借金苦の男(承)

 ――某日。明治街 カラオケボックス


「あに!? やっぱりこの話は無しにしたいだぁ!?」

「……」


 酷く驚いた様子の死神と、俯く理科教師。

 長机の上に置かれた酒の入ったグラス。汗をかいたその体の中で氷がカラン、と音を立てた。


 * * *


 時間は少し前にさかのぼる。

 あんなことのあった翌日、夜のカラオケボックスで上機嫌に歌を歌って待っていた死神のもとに昨日のあの男が入って来た。

「おお来たか! 待ってたぞ!」

「……」

「ちゃんと言った通りに血糊も洗ったみたいだな! 感心感心! ホラそこ座れよ。洗い流すの大変だったろう? 結構浴びてたもんなぁ、お前。イヒヒヒ」

「あ、あ、ええ、まあ。――あ、で、それでなんですけども」

「待った。みなまで言うな、はやるんじゃない。対価は勿論渡すさ、今後の契約についても話すしこれからの生活についてもちゃんと話し合うよ。でもさでもさ、それよりさ。折角カラオケを待ち合わせ場所に指定したんだからさ! まずは何か歌おうぜ! 何が良い。俺はちょっとリクエスト曲があるんだけども」

「は、はあ」

「まあまあ良いからそこ座れってばさ、ホラ。何飲みたい?」

「え、ああ、ええと」

 妙にそわそわしている理科教師と相対して死神はなんともご機嫌だった。

 すぐにメニューとマイクを差し出して「取り敢えず生で良いか? それともハイボールが良い? あ、で、歌いたい曲なんだけどさ」なんてドンドン喋る。

 更には摂取したアルコールが潤滑油となって杉田に全く喋らせてくれない。よくよくメンテナンスされた歯車を子どもが調子に乗ってドンドン回すみたいに舌がドンドン回る回る。

「あのさ、俺さ、商談に入る前にお前と歌いたい曲があんのよー! っていうのも、この曲が何ともお前らしいっていうかなんというか……King Gnuの『千両役者』って曲なんだけどね?」

「あ、あの……」

「地味ーにデュエット曲になってんのよね、コレ。やっぱさ、これからの相棒とちょっとでも仲良くなっておきたいじゃない? だからこのなんとなーくな難曲をさ、攻略することによってだなぁ! ――ハハハ何言ってんだ俺」


「あ、あの!」


 死神の腕に唐突にかけられた左手に、タッチパネルを操作する長い食指が一瞬止まった。

 ちょっと驚いた様子の鷲の瞳がきょろりと声を発した髭の方を向く。


「や、やっぱり……やっぱり、俺――」












「あに!? やっぱりこの話は無しにしたいだぁ!?」




 そうして、”ふりだしに戻る”。


 * * *


「ふーん。怖くなったんだ?」

「……」


 爪の間にはまった汚れを掻き出してはフッと吹く。そんな神様をモジモジしながら見るしかなかった。

 さっきまでの楽し気な酔っぱらった雰囲気が嘘のようだ。葬式の時間を勘違いして二時間遅刻してしまった親族みたいな微妙ないたたまれなさがある。

 言い訳はいっぱい考えてきたが、要するにそういう事なのである。

 流されるがままだったとはいえ契約まがいをしてしまった昨晩。やっと冷静になったのは次の日の朝、起きて己が掌を見てからだった。


 あの真っ赤っかを見たら流石にギョッとする。すぐに昨晩何があったかを思い出し、洗面所に飛び込んだら顔面も髪も服も何もかもがえらいことになっていた。


 疲れた様子の妻がまだ起きていなかったのだけが本当に奇跡だった。


「やっぱりさ。自分の生活のためとはいえ、人に代わりに死んでもらうなんて……教師とか以前に人間としてどうなんだって思って」

「ふーん」

 全然こっち見ない。声が凄い冷たい。

 汗かいてびしょ濡れのコップあおって、酒がぐびぐび喉仏を上下させる。

 こっちはこっちでどんどん冷や汗が垂れてくる。手を意味もなくグーパーさせた。

「じゃあ俺との契約はもうどうでも良いんだ」

「い、いや、そういう訳じゃなくってさ」

「へー、お前はそういう奴なんだ。体の相性とかそういうのも全然知らないうちからやっぱ嫌ですとか言って恋人振ったりするんだ、そういう奴なんだ」

「そ、そうとは言ってないだろ!? 何言い出してんだ、急に!」

「だってそうだろうが! 昨日の今日で意見が真反対になるとかマジありえねー! 失礼にも程があるってもんなんじゃねぇの!? こっちは重てぇ商売道具フルセットで持ってきてんだぞ? なあ!」

