第31話 女商人白蘭への襲撃(一)
白蘭が毎夜、雲雀の家に字を教えに通うようになって一月ばかりが過ぎた。
飯庁に客が夕餉を取りに来る頃、冬籟も宿にやってくる。するとまずは雲雀が自宅に戻って家族と夕食を食べ、白蘭も冬籟と飯庁で食事をしてから二人で蘇人街の雲雀の家に向かう。
今日もそろそろ冬籟が宿に来る。それを出迎えようとする白蘭の襟元を雲雀が整えてくれた。
「お嬢様、だんだん董の服も板についてきましたねぇ」
暑くなってきて白蘭は冬籟が持ってきた董の服を着るようになった。絹の服は肌触りがよく、特に薄手のものは風を通して心地が良い。琥の未婚の女は男と同じく褌子をはくので、腰から下を布で覆うだけの董の裳は少し心もとない感じがするが、湿度の高い夏はこちらの方が快適だ。
服に合わせて、これまでは編んで垂らしていた髪も結い上げるようになった。
「お嬢様、簪(かんざし)を髻(たぶさ)の上のよく見えるところにさし直しますね。お嬢様の瞳の色に合わせたせっかくの素敵な品ですから」
この少し前、白蘭がよその商家に出かけている間に冬籟が訪ねてきた。応対したザロに向かって冬籟は空を指さし
「こんな色の宝玉はあるか」と尋ねたのだという。そして天青の宝玉をあしらった飾りの類を何点か買い上げて白蘭に贈ってくれた。
いぶかる白蘭に彼は「一人暮らしのための品を買わなくなったからだ」と言った。
「俺はそれほど華都に長居はしない。だが、あんたはものが売れたつもりでいただろうから、品は違うがあんたから買い物はする」
白蘭が「事情が変わったんなら結構です」と断っても「俺は高給取りだから。あんたに金儲けをさせてやるさ」と笑って取り合わない。
「あんたの瞳の色は夏の空のようだ。十七歳なら自分の身を飾ろうしてもおかしくないし、なら天青の石が似合うだろう」
彼は「だが、前のような妝は止めておけ。もう少し工夫しろ」とおかしそうに言い添えた。
その夜はやけに蒸し暑かった。冬籟も袍の首元を大きく折って翻領(ほんりょう)にし、鎖骨の辺りを風に晒している。袖も肘のすぐ下までまくり上げられ、筋肉のついた男の腕が伸びていた。ただの若い男の肉体なだけなのに、そこに例えようもなく神秘的な美しさが宿っているかのような気がして白蘭はついじっと見つめ、そんな自分に気づいて慌てて目を逸らした。
雲雀の家までいつもは馬だが、この日は冬籟が「今日は馬はなしだ」と告げた。歩きながら話があるという。
人気の絶えた夜道で冬籟が「今日の昼間、鴻臚客館で朱莉姫に会ってきた」と切り出した。それは確かに馬に騎乗して大声で話せる中身ではない。冬籟と白蘭は肩を寄せるようにしてひそひそと会話する。
「どうでした?」
「姫は消えた護符の手掛かりがないかと、父の蘇王に双輝石の話題をふってみたそうだ」
けれど、蘇王の伝統的な価値観では、玉とはあくまで翡翠を代表とする中身が詰まって見える石を指す。ずしりとした内実と柔らかな表面を兼ね備えるさまが理想の君子の姿に通じるからだ。だから双輝石のような透明な宝玉には価値を置かないし、実際、蘇王は娘の話に全く無関心だったそうだ。
「では……蘇王は護符と関係なさそうですね。琥を陥れるなら、『先帝に至宝を供えずけしからん』と非難せねばなりません。その際には蘇王も護符に価値を感じていると周囲に示した方が、説得力が増します。本心はともかく価値があると思っているふりだけでもするべきなのに、これから後宮に送り込む娘とその辺のすり合わせもせず、無関心さを隠そうとしないのは……」
「ああ、やはり蘇王ではなさそうだ」
それでは護符をすり替えたのは誰で、今はどこにあるのだろう?
雲雀の家に到着すると雲雀と弟達が既に卓に向かっていた。東妃が譲ってくれた宮中の反故紙の余白に幼い子どもが簡単な字をせっせと書いている。
「せんせー、僕、『上』と『下』書けるようになったよー」
「僕は『山』と『川』も!」
白蘭は「それじゃあ……」と応じる。
「今日は植物にしようか。『木』『花』『草』とかね」
「うわーい!」
雲雀が「お嬢様、私にも教えてくださいよぅ」と筆を持ち上げる。
「もちろんよ。雲雀もだいぶ画数の多い字が分かるようになってきたから、今日は『樹』『華』とかね」
「はいっ!」
子どもの勉強中、冬籟は蘇人街にいる璋伶の棲家で過ごしていることが多い。今後のことを話し合っているのだろう。そして白蘭の授業の終わりにあわせて迎えに来る。
今日も夜が更けてどこかで犬の遠吠えが聞こえた頃、冬籟が来た。そして、二人でたわいもない話をしながら帰路につく。
その途上、南北の大路を北上して少したった辺りで冬籟が異変に気付いた。
「焦げ臭くないか?」
白蘭も空気に不穏なものを感じて返事をしようとしたとき。行く手に緊迫した怒号が響いた。
「火事だっ!」
冬籟もまた一瞬で表情をひきしめ、その声の辺りに顔を向ける。走らせていた視線が止まった先を白蘭も目で追うと、坊墻の奥から白い煙が夜空に立ちのぼっていた。
「白蘭、すまんが俺はあっちに向かう。あんた、一人では危ないから必ず大路を通れ。気をつけろよ」
白蘭が心配でも、華都の治安をあずかる禁軍将軍が火災に駆けつけないわけには行かない。それに火災の発生で普段は閉じられている坊門が開き人々が避難を始め、加えて不謹慎な野次馬もいるから人目はある。
「大丈夫です! 冬籟様こそ気を付けて」
冬籟は片手をあげて駆けていき、白蘭も騒ぎが広がっていく夜の街を急いで歩く。
荷物を抱えた人々が坊門から走り出てくる。その中から、一人の老人が白蘭に「お嬢さん、すまんがちょっと手伝って下さらんかの」と話しかけてきた。
「いいですよ」と答えた白蘭が連れて来られたのは大きな邸宅の裏口のようだった。火事が起きた場所とは離れているが、もちろん避難しておくに越したことはない。
扉が開く。その瞬間、白蘭の背中がドンっと押された。
「え?」
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