借金苦の男(承-2)

「なーにが損させないだ。なーにがこの後借金取りに襲われるだ! そんなのアイツの戯言だろ、所詮はさ!」


 そうぶつくさ文句を言いながらもちゃっかり彼から渡されたインスタントカメラは持ってきた。

 某日、深夜二時。

 結局あの後、尋常じゃない(距離の)詰められ方をされ半ば押し切られるような形でインスタントカメラだけ貰って帰って来たのだ。


『じゃあお試しだけでもやるってことで良いな? な!』

『はいはい分かった! 分かったから! 近ぇっての!』

『やぁりー! ありやーす!』

『テンションいきなり変わり過ぎだろ』

『ニシシ。やっとこ契約取れそうだからね』

『契約はしねぇよ! お試しだけ! 一回だけ!』

『ほいほい分かったよ、一回だけ、な!』


 ま。コイツとのお約束なんざやるつもりは微塵もない。

 この後どこかの質屋で売って金にでもしてやろうと思っている。



「それにしてもなぁ」

 そうして貰って来た、どこからどう見てもごく普通のインスタントカメラ。利点としてはエモい写真が直ぐに現像できることぐらいだろうか。

「これが何になるんだよ」

 試しに直ぐ近くの公園の遊具を撮ってみたが、ちょっと不気味なブランコの写真がカメラから吐き出されただけで何にも起きない。

 これも試しとボタンをガチャガチャ押してみたが何にも起きない。

「あれ。アイツ何て言ってたんだっけ……」


 確か……




『お前さんは自分を付け狙う奴らの情報をこちらに渡す』


『俺はお前さんに死をもたらす奴らの”運命”とお前さんの”運命”とを瞬間的に交換し、命を刈り取る』


『そうして頂いた莫大な対価を二人で山分け』




「ああそっか。借金取りの情報を渡せば良いんだったっけ」

 自分を付け狙う奴らの情報を渡す……。


 待てよ、どうやって?


 このカメラはそういう事のために渡されたってことか?

 ――だけどそれこそどういう理由で?

 ――これで写真撮ったところで何になる?

 あんな怪しいカミサマとの契約なんてやんないと心に決めた筈なのに一度気になりだしたら止まんなくなってしまった。

 詳しい使い方もろくに聞かず上の空でいたのを今更後悔しだしても遅い。

 ――瞬間的に運命を交換? どうやって。

 ――それをしたらどうやって俺の望むものが手に入る?

 そもそも本当に対価は貰えるのだろうか。

 ネズミ講とかそういうのなんじゃないだろうか? もしかして。


 そんなことを考えていたら、気が付かなかった。




 




「真逆こんな所で会うなんてねェ」


「ね。杉田




 突如スポットライトのように背後からあつくライトが照らされる。

 逆光の中、ニタニタ笑う黒服の男たち。


 背中を怖気がはしり抜け、冷や汗が額を伝った。


 * * *




 その時俺は何をしたのか。正直覚えていない。




 怖いスーツの男ら数人がドカドカとワゴンから降りてきてすごい怖いことを言っていたのだけは何となく覚えている。

 笑顔がただただ気持ち悪いお兄さんと、ずっと野獣みたいな怖い雰囲気のオッサン達が数名。

 金返せとか、付いてこいとか。そんな感じのことを言ったのではなかったっけ。

 そこら辺にある物とかどっかんどっかん蹴り飛ばして威嚇して、金属バットとかちょっと振り回してみたりして。

 中には拳銃っぽいやつ持ってるのもいた。


 でも。

 それよりも。唯それよりも。

 

 その事実が何よりも恐ろしかった。




『アンタさんの借金、膨らみに膨らみ過ぎたみたい。裏社会の人がドッキリで家まで迎えに来る。――アンタさんのお嫁さんを』


『モチのロンロン人質さ。アンタさんと交換。アンタさんが取引の場所に来るまでお嫁さんは酷い目に遭うだろうな』


『だが安心しな。その前にお前さんは歩いてるところを見つかるんだ』


『油断したお前さんはそのまま黒塗りの高級車――もといワゴン車の中に押し込まれ、楽しい楽しい地獄へのドライブが始まるってこった。マグロの漁船か、穴掘りか、はたまたT京湾の底の底か……』




 蘇る彼の言葉。

 一言一句狂いなく起こった目の前の出来事。




 とすればこれから起こることは唯一つ。













『今夜お前、死ぬよ』













 本物だ!!!




 死んじゃう。死んじゃう。

 死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃうぞ!

 このままだと絶対に死んじゃう!! 本当に今日で死んでしまう!!

 こんなことになるのならやっぱりパチなんてはじめっからやらなきゃ良かったんだ!! こんなダッセェ死に方するぐらいだったら友達の誘いになんざ乗らずに両親の言うこと黙って聞いて敷かれたレールの通りに進んでいれば良かったんだ……。

 幸せだったんだ!

 っていうかアイツと話した時点で多分アウトだったよな? だって死神なんだもんな? 殺すのが目的なんだもんな!?

 な!?

 おいおいおいアイツのせいで人生ぺしゃんこ台無しダイナソーだよぉ!! どうしてくれんだよぉ、俺の人生をよぉ!!

 涙目でおいおい後悔するが時すでに遅し。

 もう目の前の現実なぞ変えることは出来ない。

 運命なんて俺らちっぽけな人間にはどうすることも出来ないんだ。

 そんな猛省をしている内に相手も痺れを切らしたのだろうか。突然、物凄い迫力で迫ってきて今度は途端、全部の思考が一気に吹き飛んでしまった。

 怖くて怖くて何にも出来ない、大の男が情けない。

 過呼吸に陥りながら腰を抜かして「カンベンッ! カンベンッ!!」なんてじりじり後退じさりするほか能がない。


 駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ! このままでは駄目だ!


「誰かっ、お、お、お助けェ!!」

「テメェ舐めくさっとんのか!! 良いから車乗れェ!!」

「ヒィッ!! ややっ、嫌ですゥ!」

「何が嫌じゃボゲが!!」

「ぐぁばっ」

 腹を思いっ切り蹴られた。

 バランスが一気に崩れて膝からふらふらぐらりと崩れ落ちる。

「ゆ、許して。許して許して許して、許して……勘弁してください……」

「あんなぁ。ごめんで済んだら警察はいらんのじゃァ」

 ドスのきいた怖い声に腰が完璧抜けてしまって遂には地べたを尻ついて後ろにちょっとずつ下がるしかできなくなってしまった。まるで赤子の体である。

 頭はパニックで真っ白、まるで耳に綿でも詰められたかのように全然相手の話が入ってこない。更にはどんどん蹴られたり殴られたりで心臓はバグバグ鳴ってるし、血液はドグンドグンいってるし、口ん中鉄の味するし、怖い怖いの二文字しかもう考えられないし、混乱してるし、何か意識も朦朧としてきているし。




 ――あれ、これマジで死ぬ?




 嗚呼もうヤダッ、もう本当に嫌になった! こんな人生本当に嫌んなった!!

 だからお願い、出来るならばこのまま見逃して欲しい……。

 代償を払いさえすれば何とかなるなら何にだって従うし、何だって差し出すし、何も起こらず何も苦しまず何も……喜びさえも本当に何にもいらないから唯々平平凡凡に、平和に息をさせて欲しい。

 だが、そんなお願いも虚しく相手は更にどんどん迫ってくる。


 詰められに詰められて、遂には胸倉を掴まれて。

 相手が堅い拳を握り込んだところで――









「……!!」









 恐ろしさのあまりギュッと目を瞑ったその先で。

 ふと、バチッと閃光が如くのまたたきが眼前を覆った。




 同時に、顔に水しぶきのようなものがバチバチッと飛んできた。


 * * *


 それは突如。

 混乱と静寂とを一緒に連れて来た。


 水しぶきと思ったらそれは直後滝のようにじゃばじゃばと降って来た。

 何だかぬるぬるしているし、生温かいし鉄臭い。

「げほっげほっ、ハアハア」

「これで良いか? パチンカス」

「え?」

 ふと頭上から聞こえて来た声に顔を向けると――




 ――凄い形相で黒服の男。




「うわあああああああああああああっ!!」




 逆流のように一気にさっき食べた唐揚げが込み上げてきた!


「あははっ! ほらみろ寿命が三秒ほど伸びたぞ!」

 多分即死であろうその男に突き刺している大型ナイフの柄をわざわざ自分の方へ傾けて更に傷を深くしてから引き抜く

 終始いやな音をさせてまるで物のように崩れ落ち、どゴン! と凄い音をさせてソイツは倒れた。引き抜かれた瞬間もあり得ない吹き出し方をし、更にはどくどくと瓶からこぼれた酒のように流れだす血液。

 いつの間にこんな……! こんな事!!


 助けてとは言ったけど……!!


「良いじゃねぇか。アイツら放っときゃァお前がこうなってる予定だったんだからさ、元々」

 色んな恐怖に押しつぶされそうな俺の顎を掌で強引に押し上げ、自分を見るように促す死神。

「な?」

 黄色い虹彩に黒い瞳孔の「鷲の瞳」が毒々しく俺を貫く。

 そんな眩しい笑顔にべったりとした赫なんて付けてんじゃねぇ、殺人鬼。

「何だテメェはァ!!」

 後ろから武器を手に取った黒服が一人、ギャアギャア騒ぐ。

「いい加減にしねぇとぶっ殺――」


 グシャア!!


 とんでもない重さであろう巨大な戦斧がぶっ飛び、あっという間に相手の頭目掛けて――これ以上はもう見れない……!

「仔犬みてぇで可愛いな、アイツ。五月蠅くて」

「や、やめろよ、それ以上は!」

「何で? じゃあ死ねば?」

「そ、そうじゃなくて! いくら何でもやり過ぎだ!!」

「……?」

「首傾げてんじゃねぇ!! だからお前とは組みたくねぇって言ったんだよ!! 人殺しの手伝いなんかしたくないって言ったんだ! お願いだから人としてまともに生活できる所に留まらせてくれよ。俺は人の命を奪ってまで――!」

 その瞬間、死神の硬く大きな掌が俺の口を塞ぐ。


「おい説明したよな? 死神は『殺し屋』じゃねぇ。『運び屋』だ」


シナリオ運命に従って指示された命を刈り取り、冥界に運んで次の命へとサイクルを回す。言ったよな?」

「そ、そうだけど……」

「だから信じらんないかもしれないけど、俺だって命令にない殺しは出来ないよ? 指示の外にあることは絶対しないさ。じゃないと死神の幹部なんか出来っこないだろ? そもそもとしてさ」

「……」

「あくまでも”仕事”なわけ。分かる?」

「……」

「そのうえでさっきお前はそのカメラでさっきの二人を殺せって俺に指示を出した。――お試しとはいえ命令は絶対だ」

 その途端――多分無意識下では気付いていたんだろうが――さっきの強烈な閃光はインスタントカメラのフラッシュだったのだと気が付いた。


「俺の意志で殺したんじゃない」


「良いか? お前が死ぬ筈だったところをコイツらが代わりに死んだんだ。お前が生きながらえたいと、生きたいと願い、叶ったんだ」


「運命のいたずらとはいえ、偶然とはいえ、そのカメラは嘘なんかつかない」


「お前が生きたくて、それにカメラが応えたんだ。今自分に危害を加えてくる悪い奴を倒してくれって。その強い思いと祈りに契約が応えたんだ」









「どうだい、自分で運命をひっくり返したご感想は」









 自分で、運命を――?


 途端ぞわぞわと何かが頭を駆け巡る。

 それが自分を思い切り解き放ったような感覚に襲われた。


 今まで自分を抑圧してきた家、自分を縛り付けて来た制度・社会、自分を捕まえて離さなかった運命。


 それを自分は今この瞬間、打ち砕いたのだ。

 そしてそれはあの時、嫌な奴の鼻づらに五寸釘をぶっ刺してやったあの夜からじわりじわりと始まっていたのだ。


 自分はもう二度も……!






 この手で……この手で!!