「だ、だから! 昨日は気が動転してたっていうか、なんていうか!」

「俺は超真剣だったんですけど!?」

「いや、その、だから、だから――話聞いてくれよ!」

「何とでも言ってろよ! 俺はもう知らねぇから! ふんだ!!」

「あ、あの、だから!!」

「ぷんだ!!」

 これは……取り付く島もない……。


 更に気まずい沈黙が流れる。




 地獄のような空気の中運ばれてきていたストレートティーは大分水っぽい味だった。




 ……。

 ……、……。




「お代はおめーが払っとけよ」

「……」

 ドカドカ音楽や宣伝が流れる中、楽し気な雰囲気とは対照的に静かに言う髭。

「兎に角、もうこの話はナシだから。あーあ、無駄足踏んだ。こんな使えねぇ奴、最初から声かけなきゃ良かったや」

「……」

 最悪だ。

 視界の外で「じゃあな」という声と共に紺のカーペットを踏む足音がぐ、ぐ、と聞こえる。それと同時に目頭がじわじわ熱くなった。しぱしぱとまばたきをすれば雫がぽたぽた、夜空色の視界に吸い込まれていく。

 無音の中に取り込まれていくような感覚が全身を支配して、自分の思考で全身がいっぱいになっていく。

 いや、いやいや。何に悔しがってんだ。悲しがってんだ。

 間違っちゃいない筈だろ? だって人として間違ってる。自分の代わりに嫌な奴の命を奪って、その代わりに莫大な対価を、なんて。それを受け取るための場所がカラオケボックスとか。その時点でなんていうかイカれてるんだよ。

 なのに、なのに……。

 何泣いてんだ、何泣いてんだよ。


 男の癖に、長男坊の癖に。



 杉田家の人間の癖に……。



「もう……もう、どうすりゃいいか分かんなかったんだよ……」


「知らねぇよ」

 ようやく絞り出したこの声に彼は冷たくそう言った。

 でも一度口をついて出た言葉はもう元には戻せない。

 それは気持ちもおんなじみたいだった。

「初めて触れたのは友達に誘われてだった。最初はすぐやめるつもりだったし、何なら一生触れないつもりだった。それだけ大学の勉強は忙しかったし、難しかったかったし、何よりパチンコとかギャンブルは悪い物だって思ってたからさ」

「……忙しいって訳はないだろう」

「自分で忙しくしてたんだよ。無理にスケジュールを埋めたさ。遊びを何かするって頭も無かったし、合コンもスナックも歓楽街のことも何にも知らなかった」


 そう、何にも知らなかった。

 何にも知らないで大人になってしまった。


『何!? O坂に行きたいだって!? 勉強もしないで?』

『あなた、自分の現状が分かってんの!? 遊んでる暇なんて無いでしょう!』

『聞きましたよ、先生に。お前前回のテストの成績悪かったらしいじゃない』

『でも五番じゃありません! 五番は五番、私は一番の話をしているんです!』

『はぁ。杉田家の長男ともあろう貴方が、ああ恥ずかしい』

『ねえ? 何故一番になれないの! お父さんはもっと努力していましたよ』

『私だって、お前を優秀な学校に入れるためにこんなに努力した』

『夜も寝ないで働いて、お前をその学校に入れるためだけに……』


『恩恵をこんなに受けた子どもであるお前が何故努力しない! 周りの人間のおかげで今のお前があるというのに、それを平気で踏みにじる!』


『ああ、恥ずかしい! 周りにいる家族の恥を考えてごらんよ! 何故大人になったのにまだ出来ないの!』


『もっと努力しろ、お前は悔しくないのか!』


『頑張れば生活が楽になるんですよ!!』


『ちょっとは自分の弟妹たちを見習いなさい!』


 ……。

「優等生になるために忙しかった」

「疲れるな、そんな人生」

「自分もそうやって思ってたんだろうなって、今なら思うよ」

 そこまで言ってちょっと笑う。

「……ま。今更だろうけどな。こんな田舎教師」

「……」

「分かるだろ? 死神さんなら。ここにいるってことはさ。な?」

「……パチンカスが。さっさと死にゃあ良いのに」

「やっぱやめられねぇ! バレてねぇのが奇跡だわ!」

「バレてねぇのか!? ガチで!?」

「そうなんだよ、すごくね!? 嫁さんにもなんだかんだバレてないし、両親のお財布もあんなに入ってんだからさ。ちょっとぐらいならバレやしないの!」

「やっぱお前クズだな」

「アンタにだけは言われたくないねー! それに嫁さんの財布には手ェ出してないんだからそこまでクズではないですー」

「そういう問題じゃねぇだろ」

「そこにも手を出すか出さないか。そこだけなんだけどね、そこがえらい違いになるんだよ!」

「……俺はこんな野郎に『人として道外したくない』って泣かれたのか?」

「違うの。俺はこうでもしないともう、人としての形を保っていられないの。それに大当たりした日にはちゃんと高級料理店に連れてってあげてるんだよ?」

「……」

「だって俺、一応ですから!」

 ドヤッと胸を叩いた俺に呆れた顔で「はあ」と溜息をつく死神。

 胸の中から空気全部絞り出す勢いで肩をすくめていた。

 そんなにか?

「じゃあその優等生さんに残念なお知らせですー」

「えぇ? もう何でもいいよ吹っ切れた。何でも言っておくれ」

「そう? まあ、本当は契約に応じてくれた時に言う予定だったヤツなんだけどね」

「ええ? 良いのかい? そんな情報もらっちってー」

「うん。……何か気が変わってさ」


 そこまで言ってピッとこちらにその細長い食指を銃口のように向けて来た。




「今夜お前、死ぬよ」




 * * *


 ――え?


