魚が泳ぐ川

 引っ越したばかりの田舎を、ぼくは歩いている。別に見知らぬ土地じゃなかったし、道に迷うことはない。


 ここは、僕が住んでいた東京とはずいぶん違う。

 それはもう、面白いくらいに。


 だだっ広いコンビニの駐車場(サッカーでもできるんじゃないのか?と毎回思う。公園にすればいいのに)、高い建物がなくてポカンと——少し間抜けに、あいた空。車が時折しか通らない広い道と狭い道。


 ぼくの様な小学生男子には、はっきりいうと少しつまらない。だが、別に文句はない。今のように、あてもなく散歩するのは意外と楽しかったりする。いつも、なんらかの発見があるからだ。


 今日は片手に、気まぐれでちぎった猫じゃらしを持って歩いていた。


 坂を下って横断歩道を渡る。直売所の前を通って……その先。一本道の途中にある橋に、その子はいた。

 橋は、いかにも田舎らしいものだった。さびてくすみ、はげかけた赤い橋だ。欄干は低く、四段の跳び箱程度しかないように見える。

 その赤い手すりから身を乗り出すように、その子は下を眺めていた。


 まだ転校してきて1ヶ月。完全にクラスメイトの名前を覚えられていないぼくには、その子が誰かなどわからなかった。だから、声もあいさつもなく通り過ぎようとしたのは間違いではないと思う。


 けれど、その子は違ったらしい。


「あれ?クラスメイトの」

 後ろを通り過ぎようとしたとき、そう声をかけられたのだ。ぼかしているところを見ると、相手もぼくの名前は覚えていないらしい。

「いいもの持ってるね。どうしたらもらえるのかな」

(いいもの?)

 ぼくは今、サイフも携帯電話も持っていないのに?だが、相手は少し顔を輝かせてこちらの手元を見てくる。

「いいものって……これ?」

 それは、適当に摘んだだけの猫じゃらしだった。

「そう」

「別に……このくらいなら、あげる」

「ほんと!やったね」

 本当に嬉しそうにするその子を見て、よくわからないなあと思いながら、分かったことが一つだけある。

(この子、クラスで浮いてる子だ。いつも教室の端の席で、窓の外眺めてる。たしか、誰かが変なやつって言ってた)

 誰か、の気持ちも少しはわかる。けれど、ありがとうとお礼を言うその子には、そんなこと言えなかった。


 じゃあね、と言おうとしたときだった。

「な、何してるの⁉︎」

 先に進みかけた足を、精一杯踏んで橋にかけよる。その子は、橋の上に立っていた。たかが跳び箱4段程度。手すりに立つのは難しくないだろう。けれど、もしもあそこから落ちたら。

 どうしようと悩んでいると、その子はぴょんと降りてこちらまでやってきて、

「ねえ、これ持ってて」

 と言う。差し出されたのは、あの猫じゃらしだった。


 左手に猫じゃらしを持つと、違和感があった。さっきまで自分のものだったのに、もうこの猫じゃらしは他人のものになっている。他人のものを持っている緊張と違和感なんだろう。


「これ、どうすれば……」

 聞いた声は、最後まで言えなかった。その子は、今度はためらいなく橋から飛び降りたのだ。まるで空中に浮かんでいるかのような一瞬。


 慌てて駆け寄ると、橋の下のその子は笑ってこちらを見た。



 ——一度やってみたかったんだ!——




 今思えば、だいぶ危ないことをしたものだ。

 僕はもう、その街をあまり覚えていない。元々、親の都合の1学期だけの転校だ。けれど、あの子のことはちゃんと覚えている。顔や声が朧になっても。

 男の子か女の子かさえ知らなかった。けれど、記憶のページにくっきりと残っているのだ。


 空を泳ぐように自由な姿が。

 まるで魚のように、橋から飛び出した、1人の小学生の姿が。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る