第32話 女商人白蘭への襲撃(二)

 かろうじて手をつくことはできたが、完全に転んでしまっている。急いで立ち上がろうとすると「こっちだ」と二の腕を掴まれた。

 助かった? いや、そうじゃない……。


 相手は白蘭を起こしてくれるのではなく、そのまま地面を引きずると門扉脇の物置のような小屋に放り込むように押し入れた。


「春賢様?」


 窓から差し込む月明かりの中、知性を誇っていたはずの男が獣のように顔を歪めていた。


「手間をかけさせやがって! 俺の相手もせずに妙なことばかりしやがって!」


「妙なこと?」


「お前のやってることは人に探らせて何でも知ってるぞ。南蛮どもに字を教えてるだと? 蛮人に知恵などつけてどうする。男達が俺たちに逆らうようになったり女どもが生意気になったりしたら秩序が乱れるじゃないか!」


「秩序……」


「天下国家、秩序が大事だ。お前も好き勝手なことをせず俺に言われたとおりにしろ!」


 春賢は倒れ込んだままの白蘭の腰にまたがると、白蘭の上衣をこじ開ける。


「……! い、いやっ!」


 白蘭は両手で胸をおさえたが春賢がそれを払いのけた。荒く生臭い息の中から「は、はは、お前の身体は俺のものだ」と言いながら、白蘭のむき出しとなった乳房を乱暴にまさぐる。


「いやですっ。いやっ! 止めて!」


「は。お前に止める権利なんかあるもんか」


 何が何だか分からない。ともかく危機を脱しようと白蘭は首にかけていた護符に手をやった。けれどその手は春賢にはばまれ、頭の横の地面にぬいつけられる。もう片方の手は頭上にひねり上げられた。


 男は白蘭に口づけようとする。顔を背けても、その後ろから自分の顔を押し付け、白蘭がぎゅっと口を引き結んだのにも構うことなく、ざらついた舌を唇の中へと押し込もうとする。


 ──汚い! 汚い!


 嫌悪感で全身にぞぞっと鳥肌が立つ。そして、これ以上のことが起こらないように力いっぱい自分の身を固くした。


「きゃっ!」


 春賢が裳をまくり上げた。白蘭は必死で腿を閉じる。だが、男は軽々と両脚を広げてしまった。


「いい眺めじゃないか」


「止めて! はなして! いやっ、嫌あっ!」


 男が白蘭の足の間に顔をうずめる。そこもまた舐め回し始めて、白蘭の意識がふっと遠のいた。これは夢だ。とんでもない悪夢だ。


 目には窓越しに星空が見える。今日は冬籟に贈られた飾りをつけていたのに。雲雀がせっかく綺麗に髪を結ってくれたのに。どうしてこんな目にあうんだろう……?


 男が何か言っている。「女の身体は男のためにあるんだ。俺がお前に肉体の喜びを教えてやっているんだ」。耳に入るその言葉のなんと空虚なことか。


 ふいに冬籟の姿が浮かんだ。その節高で長い指。鎖骨の見える胸元と、細身ながら筋肉が美しくついた腕……。自分に触れる相手が冬籟なら良かったのにと思った瞬間、白蘭の視界が歪む。そのまま涙がこぼれてこめかみを伝って地に流れ落ちた。


 ドンドンドンと戸を叩く音が大きく響いた。そして聞き間違えようのない冬籟の声。


「誰かいるか? 火事の現場は崔家の下僕の家だ。崔家の家令が火をつけたと証言する者がいる。事情を聞かせてもらいたい!」


 春賢は白蘭にのしかかったまま首だけを外に向けた。


「うるさいっ! 僕はいい所なんだ! 邪魔をするな!」


 扉の向こうに冬籟がいる。そう思った白蘭はただただ「冬籟様!」と叫んだ。その声はかすれて届かないかもしれない。だけど呼ばずにいられない。


「白蘭?」


 ──気づいてくれた。


 冬籟が聞きとってくれた。ただそれだけがしみいるように嬉しく、白蘭が何も考えることができずに呆けていると、バキバキバキッと木の扉が破られる音が鳴った。続けて冬籟の「白蘭!」と驚く声が耳に飛び込んで来る。


