘弁して欲しい)

 そもそも、冬の18時など夏の20時にも匹敵するだろう。週2の部活は楽しいが、ここだけは配慮して欲しいところだ。

 今日も変わらず、笛の音は聞こえている……訳ではなかった。不思議に思い探してみると、笛吹きは池のそばで眠っていた。見ているだけでこちらが寒くなる。そもそも、あの服は暖かいのだろうか。

(知ったこっちゃないか)

 そう納得させて、足を家へと向ける。いつもと変わらず帰宅するが、一度芽生えたモヤモヤとした心配はいつまでも残るものなのだ。

 気がつけば僕は手に針と糸を持ち、柔らかな布に向き合っていた。



 幼い頃から、笛を吹くのが好きだった。屋敷の縁側で一人笛を吹く時間が好きだった。けれどそれと同じくらい、姫に笛を披露するのが好きだったのだ。

 今でも夢に見るとは、なんとも情けない。


 笛を吹くのは自他共に上手いと認めていたが、武術は不得手だった。挙句、父上に笛を燃やされた。

 幼かった吾は、笛を吹いていた縁側で泣いた。そんな吾に声をかけたのは、人ではなかった。


 不思議な気配に導かれ、吾は林の奥の社へたどり着いた。緑の葉が、艶々と月光で光っていた。社に腰掛けるそれは、天女だったのかもしれない。

 そこにいた彼女は言ったのだ。

 こちらにおいで、と。


『そなたは、生まれる場所を間違えた。そなたの才は、こちらでこそ輝こう』


 そんな言葉に惑わされて、吾は姫を置き去りにしてしまった。


 気づいた時にはもう遅く、姫はすでにこの世を去る間際だった。吾の一年は、彼女の十年だった。

 姫に、吾の姿は見えていなかった。吾は、もう、ヒトではなかったのだろう。

 やがて屋敷も消えた。家系も辿れなくなり、仕えていた主人も消えた。


 いつまでも俗世に浸る吾を、天女はあっさりと見捨てた。そして吾は、次第にその姿を小さく、薄くしてしまった。


 今や、一日の感覚など無いに等しい。



 今日も変わらず、朝目覚める。なぜか肩に、小さな掛け布団が乗っていた。不器用で、それでいて温かい。不思議なこともあるものだ。



 今日も変わらず、吾は笛を吹く。その笛の音に、一つだけの思いを乗せて。





『姫、お慕い申しておりました』



 やがて、消えてしまった屋敷や人と同じように消えるまで。雪のように、この姿が薄れて無くなるまで——微睡むように、ただ笛を吹く。

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