第37話 禁軍将軍冬籟への襲撃(二)
「よ……せ……。俺は麻酔など要らない……」
「無茶言わないで下さい。これからこのぐしゃぐしゃの傷を強い酒で洗って中の臓器を針で縫うんですよ? 麻酔なしで耐えられるわけがない!」
「俺には……けして……口に出してはならない言葉がある……。麻酔にかかると……心の奥底を……喋ってしまうんだろ……?」
「そんなこと言っている場合ですか!」
「役者……俺たちの人生もいわば芝居だ……台本にない台詞を吐くと舞台が台無しになる」
「……」
冬籟が苦しい息の中から璋伶に視線を送る。それだけで璋伶も察するところがあったらしい。
「押し問答をしている時間はありません。私はとにかくすべきことをします。白蘭嬢、厨房の棚の右端から瓶子を取ってきて下さい。栓を抜けば酒精の匂いがプンプンしますからすぐ分かります。私に渡したら、次は奥の部屋から裁縫用の手箱を持って来ていただきたい。あ、針を灯火であぶっておくようお願いします」
白蘭は飛ぶようにして酒の瓶子を厨房から取って来ると、次は針と糸を取りに奥の部屋に向かった。
その白蘭の背後から、「うぐうっ」と男の野太い、うめき声というより叫びに近い声が聞こえてくる。璋伶が「言わんこっちゃない。冬籟様、麻酔を使わせて下さい!」と怒鳴るが冬籟は了承しないらしい。
白蘭はとにかく針と糸を見つけ出して手に取った。その間も、傷口を酒で洗われている冬籟のうなり声は止まない。
白蘭が部屋に戻ると、冬籟の口には声を押し殺すためか布の塊がつめ込まれていた。ここに来たときより顔色はいっそう酷く白蝋のようだ。まるで死体であるかのような……。
璋伶が受け取った針に手早く糸を通すと冬籟の傷口にその指先を差し入れる。白蘭は自分の震える身体を抱きしめながら、冬籟の寝台の足元で見守ることしかできない。
璋伶が手先を動かすたびに「ぐうっ……」「……つっ」と冬籟の顔が大きく歪む。
「冬籟様、麻酔をかけさせてください! いくらその強い意志で押さえつけようにも体の中の臓器まで意のままにはできません。さっきから縫いにくいったら下さしない!」
「い……やだ……」
「強情を言わないで下さい! 早く縫い上げないと失血死してしまいますよ!」
死という言葉が白蘭の耳を強く打った。
「い、嫌です、冬籟様……」
白蘭だって自分が取り乱している場合じゃないと分かっている。だが、泣きわめいてしまうのをもうおさえることができない。白蘭は冬籟の足元に取りすがった。
「お願い! 冬籟様! 死なないで!」
「白蘭嬢」
「いや、いやあ、いやああああっーーー」
璋伶が「死なないでぇ」と狂ったように叫ぶ白蘭を指して、冬籟に怒鳴った。
「白蘭嬢をご覧なさい! 見てる彼女の方だって限界です! 彼女につらい思いをさせたくないでしょう!」
「だが……俺には決してしゃべっちゃならんことが……」
璋伶がドンっと足をふみ鳴らした。いつも飄々としている彼が本気で苛立っている。
「何事も命あっての物種です。ここで冬籟様が何を口にしようと、それは麻酔のせい。私も白蘭嬢も何も聞かなかったことにします」
璋伶は白蘭にも厳しい声を出した。
「白蘭嬢もそれでいいですね?」
白蘭はこくこくと首を縦に振る。
「何も聞かない……。聞かなかった……。私は一生そう言います! 誓います!」
冬籟は黙って白蘭を見た。苦しく切なげな視線だった。それが身体の痛みによるのか、他の理由なのかは分からない。
「わかっ……た。医者、好きにしろ……」
「いいでしょう。その代わり、私がきっちり治して差し上げますからね!」
璋伶が白蘭に「大丈夫ですよ、白蘭嬢」とふりむいて笑みをよこしたのを見て、白蘭の全身から力が抜け、その場にへなへなと崩れ落ちた。
呆けたように白蘭が見つめる先で、璋伶が冬籟に薬湯を飲ませた。冬籟の呼吸が一息二息とおさまっていく。しんと静まり返った部屋の中で璋伶が黙々と手先を動かし始めた。
「終わりましたよ」
璋伶が冬籟の寝台から一歩離れて額の汗をぬぐう。白蘭は彼に代わるようにして冬籟の枕許にしゃがみ、「冬籟様! 冬籟様!」と仰向けに寝かされた彼の顔を覗き込んだ。
「心配かけた……。もう案じるな。今は……麻酔のおかげで気分がいいくらいだ……」
「ごめんなさない……ごめんなさい……」
「何を謝る? 俺の方こそ、誰にもあんたに傷一つつけないと約束したのに……首筋に刀傷を負わせてしまった……殴られたところも酷い痣だ……」
「こんなものはすぐに治ります。あのまま男に乱暴されていたって死ぬわけじゃありません。春賢に襲われたときに私が弱くて立ち直るのが遅かったから、それで冬籟様は私が心配で自分の剣を投げ出して……」
「それは俺が嫌だったからだ。あんたが……下衆になぶりものにされるのを見るなんて、たまらない……」
