Episode2.願いのカタチ—2
変化が起きたのは次の日だった。明里の呼吸が荒かった。彼女の変化とは裏腹に、窓の外はいつも通り青い空が広がっていた。窓から見える木が風に葉を揺らす。
「どうしたの? 明里ちゃん」
明里は忙しなく周りを見まわしながら教室に入ってきた。
志穂が呼び止めて、近づいてきても気が気でないようだ。
「ねえ、明里ちゃん?」
「え? うん。何?」
鞄を机の上に下ろす。開いたその口からは乱雑に入れられた教科書類が見えた。いつも整理整頓は行き届いているはずなのに。一心不乱にスマホと向き合っていても、明里の周りはいつも綺麗で整っていた。
ただ、荒れているという感じはしない。心ここに在らずといった状態なのだ。
「どうしたの? なんかあった?」
「いや、別に」
無理矢理言っている気がした。
「なんか、嫌なことでもあったの?」
「う、ううん。むしろ、嬉しい」
なぜそんなにも戸惑っているのだろうか。嬉しいのであればもっと素直に喜べばいいのに。
「それにしては、なんか、困ってそうね」
「うん。慣れてなくて」
「何に?」
「うん? なんだろうね」
はぐらかされている気がしないでもない。そんな彼女に対抗してか、教室内の生徒が私たち二人の周りに結界を張ってくれていた。教室が二人だけの空間となる。
「ねえ、なんなの?」
「何?」
「何が、嬉しいの?」
「あ、え、お姉ちゃんがね。一緒に絵を描いてくれたの」
「は?」
言われていることがあまりにも唐突で、突飛で、普通で。ついていけない。
「え、お姉ちゃんって。それ、そんなに嬉しいことだった?」
「うん」
満面の笑顔である。入学してずっと見ていなかった笑顔。明るくて、良かったとリラックスする気持ちが込み上げてくる。ただ、どこかジメジメとした違和感も消えてはくれない。
「なんか、あったの?」
「えっ」
「いや、そんな喜ぶなんて。お姉ちゃんと絵を描くことって、そんなに珍しいことなの?」
明里はやっと席に着いた。志穂の質問には答えずに、ポケットからスマホを取り出す。そして何やらいじっていた。志穂からは見えない。明里の顔では嬉しさと困惑がない混ぜになっている。姉は家族ではないのか。家族なら、絵ぐらい描いて当然ではないのか。志穂はそんな考えをずっと抱いていた。
「ねえ、そんなにお姉ちゃん、厳しかったの?」
志穂の好奇心も治らない。
「あ、え、うん」
「えっ?」
「あ、お姉ちゃん、ずっと塞ぎ込んでて」
引きこもり、だろうか。それならなぜなのだ。人と会わないこと、それは志穂には決して耐えられない。その理由が知りたくなった。そしてここで志穂はやっと「撮れる筈ない」の意味を理解した。
「何で?」
「それは」
口ごもる明里を志穂はじっと見つめる。
「お姉ちゃんの友達が、自殺しちゃって」
「え? 自殺?」
「う、うん」
「いつ?」
「あ、三年くらい、前」
その数字に志穂は覚えがあった。
「え、もしかして、橋本恵理香さん? 三年前に校舎の屋上から飛び降りたっていう」
高橋恵理香の飛び降り自殺と共に、その学園のいじめ問題が表面化したことで、そこは廃校になっていた。そのニュースは志穂の耳にも届いていたのだ。
「そう、らしいの」
「それだけ?」
「え、うん。でも、お姉ちゃん、あんまりそのこと話してくれなくて、私も聞くわけにはいかないし。ただ、その時からお姉ちゃん、誰とも話をしなくなって。私も、無視されてばっかりで。その前はもっと優しかったのに。私、もっとお姉ちゃんと一緒にいたいのに」
話をするうちに明里は目を伏せてしまって、志穂は突き込んで話をできなかった。それもそうだろう。友人が死んだなんて話、したがる人はいない。二人の雰囲気に、教室もどこか騒がしさが消えていて、寂しさと暗さが滲み出ていた。それに気づいたのは志穂だけかもしれないけれど。
ともかく、明里と姉の仲が直ったようでよかった。明里はこれでもっと明るくなる。志穂はそう前向きに考えることにした。
でも、志穂はどこか引っかかっていた。気味が悪い。なぜ、三年も会話がなかったのに。最近怒った変化。あるいはそのきっかけ。思い至ったのは、写真だ。
