初診
ところで、その頃(実は今も)僕はお金に困っていた。
仕事はしていた。正確には11月の末までだが。11月末に解雇通知を受け、僕はめでたく無職に転落した。
それまで僕は某アメリカ系IT企業でデリバリー・マネージャーという名前の管理職に就いていた。給料は年棒で1200万円。高くはないが、安くもない。
だが、水頭症の症状は思ったよりも僕のパフォーマンスに現れていたらしい。
それも思いっきり。
ついでに言うと、夏過ぎに膵炎を発症して救急車搬送された末に15日程度入院もした。
総合的に考えて赤字企業が雇用し続けるにはかなり難がある。どうやら僕はそういうレッテルを貼られてしまったらしい。
そしてめでたく解雇通知。わずか八ヶ月の短い雇用期間だった。
その前の会社はスキルが合わなくて退職した。こちらは三ヶ月。そのまた前は無職で執筆活動に精を出していた。
要するに過去三年近く、僕は社会人としてはいささか如何なものか、と言う生活を送っていたことになる。
しかも僕はインターネット詐欺に遭ってかなりの借金を抱えていた。これが原因で家庭は崩壊。僕は自宅を追い出され、一人寂しく猫三匹と一緒に横浜の賃貸マンションで寂しく暮らしていた。2021年の9月以降はこんな感じ。
それはともかく。
そういう理由で貯金はなかった。ヘッドハンターは熱心にコンタクトしてきていたが、書類選考後に面接で軒並み敗退。2月の頭には手駒もない体たらくだ。
友人や自治体からの借金でなんとか命を繋げながら、それでも僕は就職を願って頑張っていた。
考えてみれば無茶な話だと今では思う。レジュメでは優秀なマネージャーが会ってみたら呂律が回らないおっさんでは採用する会社は皆無だろう。
僕はタクシーに揺られながら、でもその時はこんなことにも考えが至らないままぼんやりと横浜駅前へと運ばれて行った。
+ + +
病院に着いてすぐに初診の受付、次いで問診。
医者は五つのアイテムをテーブルに並べ、僕にその内容を覚えさせてから問診を続ける。
「……では、調子が悪くなったのは今年に入ってからなんですね?」
「おそらくは……」
僕の答えは歯切れが悪い。
今思えばなにしろ水頭症、知能障害が発生している。だが、自覚のある著しい症状は歩行困難だけだった。
詰まるところ、この時僕には自分の調子が悪いと言う自覚に乏しかったのだと思う。
そこで僕は、
「左足が動かなくなってきたのは今年に入ってからです」
とだけ答えた。
「その症状は進行していますか?」
医者が僕の左足を指差して言う。
「そう、ですね。徐々に動かなくなってきています」
「ちょっとここで部屋の端から端まで歩いてみてもらえますか?」
「はい」
立ち上がると僕は言われた通りに狭い診察室の端から端まで歩いてみせた。
どうも歩きにくい。体が左に傾いている、そんな気がする。
僕はそれでも足をひきづりながら歩いてみせた。
「……なるほど」
医者が再び僕に椅子を勧める。
「じゃあ、このハンカチの下にあるものを端から思い出して頂けますか?」
「…………」
残念なことに、僕は三つしか思い出せなかった。何があったのか、記憶を辿ってもどうしても思い出せない。
「……ハサミ、ペン、あとは……コイン、かな?」
「残りは思い出せませんか?」
「……はい」
「わかりました」
医者はすぐに何かをカルテに記入すると僕に
「CTを撮ってみましょう。あとレントゲンもお願いします」
と短く告げた。
+ + +
実は水頭症の典型的な症状として先に述べた三つのほか、尿失禁が挙げられる。これはどういうメカニズムなのかはわからないが、ともあれ尿を我慢することができなくなるのだ。
実際、僕もこの時にはすでに失禁していた。
診察室は3階、そしてCTとレントゲンは6階にある。
僕がゆっくりと病室から出ていくと、連れ添っていた友達がすぐに
「おしっこは? もう失禁したかい?」
と訊ねてきた。
僕は正直に失禁したことを申告する。
「わかった。6階に行ったら、レントゲンを取っている間にオムツを買ってくるよ」
と申し出てくれた。
ありがたい友達だ。
だが誠にもって残念なことに、水頭症を患っている僕はその友人に感謝する気持ちすら希薄だった。
「うん、ありがとう」
なんとなく面倒だなあと思いながら、一応は感謝の気持ちを友達に伝える。
CTスキャンは人体を輪切りする連続したレントゲンだ。その代わり、解像度は通常のレントゲンよりも少し劣る。しかも、輪切りは体幹を軸としたスライスだ。そのため、横からの画像を得るためにはCT以外にレントゲンが必要なんだと後に違う医者から教えてもらった。
CTスキャンは数分、レントゲンは一瞬で終わった。
診察室に戻る途中で買ってきてもらった成人用オムツに下着を替え、僕は三階の待合室で再び名前を呼ばれるのを待っていた。
『蒲生さん、診察室1においでください』
水頭症患者には時間の感覚すらかなり希薄だ。すぐに名前を呼ばれたと思っていたが、実は長く待たされたのかも知れない。
再び挨拶し、先と同じ椅子に座る。
「おそらく、水頭症です」
医者は僕に告げた。
「紹介状を書きます。みなと赤十字病院に専門の医師がいます」
その後何日家にいたかは記憶が曖昧だ。
ともあれ数日のち、僕は再び友達に連れられて桜木町へと赴いていた。
駅前からタクシーでみなと赤十字病院へ。
会ってくれた♂N医師は30分以上かけて問診し、僕の知能レベルと歩行障害のレベルを測定した。
再びCTスキャンとレントゲン。最近はこうした機器も電子化されているため、結果はすぐに医者のモニターに送られる。
「水頭症ですね」
医者は僕に告げた。
「治療すれば、おそらくは元のレベルに戻ります。病室は確保しました。今日から入院してください」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます