第36話 禁軍将軍冬籟への襲撃(一)

 再び白蘭が夜に雲雀の家まで字を教えにいく日常が始まり、冬籟は装備を実戦なみに重くした。細かな甲片だけでなく胸には鉄製の円護のついた明光鎧めいこうがいを着、腰には装飾のない実用的な剣を佩く。


「火事のときの二の舞は踏まない。あんたのことは必ず守る」


 その上で彼はこうも言った。


「襲われた女が、胸を張って街の中を闊歩する。何も怖れぬ小気味いい姿を見せつけてやりたいんだろう? だったら護衛の俺は少し離れて歩いたほうがいいな」


 白蘭は彼とならんで話をしたい。けれど、これ以上彼と心が近くなってはならないし、彼の方も白蘭との仲に深入りするつもりがないのなら、今の自分から彼に話すことも特にないのかもしれなかった。


 やがて朔を過ぎ、月が弓のような形から再びだんだんと満ちてきたある夜。


 春賢の邸宅など門番を置くような貴族の住まいの並ぶ区域を過ぎ、蘇人街に入った辺りで、小路から人影がよろめき出てきてしゃがみ込んだ。帳付きの女物の帽子で顔を隠している相手に、白蘭は「大丈夫ですか?」と駆け寄る。奥ゆかしそうな女性が夜の街でただならぬ様子を見せているのは、ひょっとして白蘭のように襲われでもしたのかもしれない。助けてあげなければと白蘭がその人影の近くに屈みこもうとしたとき。


「よせ! 白蘭、そいつは男だ!」と冬籟が叫ぶ。「え?」と思う間もなく、白蘭は起き上がった人物にはがいじめにされた。


「……!」


 もちろん冬籟がすばやく剣を抜いてその男に斬りかかる。背後の男は白蘭の体を冬籟にぐいっと突き出した。冬籟は危うく刃先が白蘭に届く寸前で剣を止め、今度は白蘭の身体を回り込んで男を突こうとする。


「冬籟様、後ろ!」


 小路から別の男達が数人走り出てきた。その先頭の男が剣を振り上げ、冬籟の背後から飛び掛かろうと地面を蹴る。その刃が冬籟めがけて滑り落ちてくるのを冬籟が振り向きざまに払いのけた。


「きゃっ」


 白蘭を捕らえている男が左腕で白蘭の身動きを封じながら、右手で白蘭の首筋に短刀の刃を当てた。その切っ先が白蘭の肌の上をつうっと滑り、遅れて焼けつくような痛みに襲われる。皮膚が切られたらしくぽたぽたと血が胸元に滴った。


 男の一人が「そこまでです。冬籟将軍殿」と声を上げ、冬籟がその声に剣を向ける。その切っ先の前で比較的年かさの男が冷笑を浮かべていた。この男が頭目であるらしい。


「冬籟殿。状況をご覧になられよ。この娘の命が惜しくば大人しくなさることだ」


「狙いは俺か? ならば俺と闘え。彼女は関係ないだろう。早く放してやれ」


 男がくつくつ喉を鳴らして嗤う。


「武装した北衙禁軍将軍とまともにやりあって勝てるわけがないでしょう。我らは知恵の回らぬ馬鹿ではない」


 白蘭は自分の立場を理解した。自分は冬籟を狙う連中に人質にされてしまったのだ。だから、指先一つ動かせぬようにしっかりと身柄をおさえられている。


 男が命じる。


「冬籟殿にはまず鎧を脱いで頂こう」


「やめて! 冬籟様、こんな奴らの言うことなんか聞いちゃだめです!」


「……何が目的だ?」


「玄武を使役する呪文、だ。知っているなら教えてもらおう」


「知らない。俺が知るわけがない。父の毅王から呪文を聞かされているのは、次の使役者の兄上だけだ」


 別の男が口を開く。


「毅国の嫡男は死んだ。毅から琥の王都まで落ちのびたのは知っていたが、その先が分からなかった。だが、その小娘が毅の若者が客死したと飯庁で話していただろう? 急いで確認したところお前の兄だと判明したんだ」