 震える手が物は試しと、カメラをゆっくり構える。

 死神はそれを静かに笑みながら見ていた。




「次は誰を殺せば良い?」




 フラッシュの光が次の五人を捉えた。

 死神の体が揺らぐ陽炎のようにふらりと動き、直後跳躍。


 鮮血が飛んできたワゴンのカーラジオからパーソナリティのわくわくした声が耳に届いてきた。


『それではちょっとここで曲を流していきましょう』


『ラジオネーム……ファートムさんのリクエストで』


『米津玄師、“KICK BACK”』


 * * *


 あの時の俺達は本当にバディのようで、少年漫画を読んでいるみたいなわくわく感と爽快感と多幸感。それとは対照的な血腥さとむわっとした厭な熱気、厭な音がその場を包み込んだ。

 今の俺の目に映る景色は丁寧にペン入れされ、皆に夢と感動を与える漫画が如しだった。俺はその瞬間、真の意味でヒーローになったのだ。


「何なんだコイツは!」

 言った瞬間にはカメラのフィルムに収められ、その直後斜め上から降って来た死神のナイフに首の付け根を刺し貫かれている。

 オートマチックの拳銃が乾いた音をパンパンと放ってもその銃弾は彼に当たりやしない。右に左にと顔を大きく動かし避けたと思えば拳銃ごと掴んで思い切り捻って指の骨を折り、痛みに悶絶している隙に掌底で顎を思い切り上に突いた。バランスが崩れ、体勢を立て直そうとすればその最中に一気に喉をかき切られる。