 冬籟は白蘭の上の春賢の襟首をつかんで立たせ、殴り飛ばした。顎の骨が砕けるような鈍い音がし、春賢は気を失ったのか倒れ込んだ地面で動かなくなったが、冬籟は彼に目もくれず白蘭のそばに膝をつく。


「大丈夫か……あんた……」


 白蘭が裳裾を急いで整えて、そろそろと半身を起こすと、彼は視線をそらせながら自分の上衣を脱いだ。


「乳房が丸見えだ。これで覆え」


 ふわりと羽織らせてくれて、白蘭は冬籟の匂いに包まれる。それまで焦点の定まらなかった目が冬籟の顔、そして白蘭を心から心配してくれる視線をとらえた。涙があふれる。嗚咽のせいで呼吸もままならない。


「い……や……嫌だった……。あんな男に、あんなことされるのは嫌だったのに……」


「もう、あいつは動けない。あんたは助かったんだ。安心しろ」


 白蘭が片手で胸元をおさえ、もう片手で彼の二の腕に触れると、彼は白蘭を自分の胸に抱き取った。


 彼の広く、ほどよく温かい胸に顔をうずめて身をゆだねていると、一息一息が軽くなっていき人心地がついた気がする。


 白蘭が落ち着いたと見た冬籟が、座ったまま「宿に帰ろう。歩けるか?」と問う。白蘭は身震いして彼の首筋に抱きついた。


「宿は嫌! あの男がやってくる!」


 春賢にはあの宿屋で待ち伏せされたことがある。冬籟もそれを思い出したようで「そうだったな」と答えると、取り乱した白蘭の背中をあやすようにとんとんと叩いた。


「分かった……南の璋伶の家に行こう。そこなら春賢も知りようがない。どうだ?」


 こくんと首を縦に振った白蘭を冬籟は抱え上げると、大股の早足で蘇人街に向かった。そして壁を穿っただけの粗末な門の前で立ち止まり、低いがよく通る声で住人を呼ぶ。


「璋伶! 起きてくれ!」


 璋伶が肌着姿で目をこすりながら扉を開けた。


「……冬籟様? こんな時間に何事です……って白蘭嬢? どうしました?」


 冬籟は「邪魔するぞ」とずかずかと家の中に入り込んだ。右の奥の部屋に牀が見える。冬籟はそこに白蘭を腰掛けさせると、心配そうについてきた璋伶を振り返った。


「男に襲われた。ここでしばらく安静にさせてやってくれ」


「え! 私はもちろん構いませんとも。えっと……気分が落ち着く茶がありますから、まずそれを入れましょうね。それから着るものも変えましょうか。隣のお姐さんから借りてきますよ」


 白蘭はお茶で一息つくと、あの下衆に乱された服から新しい服に着替えた。


「白蘭嬢はこの牀でお休みください。私は隣の部屋に榻があるのでそちらで寝ます」


「ごめんなさい」


「なんの。朱莉姫と私はあなた方に大恩がありますからね」


 冬籟が立ち上がった。


「俺は宮城に戻る。火事の容疑で部下が春賢をひっ捕らえているはずだ。俺からも女に暴行した罪状を付け加える」


 璋伶が「ええ、正しい裁きを下してやるべきですよ」と頷いた。


 二人が部屋を出て、白蘭は牀に身を横たえて眠ろうとした。しかし──。


 あの男がいる! いや、現実にいるわけではない。だけど白蘭の傍にいるような気がしてならない。あの男の妙に湿った手が自分の肌を這いまわった感触が、あの男の粘ついた声が、首筋に掛けられた生臭い息が、白蘭の五感に生々しくよみがえるのだ。