 白蘭と冬籟が朝食をとっていたときに、その話を聞いていた不審な男がいた。この連中の仲間だったのか。そしてあの若者は冬籟の兄……。


 冬籟もその知らせに衝撃を受けたのか歯を食いしばっている。男はそれをせせら笑いながら「嫡男の周りの誰かが、お前に呪文を伝えに来ていないか?」と問いかけた。


 冬籟は感情を押し殺した声で答える。


「……来ていない。兄上が亡くなったのも今知った」


「そのようだな。なら、お前にもう用はない。使役者が死ねば二十五年で玄武が董に戻ってくる。ちょうどこれから生まれる皇帝の皇子が大きくなられる頃に、だ。さ、冬籟殿には今ここで死んで頂こう」


「玄武を董に戻すというお前たちは何者だ?」


 かつて先帝も玄武を召し上げようとした。蘇王と貴族たちも四神国の弱体化を狙っている。彼らはその手先か……。


「冬籟殿は我らが何者かとお尋ねになる。そうですな、『世を正す者』とでも名のっておきましょう」


 ここで男はにいっと笑う。


「天下は伝統にのっとって統治されるべきだ。古の聖人が説いた正しい秩序を実現するのが皇帝の役割。蛮族や女などがこの華都で大きな顔をするような世の乱れを誰かがくいとめなければならない」


 他の者たちが叫ぶ


「蛮族は辺境に! 女は家の中に! 賤しい者はそのまま貧民窟に! それぞれ分を弁えろ!」


「お前だってそうだ、冬籟! 北狄上がりの分際で、陛下の北妃などと呼ばれて寵愛されているのを笠に着て、名家の崔家の嫡男に罪をなすりつけようなどとして!」


「前々から苦々しく思っていたが、いい加減目に余る!」


 冬籟はそれらの声を取り合わない。


「世を正すのが自分たちということか?」


 別の男が「我らは実働部隊に過ぎない。名だたる貴人の方々が我らの働きを望んでおられる」と答える。


「董の貴族やその背後の蘇の王侯貴族といったところだな」


 頭目の男は素っ気ない。


「貴方に教える義理などありません。さあ、鎧を脱いで跪いて」


「やめて!」


 誰か来て! 誰か来て! 誰か来て! 大きな声で人を呼ぼうと息を吸い込んだ白蘭ののどを、背後の男が刃先でつんつんとついた。いつでもここを掻き切ることができるのだと念を押すかのように。


 頭目の男が唇をゆがめる。


「自分の立場が分かっていないようだな、小娘。さあ、冬籟殿、この娘を守りたいのなら鎧を脱いでいただこう。ああ、部下たちが来るのを待っても無駄ですよ。貴方の部下は貴方の指示がなければ動けないでしょう。我々は、貴方が妙な真似をすればすぐにこの小娘の命を絶つことができるのですからね」


 冬籟が目を閉じて息を一つ吐くと、剣を収めて鎧の紐をとき始めた。


「だめ! 冬籟様、やめて! こんな奴らの言うことなんで聞かないで!」


 冬籟は無言で鎧を脱ぎ、それを地に投げ捨てる。金属がこすれながら地に崩れる物寂しい音が響いた。


「そんな! 冬籟様! 私の……私のせいで冬籟様に何かあったら……嫌です、そんなのいやあっ!」


 冬籟の腰にはまだ剣がある。


「冬籟様、冬籟様の腕なら剣で……」


 頭目が白蘭に近づくと思い切り顔を殴りつけた。内側が切れたのか口の中に鉄臭い血の匂いが広がる。男は残忍な笑みを浮かべた。


「女を痛めつけるのは何も刃だけに限らない」


 男は屈みこむと白蘭の裳の裾を大きくまくり上げた。


「や、やめ……」


 白蘭の太ももの中ほどまでが見えるようにしながら、男は春賢と同じことを言う。


「女の身体は男を喜ばせるためにある。大貴族に所望されたというのに、若き俊才を罪人に仕立てあげようとした生意気な女には罰が必要だ。冬籟殿、どうです? 貴方の目の前で面白い光景を見せてあげますよ?」