「えええええええっ!? どどどどどどーゆーこと!?」

「文字通りだよ。お前は実は今夜死ぬ予定なの」

「その未来は昨日回避したんじゃなかったっけ?」

「あ? まだ契約もしてねぇのにどうしてそんな都合よく回避できたと思ってんだバーカ。頭お花畑かよ」

 そこまで言って「あ、だからか」なんて手をハタと打ちやがる。

 じょじょっ、冗談じゃない!

「そ、そんな嘘ごたく並べ立てたって、そ、そうはいかないぞ!」

「嘘なもんか。――おい小僧、良いか? 言ったと思うけどな、死神は『殺し屋』じゃねぇんだ、『運び屋』なんだ。雲の上のおかみの指示に従って命を体から切り離し、冥界に運んで次の命へのサイクルを回す。やってることはいわばゴミ収集車ってわけ! 分かる?」

「……」

「残念だけどお前さんは未だ”死”の運命から免れ切れていない。お前さんから伸びる”糸”を全部断ち切らないとお前さんは完全に安全にはなれない」

……?」

「ご覧」

 そう言って彼は俺の手を取り、唐突にその掌を持ってた紙で傷つけた。

 硬く薄い紙は時に人の肌を切る。

「ッ!!」

「堪えろ。それは運命の書のページの切れ端」

「きれ、は?」

「運命の書。お前さんの人生を握る本の紙。ソイツがお前さんの因縁を全部視せてくれる」

 そうして彼は俺の手を恐ろしく強く握った。

 途端、熱く迸る痛みと共に血が爆ぜるように飛び出て蜘蛛の巣のように張り巡らされた。


「これが、全部?」

「お前さんの命を狙ってる」


 敢えてもう一度言おう。自分を中心に赤い運命の糸自分の血液が蜘蛛の巣状に張り巡らされているのである。




「もうね、人の道がどうとかナントカ言ってる場合じゃないんだよ、ぶっちゃけ」




 糸がガタガタ震えだす。




「分かったでしょ? もういい加減」




 予想外のイベントの連続に体が異常な反応を見せ始めたらしい。体の震えが抑えようとしても止まらなくなってしまった。

「アンタさんの借金、膨らみに膨らみ過ぎたみたい。裏社会の人がドッキリで家まで迎えに来る。――アンタさんのお嫁さんを」

「ハア!?」

「モチのロンロン人質さ。アンタさんと交換。アンタさんが取引の場所に来るまでお嫁さんは酷い目に遭うだろうな」

「そんなの困る!」

「ま、お前さんは色んな意味で困るだろうな」

「勿論!」

「だが安心しな。その前にお前さんは歩いてるところを見つかるんだ」

 どこをどう安心せよと……。

「油断したお前さんはそのまま黒塗りの高級車――もといワゴン車の中に押し込まれ、楽しい楽しい地獄へのドライブが始まるってこった。マグロの漁船か、穴掘りか、はたまたT京湾の底の底か……」

 だからそれに対してどう安心せよと!

 思わず叫び出したくなったのを彼がその広い掌でぱっと抑えた。




「でも大丈夫」


「契約さえすりゃあ、俺が全部殺してあげるから」




 どくん。

 今度は大動脈が震えた。




「これも言ったよな? 死すに相応しい奴の元にも行くってさ!」

 ばさっと立ち上がり彼は演説でもするように朗々と話し出した。


「お前さんは常に死の危機に晒され、それを辛くも突破したとしても今度は常に家族との確執に悩まされる」


「それが拇印一本ぽんと押すだけで回避できるってんだから安い買い物だと思うよ」


「オイ良いか? 人生ってのはゲームじゃねぇんだ。お前の命を生きられるのは今一度きり。それを常に苦しみながら生きられるか? 最大の危機を超えたとしても、お次には死ぬより辛いイベントが目白押し。何のために助かったのか、まるで分からないじゃないか!」


「……良いか? 俺は何もお前さんから根こそぎ奪おうって訳じゃねえ。騙そうって訳でもねぇ。ただ、お前さんが持ってるいわば”ブラックリスト”が死神の仕事的に美味しいから交渉を持ちかけてるんだ」


「ただの商売のお話だよ」


「お前さんは自分を付け狙う奴らの情報をこちらに渡す」


「俺はお前さんに死をもたらす奴らの”運命”とお前さんの”運命”とを瞬間的に交換し、命を刈り取る」


「そうして頂いた莫大な対価を二人で山分け」


「……勿論、お前さんにとって最上のご褒美を用意しよう」




「長生き」




「金」




「この二つを保証してやる」




「さあどうだ」




「ほら」






「どうする? まだ怖いならちょっとお試しで今日一日だけ生き延びてみれば良いじゃないか」






「それならどうだ? ホラホラホラ」






「……そんな迷うこたぁ無いと思うけど」






(つづく)


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