後宮出入りの女商人 四神国の妃と消えた護符

鷲生智美

第1話 女商人、少女を買う(一)

 夜道に「イヤです!」という甲高い声が響く。まだ年齢の高くない少女のもののようだ。


 白蘭びゃくらんは隊商宿の二階で外を見ながら一息ついているところだった。なにせ白蘭は夕方やっとこのとう帝国の首都に到着し、坊の門が閉じる寸前に宿に駆け込んで、あわただしく夕食を済ませたばかりだったのだから。


 根性なら男に負けないつもりだし、若い女だから体力がないなどとは思いたくないが、さすがに砂漠を超える長旅で疲れていた。


 悲鳴の主は自分よりちょっと年下ぐらいだろうか。そんな少女に何事だろうと、白蘭は窓から身を乗り出してみる。すると走っていた少女が何かにけつまずいて転んだところだった


 年は十代の半ばくらいか。髪を双髻そうけいに結い、白っぽいさんと色あせた裳をはいている。董の事情に明るくない白蘭でも少女が貧しい家の娘だと容易に察せられた。


 追いかけてきた中年の男が少女の襟首をつかんでむりやり立ち上がらせようとする。


「お前は親に売られたんだ! 逃げても無駄だ!」


 売られた? 売り買いの商売の話なら私の出番だ。白蘭は立ち上がるとながいすの上に積んでおいた品物のうち翡翠の原石を二つ袂に入れた。さらに「できれば手放しなくないんだけど」と思いながら、卓に飾っていた特別に大きなものも懐にしまう。


 外に出ると、新たに若い男が登場していた。この男は動きやすい筒袖に盤領まるえりの遊牧民風の格好だ。全身黒ずくめで上背もあり、人を威圧する雰囲気だからきっと取り締まりの武官なのだろう。


 武官が「この子は嫌がっている。放してやれ」と中年男に勧告するが、男も引かない。紙を取り出し武官に向けて広げて見せる。


「この女童は俺に売られたんですぜ。ほら、こちらが契約書でさあ」


 少女が「私、聞いてません!」と叫ぶ。


「お前じゃねえよ。親が署名すればそれでいいんだ」


「父さんは自分の名前が書けるだけで文字は読めないわ! だけどバカじゃない! 後宮の妃にしてやるなんて嘘っぱち信じるわけないでしょ! なら別の奉公先を紹介すると言われたから契約書に署名したのに。なのにやっぱり行き先は後宮だなんて騙したわね!」


 武官が男をとがめた。


「詐欺は良くない。ともかくその子を放せ」


「詐欺じゃございませんよ。ほら、きちんと形式の整った契約です。お役人、民間の商売の邪魔だてをしちゃあいけませんぜ?」


 武官はその書面を手に取り一読すると溜息をついた。。男が主張するとおり文句の言いようがない体裁なのだろう.


 武官が腰に帯びた剣で脅せばどうにかなるかもしれないが、それはそれで武力による横暴という別の問題が持ち上がる。


「だが……」


 白蘭が武官と男の間に割って入った。そして武官の手元の書面をひょいとつまんで確認する。


「おい、何を……」


「なるほど。確かにこれは売買契約書です」


 武官が低い声で「お前は誰だ?」と問うので、白蘭は簡潔に「商人です」と答える。


「この契約は確かに有効です。では貴方……」と、白蘭はできるだけ重々しい声を出して男を見る。


「私と新たな売買をしませんか? この少女を私が買いましょう」


 男は、小柄で年若い白蘭を疑わしげに見下ろした。


「申し遅れました。私は西域の商家、たい家の娘の白蘭です。皇帝が戴家に注文された品物を帝都まで届けに来たんです」


 男の目に驚きが浮かぶ。


「そういや今日すげぇ数の駱駝の隊商が到着してたなあ。西域商人筆頭の戴家の荷なら納得だ。へえ、あんたが王国随一の大商家のお嬢様かあ」


 董帝国の東西南北には董に朝貢する四つの国があり、それぞれその方角を守る青龍、白虎、朱雀、玄武の霊獣が与えられている。白虎を与えられた西域の国、琥王国は商人の国であり、中でも戴家は最大の豪商だ。

「ちょうど私は都で侍女になってくれる女の子を探していたところなんです。この少女をお譲りいただけませんか?」


 戸惑う相手に白蘭は袂から翡翠の原石を取り出す。


「私も商人。何かを手に入れるなら対価をちゃんと支払います。西域からの道中、玉の名産地于闐ホータンにて入手したこの原石などいかがです?」


 これなら銅貨一万枚は下るまい。女童一人なら十分のはずだ。それなのに相手は渋る。


「悪いが、俺だって人に頼まれてその子を買ったんだ。おいそれとは売れねえよ」


 白蘭は袂からもう一つ取り出して見せた。


「これもつけましょう。これでどうです?」


「だけどよう……。俺も頼まれたんだからよう……」


 于闐ホータンの玉二つでも動かないのか。値を釣り上げるための芝居ではなく本当に困っているようだ。この男に少女を買うよう依頼した人間はよほどこの子にご執心らしい。よし、もう一押し。


「ではこれなら? 大きさも品質も帝室に献上するつもりでいた逸品ですが」


 男は目を見開いて「こりゃすげえ上物だ」とゴクリと唾を飲みこんだ。


「いいだろう。ただ、頼みがある」


「なんです?」


「この売買は秘密だ。俺はその女童に逃げられたことにしたい。でないと、俺の依頼者に面目が立たねえ」


「お安い御用です」


 男は白蘭から翡翠を受け取るとにやりと笑い、踵を返して静かな足音で夜闇の中に姿を消した。


 安心して息を吐いた白蘭の頭上から、ずしりと響く低音が降りかかる。


「おい、小娘。俺は北衙禁軍の将で冬籟とうらいという。皇帝陛下の側近だ。だから琥国の戴家ほどの大商人なら俺も家族構成を把握している。しかし、俺は戴家に娘がいるなんて聞いたことがない」


*****

各話ごとの「あとがき」を書いております。「どの部分がどの資料に基づいているか」あるいは「どの部分が鷲生の独自設定かなのか」などについて書いております。何かのご参考になれば幸いです。


中華ファンタジー「後宮出入りの女商人」の資料や独自設定など。→https://kakuyomu.jp/works/16817330659369663557


「第1話 四神と物価などについて」

https://kakuyomu.jp/my/works/16817330659369663557/episodes/16817330659373318817


鷲生の下記エッセイもご好評いただいております!

「中華ファンタジー・中華後宮モノを書きたい人への資料をご紹介!」

https://kakuyomu.jp/works/16817139556995512679

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