「いや、いやああああーーっ」


 まだ璋伶の棲家にいた冬籟が白蘭の悲鳴を聞いて飛んでくる。


「白蘭?」


「いや、いやああっ」


「誰もいない。大丈夫だ」


「いるの。いるの。眼をつむると現れるの!」


 冬籟は腰を下ろすと白蘭を抱え上げた。


「……!」


 冬籟が白蘭の目をのぞき込む。その黒い瞳の光が力強い。


「俺が助けに来た。あんたは助かったんだ。分かるか?」


 白蘭はわずかに顎を引いて頷いた。


「冬籟様がいる……助けてくれた……」


 一緒に入ってきた璋伶が息を吐く。


「襲われた恐怖が消えないのでしょうね。記憶が蘇るたびに襲われ続けることになる。かわいそうに……」


 冬籟が白蘭を強く抱きしめると、うなじに向かって力を込めて言った。


「大丈夫だ。何度襲われても俺が助けてやる」


 白蘭は再び牀に横になり、目を閉じる。うつらうつらと眠りかけては悪夢に目を覚ましてしまう。だけど悲鳴と共に身を起こせば、必ず冬籟がいて抱きしめてくれるのだった。


 そんなことをくり返すうちに夜明けが近づく。冬籟は出仕しなければならない。日常の業務に加え、火事と白蘭への襲撃事件の処理がある。


「冬籟様……お仕事に行かなければ……」


「だが……あんた、一人で眠れるか?」


 白蘭が言葉に詰まると、戸口近くの丸椅子に腰かけていた璋伶が提案した。


「冬籟様。雲雀嬢に使った麻酔が残っています。そのままでは強すぎますが加減すれば鎮静剤になります。とりあえず冬籟様がいらっしゃらない間は薬湯でしのぎましょう」


 その璋伶が用意した薬湯を飲み、冬籟が出かける支度をしているのを牀から眺めているうちに意識が途絶えた。


 昼過ぎに目が覚めてもぼんやりとしているだけだったが、陽がかげり室内に薄闇が立ち込めはじめる頃からぞわぞわと落ち着かなくなる。


 思い出したくもないのに春賢に浴びせられた言葉が聞こえる気がする。女の身体は男の欲を満たすためにある……悦びを教えてやる……。その幻聴を聞くまいと白蘭は耳を塞いだ。


 幻聴をやり過ごしても、次はきちんと着ていた服の胸元を乱暴にこじ開けられているような感覚を覚える。白蘭は胸元に手を当て、服の上から自分の護符を握り締めた。


 それで気持ちが落ち着いたかと思ったら、今度は自分の両脚が春賢の手で乱暴に広げられた感触が蘇った。それは……。


「いやああああーーっ」


 白蘭は牀を飛び出て房室を駆け抜けた。房室から走廊を通り、厨房にいた璋伶の「白蘭嬢!」と呼び止める声も聞かず、家の戸口から転げるように外に出る。


 青い夕闇に灯火が目立つ街の向こうから蹄の音が近づいて来ていた。馬にまたがる長身の男は……。 白蘭はそちらに駆け出しながら、力の限り両手を伸ばした。


「冬籟様! 助けて!」


「白蘭!」


 冬籟が馬を走らせ駆けつけると鞍から滑り降りて、 白蘭がつんのめるように胸に飛び込んできたのを抱き止める。


「待たせたな。大丈夫だ。俺がいるから夜は眠れ」


 白蘭は彼の身体にむしゃぶりつくように抱きついた。


 その日以降も冬籟は毎晩、仕事を終えると急いで白蘭のもとに来てくれる。


 それでも記憶は白蘭をさいなみ続ける。寝入ろうとして、あるいは寝入ってもすぐに、あの場面を思い出してしまって平穏ではいられない。


 冬籟は牀の横の椅子で見守ってくれ、白蘭が飛び起きれば抱きしめ、枕の上で目を覚ますと衾の上からとんとんと軽く叩いて落ち着かせてくれた。


 そんな日が続くうちに白蘭は焦りはじめた。普段の商売はザロに任せられても、重要な場面には白蘭が必要になるはずだ。雲雀は今回の事件で「私の家にお嬢様が来られたその帰りに……」と責任を感じているそうだが、もちろん雲雀は何も悪くなく、むしろ白蘭は彼女達に字を教える仕事が気がかりだ。貧しい彼らに識字能力は欠かせないのに……。


 そして、消えた護符の謎を解くこと。後宮出入りの女商人として実績を上げ、華都で嫁いでも婚家と対等にやりあえる政治力を手にしたいと決意したのに。それは民の為でもあるのに。


 ──こんなことではいけない……。

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