Episode2.願いのカタチ—3
九月十七日。志穂が学校を休んだその翌日。
「あっ、おはよう。昨日は、どこ行ってたの?」
そう志穂に尋ねるのは明里だ。姉との関係が回復して以来、彼女の社交性は日に日に増すばかりである。以前との性格の変わりように驚いて近寄りがたそうにしていたクラスメイトともほとんど打ち解けたようだった。本当に人間関係というものはわからない。
「うん、親戚のお墓参りに行ってて」
「そうなの」
両親と、おばさんと、その旦那さんと、志穂のいとこに当たる人と。他にも何人かいた気がする。親戚に名前はややこしく、志穂はあまりそういうものを覚えるのが得意ではなかった。
「ね、それより見てよ。この絵、私のお姉ちゃんが描いたの。上手いよね」
楽しそうに言いながら明里が見せてくれた画面には、髪の長い女の子とショートカットの子が並んで河原に座っている様子が描かれている。髪の長い方はあかりではないようだった。
風が二人の間を吹き抜けて草を揺らし、水に息を吹き込んでいた。
「そう、だね。でも、明里ちゃんもなかなかじゃない」
「そう?」
「うん。前まで書いてたお姉さんと明里ちゃんの絵、光が綺麗で、幻想的で、私好きだったよ」
明里はそれを聞いて眉をひそめた。
「私とお姉ちゃんの絵? 何それ」
「え? 明里ちゃん、ついこの間までお姉さんと一緒に絵を描いてる様子をデジタルでたくさん描いてたじゃん。『夢だ』とか言って」
それを聞いて明里は怪訝そうに志穂を覗き込む。
「何の話? 私そんなことしてないよ」
「嘘。百枚以上描いてたじゃん」
「え? いや、怖いよ。そんないっぱい描けないって。しかもほら、私のスマホのどこにもそんな絵ないじゃん」
だからそれは消えたって、しかも、代わりにしれが現実になったかのような写真が出現して、それを撮った記憶はなくて。
明里が見せてくれたスマホの画面は以前と差して変わらない。十枚の写真。
「きっと、なんか勘違いしてるよ。志穂ちゃん疲れてるんだって」
「え、でも」
笑顔でそう言う明里。記憶こそが過去である。志穂はこんな言葉をどこかで読んだことを思い出した。過去を証明できるのは記憶と記録だけであり、今、記録はない。そして、明里の記憶が変わってしまった。これはあくまで志穂の視点だけど。ということは、明里の過去は変わったとも言えるのではないか。
ぞくっと寒気がする。アイボリーのカバーがついた明里のスマホが白い画面で志穂を吸い込んでしまいそうだった。こんなことを考えている自分が、信じられない。
でも、確信はあるのだ。明里が過去に言ったことこそ本当に違いないという確信は。
「ねえ、明里のお姉さんは、元気?」
志穂は試しに聞いてみた。
「ん? 元気だよ。すごく楽しそう。でも、なんで?」
「いや——」
「ちゃんと寝てよ。体は大事にね」
そう言って、明里は教室の別の生徒のもとへと走っていった。不気味であった。志穂は完全に置いて行かれた。
その日の放課後、明里は何やら生徒たちと話し込んでいた。志穂の後ろの席。黒い鞄のサイドポケット、そこからアイボリーがのぞいていた。
その日の志穂はおかしかった。
とっさに志穂はそれを手に取った。明里のスマホ。
手を伸ばして、明里から死角になるように持つ。彼女の方をチラッと見て、いまだに談笑に耽っていることを確認し、窓へと歩いていく。
放課後まで残るのだろうか。片付けが済んでいない鞄がいくつか開いた窓の枠にギリギリ寄りかかるように放置されていた。
そこに手を伸ばす。携帯を持ったまま。そして、カバンと窓枠の間。その不安定な場所に置いた。ここは二階。鞄を取れば、スマホが落ちるかもしれない。もちろん落ちないかもしれない。チラリと明里の方を見る。楽しそうに彼女の姉の話をしているのを見て、ふと目を逸らした。