 へへっと賊たちが下卑た声で笑う。


 白蘭は「い、や……」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。冬籟が剣も放り投げたからだ。


「だ、め……。だめです、冬籟様! わ、私なら平気です。自分の身体くらい……何も死ぬわけじゃありませんっ! こんなこと、こんなこと何でもないんですから! 冬籟様、やめて、死なないで!」


「白蘭、いいんだ……」


 冬籟の声は静かだった。その黒曜石の瞳にたたえられた光も。


「い……や……」


 冬籟は黙って白蘭を見つめる。死出の旅にも決して面影を忘れまいとするかのように。


 男たちが冬籟の衣をつかんで膝を折らせる。両膝を地につけてむりやりに首を下向かせられるまで冬籟は白蘭だけを見続けていた。


 男二人がかりで頭を押さえつけられ、冬籟の太い首の後ろがむき出しとなる。男の一人が傍らに立ち、剣を振り上げた。


 ──あれが振り降ろされたら冬籟様の首は!


 タタタッと足音がした。地面を蹴る濁った音ではなく、奇妙に澄んだ音。


 ふと視線を上げると、璋伶が坊墻を蹴って男たちの輪の中に身を躍らせているところだった。


 着地と同時にまずは一閃。近くの男を袈裟懸けに斬り捨てる。二、三歩白蘭に近づいたところで、白蘭の背後から前に踊り出た大男の胴を払う。男は、裂けた肉から血を吹き上げさせながらどうっと倒れた。


「くそうっ!」


 冬籟を抑え込んでいた男の一人が璋伶に剣を振り上げたが、璋伶は相手よりも素早くその利き腕を斬って捨てる。


「この蛮族が!」と叫びながら頭目の男も襲い掛かる。が、これも璋伶の敵ではない。あっという間に相手の剣を振り払うと、璋伶は自分の剣を相手の胸に突き刺した。


 一人が慌てふためいて逃げるのを見て、残る一人は我を失った。いや、当初の目的を思い出したというべきか。


「うわああっ」と叫ぶと、冬籟が地面に転がる自分の剣に腕を伸ばしたところを、背後からめった刺しにする。


「死ね死ね、死ねえーっ」


「きゃああああーーーっ!」


 璋伶が男の肩を冬籟からはがすように剣で薙ぐ。男はもんどりうって倒れたが、璋伶はわき目もふらず、冬籟の傍にしゃがみ込んだ。


「冬籟様!」


 冬籟は、自分の血が染みをつくる地面から片肘ついて身を起こそうとする。


「お、れ……は、だいじょう、ぶ、だ……」


 璋伶は冬籟の顔色を一瞥するなり、自分の腰に巻いていた飾帯をしゅるしゅると解き、「失礼しますよ」と、冬籟の身体を縛り上げた。その帯が冬籟の血を含んで瞬く間に色を変えていく。


「白蘭嬢。至急私の家に向かいます! ついてきて下さい!」


 璋伶は冬籟の身体を肩に担ぐと全力で走り始めた。それほど彼の容体は切迫した状態なのだ。


 自宅に着くと、璋伶が牀の上に冬籟の身体を乗せ、傷口を見て立ち上がった。


「傷が臓器にまで達しています。すぐに縫合しなくては。白蘭嬢、厨房から薬草の壺を持って来て下さい。貴女に煎じていたあれです。そのまま使えば麻酔ですから」


 白蘭は勢いよく「はいっ」と答えて駆け出した。


 だが、部屋の戸口を出る前に足を止めることになる。どんなに弱々しくとも、冬籟の声が止めるからだ。

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