彼女の名前

 俺は、彼女のことをひとつも知らない。

 名前も、年齢も、どこの学生なのかも。どんな声で話して、どんな声で笑うのかも。


 湿った春の空気を窓から眺めていた3月に、俺は初めて彼女と出会った。


けれどそれは、ただ、2階の窓から見ただけだ。


彼女は、すっぽりとフードを被って夜の道を歩いていた。翌日を目前にした深夜に、同じ年に見える女子がいたら、それは目立つだろう。

 当てもなさそうに気ままに歩く彼女に、もしかしたら俺は一目惚れでもしたのかもしれない……馬鹿馬鹿しいかもしれないが。


 そしてそれが、半年前の話だ。


 彼女は、たいてい月に一度、俺の家の前を通った。時間は同じ頃。服装もほとんど変わらない。変化らしい変化といえば、長袖から半袖やノースリーブになったことくらいだ。

 家の前で、彼女は真っ直ぐにこちらを見る。彼女は、俺が見ていることを知っている。次の月にはバレていた。正直めちゃくちゃ恥ずかしかった。最悪通報でもされるかと思っていたが、そんなことは起きなかった。それ以来、なぜか彼女は、俺に手を振ってくれる。


 金の髪が、満月の光に透ける。


 若葉色を含んだ灰色の瞳が、夜の中で光る。


 彼女の姿は、まるで人ではないかのように美しかった。



 秋も、彼女はやって来た。


 冬も。時には雪の中、1人で歩いていた。


 そしてもう一度春が来た頃だった。

 彼女がこちらを向かなくなった。


 初めは気づいていないのだと思った。けれどどうやら違う。彼女は無視しているのだ。声をかけようにも、今までかけたことがないから驚かせてしまいそうで怖い。そしていつの間にか、彼女は通り過ぎてしまうのだった。


 三月、四月、五月


 そして、六月。梅雨前線のせいで、このところは雨ばかりだった。けれど彼女はやって来た。ただし、フラフラとした、頼りない足取りで。そして、4ヶ月ぶりに俺を見た。その瞳は、霧がかかったように暗かった。明るい、世界を楽しむような光りは失われていた。


 俺は、思わず駆け寄った。俺の部屋は2階だが、降りることは不可能ではない。窓から屋根、近くのブロック塀へと移動すれば難しくはないのだ。


「………」

彼女は何も喋らない。近くで見ると、とても細かった。女子だから、では言い切れない細さだ。まさか俺が、しかも窓から降りてくるとは思わなかったのだろう。一瞬ポカンとした顔をして、そして彼女は背を向けてしまった。

 綺麗な灰色の瞳を、フードの奥に隠して。


 背を向ける前、彼女は何か言いたそうに口を動かしていた気がした。あんなに痩せてしまっていたけれど、大丈夫なのだろうか。

けれど、それももう分からない。後の祭りだ。


 梅雨のあの日から、彼女は二度と俺の家の前を通らなかった。

 未練がましく、今でも梅雨になると彼女を思い出してしまう。こんなに女々しいやつだとは自分でも知らなかった。


ならば追いかければよかったのに。

でも、そんな勇気もなかったんだろう。


 少し首を傾けて。フードの縁をそっと手で押さえながら、こちらを見る姿を。

 いたずらっ子の様な口元と、楽しげな目元を。

 フードからこぼれ落ちて金に透ける髪を。


 俺は今でも、梅雨の雨に濡れる紫陽花を見ると彼女を思い出す。……思い、出してしまう。


 満月の晩にだけ出会えた、名前も知らない少女のことを。





 目を背けた背中が痛い様だった。

 まんまるな月を目指すように道を1人歩いて……彼と出会った。私のことを、見つめてくれる男の子。私のことを何も知らないけど、それでも私を見つめてくれる大切で——いつの間にか、大好きになっていた人。未練がましく、毎月同じ道を通った。けれど、それがバレてしまった。

 親は言った。

一途な私たちに、その想いは辛いだけ』と。

 けれど、諦めるなんて出来るわけもなく。

 でも、私自身もわかっていたから。


 だから無視した。


 想いのせいで食べ物が喉を通らなくなって、丈夫なはずの体も、この1ヶ月で痩せてしまった。


 もうやめよう、もうやめようなんて、何回思ったことだろう。


 でも、彼に正面から見られて、もうダメなのかな、と思った。


 私の言葉は、きっと彼には通じない。私と彼の間には、明確な線が引かれている。乗り越えることのできない境界。私はあちらに行かないし、彼もこちらに来られない。だから、私たちは、人と繋がり合うことを禁じられている。


 わがままで、勝手なのはわかってる。けれど、どんなに理解されなくても、それが、半妖私たちのルールだから。


 今も私は、彼の名前すら知らない。

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