「写真」
「へ?」
「いや、写真。なんか、夢が叶ったようだなって」
その言葉に、明里はこちらをじっと見つめていた。驚きもせず、目も見開かない。そのことがすでに明里が志穂と同じことをもう考えていたことを示していた。撮れるはずがない写真。それとともに現実まで変わった。
「うん。でも——」
「気持ち、悪い?」
「うん」
そりゃそうだ。スマホの中にある日突然出現した写真。しかもそれは持ち主の夢であり、翌日それが現実となっている。
確かに思い込めばそれがあったかのようである。証拠がなければそれだけで過去が変わったと言える。元々過去は脆いものであるから。
ましてや物的証拠となる写真があるならば、当然のように遡って、その過去が存在したとも言えるのだろうけれど。これは口からしか言えないことだ。もちろん志穂もこの考えに納得してはいない。
「あっ、じゃあ、今まで描いた絵はどうなっているの?」
これまでに明里が書いた大量の絵。それらが残っているか消えているか。どちらにしろ何もわからないことには変わりないわけで、意味のない質問だったのだが、聞いてみたかった。
「あ、それは、消えてるの」
そう言って明里は彼女のスマホ画面をこちらに差し出した。保存されている写真は合計十枚。そのうち非表示が一枚で、例の写真と、全く関係のない風景写真がある。前までは同じようなスクショが大量にあったのに。
もちろん写真は最近削除された項目にも存在しない。つまり、明里が消したか、それとも元から存在しなかったか。
「消してないんだよね」
「うん。今日朝見たら消えてた。もう、意味わかんない」
それはそうだ。携帯がいじられているわけでもないのに現れて消える写真。気味悪いことこの上ない。
「これは?」
志穂はそう言って、非表示フォルダを指差す。
「知らない」
「うん?」
「お姉ちゃんしか開けられないの。だから私には何が入っているのか——」
「これは、お姉さんの携帯?」
お下がりは珍しい物ではないが、写真などは消して譲るのが一般的ではないのだろうか。
「うん。お姉ちゃんが塞ぎ込んだ頃に、携帯も一切使わなくなって、で、ちょうど私にくれるって」
「へえ。あ、なんか、ごめん」
「いや、全然」
塞ぎ込んでしまった明里の姉の携帯か。特に怪しいということもない。人と喋らない人はインターネットに関係を求めることが多い気がして、やや不自然には感じるのだが。
「あっ。もちろん絵のスクショは、明里ちゃんが消したわけではないのよね」
「うん」
絵が現実になり、夢が叶った。そんな空想が現実味を帯びていた。
志穂と明里は押し黙った。不気味である。それを打開しようと志穂は口を開く。
「で、でも、明里ちゃんはお姉さんとうまくいってるんでしょう」
それを聞いた明里の顔がパッと明るくなる。
「うん」
明里はこんなややこしい不気味なものよりも目先の幸福を優先すべきだ。
「じゃあ、いいじゃない。もうこんなことを考えるのはよして、ね。今を楽しめば」
今まで暗かった明里が他人との交流を持ち始めた。それは喜ぶべきことで、実際、志穂は心の底から嬉しく思っている。不気味な携帯になど邪魔されず、明里は明里の人生を楽しむべきなのだ。
「そう、だね」
「そうよ」
こうして写真の件はなあなあになってしまった。次の日も、その次の日も、明里は嬉しそうに登校していた。聞けば、姉は本当に別人になったかのように完璧に気性が変化していたのだという。
そんなこともあるのだろうか。いや、今の方を信じるのならば、友人の自殺によって三年間も他人と会話をしなくなったという状態の明里の姉は、元々存在していなかったのではあるまいか。志穂はそんなことまで考え出してしまった。
そんな馬鹿げた考えは、首を振られてすぐに消える。
何より、明里が嬉しそうにしているのだ。それ以上のことはないのだろう。
——がんばれ。
楽しそうに生徒と会話する明里を見て、頬杖をつきながら志穂はそんなことを心からつぶやいていた。
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