「でも、私なんかのために危ない目に……」
「『私なんか』などと言うな。あんたの両親はあんたを大事にしなかったかもしれないが、俺にとってあんたは大切だ」
璋伶が足音を忍ばせて部屋を出ていく。
「だけど、冬籟様、他人の私のことよりご自分のことを!」
白蘭はさらに言い募ろうとしたが、冬籟がふうと息を吐きながら目を閉じたので、白蘭も口をつぐんだ。
冬籟はゆっくりと瞼を上げた。黒曜石の瞳が優しく哀しげに光っている。
「白蘭、今の俺は麻酔がかかってる」
「……はい……」
「麻酔のせいで、心の奥底に沈めておかねばならんことを口走ってしまう……。だが、これは麻酔のせいだ。聞いたら忘れてくれ」
冬籟が手を持ち上げると、指先を白蘭の頬に伸ばす。そしてとても大切なものに触れるかのようにそうっと撫でた。
「俺は……あんたに惚れてる」
「……冬籟様……」
冬籟は唇の端を持ち上げる。
「惚れっぽい男だと呆れるか?」
白蘭も笑顔を作って応じた。
「いいえ……。嬉しいです……とても」
冬籟は指先を白蘭の頬に添えたまま、彼女の言葉を味わうようにしばらく眼を閉じた。
それから瞼を開けたが、もう白蘭を見ない。
「俺は麻酔でぼうっとしていたから何も聞いていない」
そして自分の指先を褥の上に戻してしまう。
白蘭はその彼の手を自分の手でつかみ、自分の頬にこすりつけた。彼の指先をもっと感じていたかった。
「冬籟様! 私も、私だって……」
「言うな。惚れてくれてるなら嬉しいが、その言葉はあんたの亭主に取っておけ」
白蘭は口を閉じた。しかし、そうしたために、それだけいっそう体の中から激しい感情がほとばしり出てしまいそうになる。冬籟の黒い瞳、深い森の中の泉のように中から何かが湧き出ているその瞳の中にいっそ吸い込まれてしまいたい。
白蘭は顔を近づけた。冬籟は一瞬驚いた顔をしたがすぐに表情を改め、その指先で白蘭の顎をとらえて導く。二人は唇を重ね合わせた。冬籟が軽く口を開き、そして白蘭の口の中を、その唇が発することのない言葉の代わりに味わい始める。熱いものが白蘭に差し込まれ、白蘭も舌先で応じ……。
頭の奥が痺れるような、体中の皮膚が粟立つような、そして身体の内奥で熱いものがたぎっているような。このまま体中の繋がれるところを全て繋げて、二人で溶けて一つになってしまいたい。二人を隔てているそれぞれの衣が邪魔に思えてしかたない。こんなものなんか脱ぎ捨てて……。
「白蘭」
冬籟が顔を離した。けれど今度は視線を外さず、むしろしっかりと白蘭を見つめる。
「あんたはいい女だ。一生懸命大人になろうとして、他人のために生きようとする」
「……」
「あんたは皇太后様のことで『自身の義務をきちんと果たす方にこそ、魂のあり方を決める権利を差し上げるべきだ』と言った。同じことを俺はあんたに思う。自分の責務に身を殉ずるあんたこそ幸せになってもらいたい」
「……」
「母親のせいで自分は絶対に人に恋などしないと決め込んでいたあんたが、誰かに惚れたのはいいことだ。ここはあんたが生まれ育った家じゃない。あんたは大人になり、ひとかどの商人となって、今は親達とは違う人間に囲まれている。大丈夫だ。俺はあんたの相手にはなれなかったが、これから亭主に惚れてやれ。亭主も絶対あんたに惚れる。あんたはこれから他人と愛し愛され幸せな時間を過ごせるはずだ」
「……」
「幸せでいてくれ。それが俺の望みだ。亭主に惚れて惚れられて……」
冬籟の瞼が黒曜石の瞳を覆おうとする。麻酔の眠気が襲い掛かっているらしい。それでも薄目を開けて彼は言う。
「そんな顔をするな……。涙なんかあんたに似合わない。俺の思い出に残るのもきっと……生意気そうな顔の少女だ……」
冬籟はぐっと身をよじり、寝返りを打って白蘭に背中を向けた。
「俺は寝る。眠くてたまらん。今夜の俺は麻酔のせいで言うべきじゃないことも口にした。これはあんたの胸におさめておいてくれ。だが……」
壁を向いた彼はそれでもはっきりと力を込めて言い切った。
「俺はあんたに惚れたことを後悔していない。あんたに惚れてる男がこの世界にいる。それは忘れるな」
白蘭は彼の背中を見ながら立ち上がった。彼に見えないと分かっていても一つ礼をとり、そして小走りで部屋を出る。
戸口の外で璋伶が軽く腕を広げていた。
「酷い顔をなさってる。白蘭嬢、泣きたいなら私の胸でどうぞ。私の心は朱莉姫のものですが、今の貴女に胸を貸しても姫もお怒りになりますまい」
白蘭はうわあっと叫んで彼に取りすがった。この、体の奥から吹き上がるような狂おしい思いは、とても一人きりで抱えられるものではなかった。
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