第3話 後宮の愛されぬ妃(一)

 たらいのお湯がちゃぷんと音を立てた。


 先ほど雇い入れた少女が身体を拭いてくれている。坊門が閉まっていては家に戻れないし、今日は宿に泊まるように勧めると「それではお嬢様のお世話を致します」とさっそく申し出てくれたのだ。名を雲雀という。


「あー、さっぱりするわあ! やっぱり女の子にお世話してもらうことにして良かったあ」


 白蘭は砂塵の中を何日も男ばかりの隊商を率いてきた。そのため身体もかなり汚れていたが、雲雀は嫌な顔一つせず、何度も盥のお湯を替えては綺麗に磨き上げてくれる。


「明日は陛下とお会いになるんですもの。ピカピカにしないと! 場所はきっと後宮ですよね。私も後宮に一度入ってみたいですぅ」


「あれ? 後宮に行くのが嫌で逃げてたんじゃなかったっけ?」


「下級の宮人じゃなくてお妃様ならなってみたいですよぅ。女の子なら誰だって華やかな世界に憧れますもん。友達ともそんな夢物語をお喋りしたりもします。だから、あの人買いも『後宮の妃にしてやる』なんて甘いことを言えば騙せると思ったんでしょう」


 雲雀の声が「ですけどねぇ」と低くなる。


「ウチは貧しい物売りで私は字も読めませんよ? 後宮に連れていかれたところで宮女になるしかないじゃないですか。それは嫌ですよ、一生後宮から自由に出られず他人の世話に明け暮れるだけなんて」


 雲雀は夢と現実を弁えたしっかり者らしい。だが、雲雀はなかなか美少女だ。人買いは磨けば光りそうな雲雀の器量に賭けたのかもしれない。


「でも、雲雀はとても綺麗な顔立ちよね。元はの国の人?」


 董王朝の東西南北にそれぞれ王国がある。蘇王国は南にあり、人々の肌の色は褐色だ。くっきりした二重瞼で瞳はくりくりっと大きく、小柄な美女が多い。雲雀は純粋な蘇の人よりは顔がすっきりした印象なので親族の誰かが董の人なのかもしれない。


「父が祖父母の代で蘇から董に移住してきました。母は生粋の董の人間ですが、私たち家族は南の蘇人街に住んでます」


 この董の都は別名華都ともいい、あちこちに他国からの移民が集住している地区がある。


「私なんかよりお嬢様の方がお綺麗ですよぅ。西域の方らしく高い鼻に夏の青空のような色の瞳。でも他の琥の人より柔らかい感じで、いつまでもみとれてしまう愛らしいお顔ですぅ」


 雲雀は白蘭の肌を拭く手を止めて首から下を眺め、「お肌だって象牙のように白くて……」と吐息交じりに呟く。そして白蘭が服を脱いでも首に下げたままの飾りに目を留めた。


「この首飾り、虎ですか?」


「そうよ」


「高そうですねぇ。服の中じゃなくて上衣の外に出して見せた方がいいんじゃないですか」


「……これは護符なの」


 西域の琥王国は中央の董王朝から白虎を与えられた。琥の王室の者はその虎をかたどった護符を首に下げている。肌身離さず常に身に着ける護符はいわば自分の分身だ。他人に見せるためのものではない。


 雲雀は素直に「そうかあ、西域の風習なんですねえ」と返し、そして手巾を盥で絞りながら口にする。


「それじゃあ、先帝の西妃様、今の皇太后様もお持ちなんでしょうかね」


 董の皇帝には東西南北の四神を下された国から妃が入内する。それがしきたりだ。先帝にも西域の琥の王女が西妃として入内していた。皇后として立てられ、そして今は皇太后として後宮で暮らしているはずだが……。


「それにしても皇太后様って気の毒な人生ですよねえ。噂を聞いても酷いなあって思いますもん」


 雲雀は噂が好きなたちらしい。こうやって都の噂をさえずって聞かせて欲しいので、そこは助かる。


「普通なら皇后や皇太后になった女性は栄華を極めたと言われるもんです。でも、皇太后様をうらやむ者はいませんねえ」


 その理由は故郷の琥でも知られていた。皇太后は琥の王宮にいた幼少期からとても聡明でいらした。今でも琥の語り草だ。しかし、いざ輿入れすると、その賢さが裏目に出た。嫁いだ相手の皇帝が暗愚だったのだ。


 雲雀が「頭が良すぎるのも不幸のもとなんですねぇ」と溜息をつく。


 西妃として後宮に入った彼女はあまりに有能でありすぎた。夫たる先帝の凡愚さを一層際立たせてしまうほどに。西妃のような方こそ皇帝の器だと諸官が誉めそやしたが……それが夫である先帝の妬みを買った。自分より評価の高い妻を先帝は愛さなかった。いや、憎んでいたと言ってもいいかもしれない。当時は北妃も南妃もおらず東からの妃は身分が低いために先帝は西妃を皇后にしたが、それは嫌がらせだった。先帝は政務を放り出してとりまきの貴族たちと趣味の世界に耽溺し、国を担う重圧を皇后に押し付けたのだ。


 嫌がらせは他にもある。先帝は下級妃に産ませた男児の一人を皇后に養育させた。これも育児に不慣れな皇后を困らせるためだと聞いている。まだがんぜない幼子が粗相をするたびに「いくら賢くとも、母として子の躾もできぬとは」と衆目の面前であざわらったというから、まったくやることが陰湿だ。


 先帝は別の皇子に帝位を継がせるつもりだったが、結局成人となったのは皇后が養育した皇子ただ一人。先帝の崩御後その子が皇帝となり、若き今上帝は義母を敬い皇太后として丁寧に遇している。苦労の多かった先の西妃の人生もようやく報われたといえるだろう。


「今の皇太后様はお幸せにお過ごしでしょう?」


 白蘭の問いに雲雀は盥で布をすすぎながら首をかしげる。


「でもぉ。若い女盛りの間を夫に顧みられず過ごすなんて惨めでお可哀そうな人生ですよぅ。『後宮の愛されぬ妃』なんて呼ばれて……」


「そうかな?」


 白蘭はそう思わない。


「そうですよぅ。女は男に愛されることが幸せなんですから」


「別にそうとも限らないと思うけど? だって相手はバカだしさ」



*****

各話ごとの「あとがき」を書いております。「どの部分がどの資料に基づいているか」あるいは「どの部分が鷲生の独自設定かなのか」などについて書いております。何かのご参考になれば幸いです。

→「中華ファンタジー「後宮出入りの女商人」の資料や独自設定など。」

https://kakuyomu.jp/works/16817330659369663557

第3話 「南と西の地域の顔立ち」「坊門」「宮女」について

https://kakuyomu.jp/works/16817330659369663557/episodes/16817330659422694229


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