 全ての動きが鮮やかだ。

 見ていて思わず惚れてしまいそうになる。

「ボサッとすんなパチンカス!」

「どわぁ!」

 と、どこからともなく降って来た血塗れの死神が俺を小脇に抱えて飛び上がる。

 その直後には自分のいた所がマシンガンによってハチの巣にされていた。

 死神はこんな大の大人を抱えてもなおその速度を緩めない。

 およそ人間が走ることは想定されていないであろう所を軽業師のように走り、およそ人間が着地することは想定されていないであろう所をどんどん乗り継いでいく。

「アイツらはどーすんの! パチンカス!」

「何が!」

「アイツらに関しては指示受けてないんだけど!」

「そうだったっけ!」

「俺は仕事しかしないって言ってるだろ、いい加減学習しろ!」

「モチロン殺っちゃって!」

「じゃあ指示を出せ、パチンカス!」

 高速で敵の周りをぐるぐる移動しながら攻撃の指示を待つ死神――の小脇に抱えられながらカメラを構えなくてはならない一般人。非常に酔いそうです。

 でもこれで敵が全滅するならば――。

 その「もう少し」という感じが更に自分の気持ちをたかぶらせた。

 集中して構えて、出来るだけ一発でそいつらが収まるように神経をとがらせる。


「撮るぞ!」

「オーケー!」


 と、どこからともなく出したデカくてゴツイ拳銃。

 それは――。

「マグナム!?」

「デザートイーグルぅ!」


 フラッシュがたかれた瞬間ワゴン車に向けてぱっと構え、ガソリンタンクに何発も撃ち込んだ。

「これで任務っ――」

「どわわっ」

 言いながら俺を小脇に抱え直し、今度は高速で空をかっ飛んで行く。




「完了っ!!」




 その後。

 110番通報と119番通報がその地域の警察署、消防署に殺到した。


 大きな爆発が○×公園近くで起こり、車が燃えているようだ、と。






「うわああああああああああああっ!?」


 ……消火活動中、死屍累々が大量に積み重なっているのを消防士が発見してしまうのはもう少し後のお話である。


 * * *


「こっちだよ」


 内緒だぞ、なんて言いながら血塗れの男は同じく血塗れの死神をこっそり非常階段へと呼び寄せる。

 最近ここを上っていなかったのと、先程までの激しい戦いとで息が上がった。

 ちょっと額を拭えばまだ乾ききらない甘い血液が手の甲にべったりと付く。


 でももう、怖くない。

 それに嬉しかった。また、こうやって想い出をなぞれるのが。


「こんな生活になる前はさ、友子とよくこの非常階段上ってさ。よく屋上に行ってたよ」

「あれ。ここの屋上って立ち入り禁止なんじゃなかったっけ」

「ほら。俺、手先が結構器用だからさ」

 ジャラリとヘアピンなどの”そういう道具”を自慢げに死神に見せる杉田。

「……このパチンカスが」

「殺人カスには言われたくないね」

「だから!」

「はいはい! 運び屋ねー」

 最上階、屋上まで辿り着いた彼は慣れた手つきで鍵をこじ開け、屋上への扉を開けた。




 その瞬間差し込んでくる柔らかな光線。

 それまで寒々としていた夜の闇を照らし、涼やかでひんやりとした朝の空気を透明に、優しく温めていくおひさま。

 きっと天使が舞い降りたならこんな光景だろうと、彼はいつも思っていた。

 その天使は勿論彼女のことだとも思っていた。


 杉田友子。

 彼がこの人生で一番愛した女性の名前。




「……綺麗だな」

「だろ? 久し振りに見たけど、やっぱり好きだな」

 後ろから静かに歩いてきた死神が柵にもたれかかっている杉田に向かってぽつりと呟いた。

 彼は理科教師。専門は地学だ。

 星も地球も化石も鉱石も何でも好きだったが、その中でもひとつ、この旭日きょくじつが特に好きだった。

 自分の大好きな、大切な妻に見せるために毎日、日の出の時間を計算した時もあったものだ。

 借金取りに追われるようになってからは心の余裕がなくなってしまって、この屋上での朝のルーティーンもすっかり忘れてしまっていた。

 まだまだ冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、しっかりと吐き出す。


 嗚呼。静かだ。


 と、ふとその視線の先。かなり遠くの方で赤いランプがちらちら光っている気がする。遠くの公園一つをめがけて大量のランプがどんどん集まってきていた。

「……あれ、どうなったかな」

「今頃大騒ぎだろ。あれだけ凄いことになってりゃ」

「だな」

「……」

「……」

 会話が続かない。

 ひたすら続く静寂に紛れるようにKing Gnuの『逆夢』が聞こえる気がする。

 映画でも見終わったか、朝の仕事のお供か。そんなことをぼんやり死神は考えた。血液でカピカピに固まったその長髪を風が柔らかく撫でていく。




「……何で、かな」




 沈黙にそろそろ耐えられなくなり、煙管でも出そうかと考え始めたところで杉田がぽつ、と呟いた。

 真っ赤な顔がくしゃ、とティッシュのように歪む。






「何で、






「……」

「やっぱ、俺のせい、かな」

「……」

 マッチを擦った。煙管の先から煙が細く上る。天へ、魂のように。

「知らねーよ。そこら辺の解釈はお前次第なんじゃねーの?」

「……」

「ま、気に病みすぎるなよ」


 友子は帰ってきた時にはまだ息があった。

 なのに、なのに。


 ……彼女は殺されたのだ。

 それがまだ受け止められずにいる。

 泣くのはきっと簡単だ。

 でも涙が何故か出せない。今にも防波堤を乗り越えてきそうな程溢れているというのに。


 多分。何かをしないといけないんだと思う。強く追い立てられているんだと思う。


「……、……確か言ってたよな? お前」

「ん?」

「俺の望む対価を与えるって」

「言ったよ」

「金と寿命だっけ?」

「ま、お前の望む物の中で俺が与えられるのはそれ位しかねぇからな」

「……そっか」




 ……、……。




「なぁ死神」

「シュウで良いよ。斧繡鬼ふしゅうきのシュウ」

「じゃあ、シュウ」


「俺、生きようと思う」


「友子の分まで。悪い奴ら倒して、生まれ変わって」


「全部精算して。そして彼女に会いに行くよ」

「勝手にすれば」



 出かかった涙を拭って、いつの間にかあれだけの血が乾いていたのを知って驚いた。

 あまりに過ぎるのがはやい。

 すべて、すべて。


 もう戻れない。


 ……、……。


「行こう」

 まだ煙草を楽しむ死神に一声かけて非常階段の方へと向かっていく。


 美しいヴァイオリンの音を遠くで聞きながら彼はスマホを起動した。




「もしもし、警察ですか」


「妻が殺されました」




(つづく)

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二つの中編集:『死神』 星 太一 @dehim-fake

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