未必の故意。という言葉が頭に浮かぶ。慌てて頭を振ってそれを掻き消し、弾かれたようにそこから離れようと足早に歩き去った。
その日は、何も起こらなかった。翌日、明里の態度はいつもと変わらなかった。
「ねえ、志穂ちゃん。昨日私、窓際に携帯置いてたんだよ」
放たれた彼女の言葉に志穂はドキッとした。
「そ、それは危なかったね」
「奇跡的に無事だった」
「よ、よかった」
気づかれていないようだった。罪悪感が心を満たす。
「それは置いといてさ——」
志穂の気も知らず、明里は話題を逸らした。
その日から、明里は暇があったらスマホの写真を眺めるようになっていた。増えた友人と話さない時、一人になる登下校中。彼女は愛おしそうにそれを眺めていた。彼女はもう絵を描くことは無くなった。夢が叶ったのだから当然と言えば当然だろう。
+++
十月七日。
橋があった。ある川にかかる橋。通勤時は、車がまばらに通るものの、今はしんとしている。誰もいなかった。志穂は明里と帰るのは久しぶりだった。
「明里ちゃん、今、どう?」
「え? どうって?」
「いや、だから。お姉さんと楽しい?」
「うん」
この肯定の言葉を明里は大きくいうようになっていた。二人は揃って茶色く汚れた太い欄干に背中を預ける。
「お姉ちゃん、すごく楽しそう。高校時代の話とかいっぱいしてくれるの。高校、私も楽しみになっちゃう」
教室みんなに振り撒く笑顔でそう言う。これまでとの齟齬はないらしい。
「夢が叶ったみたいだよね」
そうつぶやいた声は明里に届いていた。
「え?」
意地悪心だろうか。志穂は明里の混乱を承知で話し始めた。
「明里ちゃんは覚えてないかもしれないけど、以前の明里ちゃんはすごく暗かったの。壁を張り詰めてたみたいでさ。でも、スマホの絵が現実になってさ。すっごく嬉しそうだった」
「うん?」
「このスマホがすごいのかな。それとも明里ちゃんの願いが世界を変えたのかな。どちらにしても羨ましいかも」
水面の音が、ビル風の音が。志穂を掻き立てる。
「何言ってるの?」
明里は怪訝そうにこちらを覗き込む。彼女に気狂いと思われても仕方ないかもしれない。
「うん、何が言いたいんだろうね。私もわかんないや。嬉しそうにしている明里ちゃんとお姉さんはいいなって思うし。でも、写真も不気味だし」
「は、はあ。何で今更? やっぱり志穂ちゃんなんかおかしいよ。大丈夫なの?」
「うん? 今更じゃないよ。気づいてないのは明里ちゃん。ほんとだって。私は平気だよ。明里ちゃんが忘れてるの」
彼女は身を起こしてこちらを見た。
「そんなわけないよ。クラスに聞いてみなよ。みんな私と同じこと言うよ」
「そうかもね。じゃあ、みんな、忘れちゃってるんだ」
「やめてよ。もう。結局何が言いたいのさ」
特に目的があるわけではなかった。明里にもとの明里を知らせたところで何かができるわけでもない。ただ、言いたかっただけかもしれない。きっとそうだ。一人ではできない、声を出しての状況整理。
「うん。明里ちゃんはずるいよ」
「何?」
「いや、何でもない」
「? 志穂ちゃん帰って休んだほうがいいって。ほら、もう行こう」
そう言って欄干から離れ、明里は志穂に背を向けて歩き出した。燻んだ欄干にはアイボリーの携帯が置いてある。背を預けていて起きた時に落ちたのだろう。
志穂はそっとそれを手に取る。いつか見て覚えたパスワードを入力すると自然に開いた。写真のアイコンをタップして、非表示フォルダに入る。
求められたパスワード。0916。恐る恐る入力した数字は、すんなり受け入れられた。一枚の写真。ぶれていても志穂にはわかった。あの時の写真。明里の姉が塞ぎ込んだ理由。
それと同時に思い起こしたのは明里の言葉。“楽しそうに高校時代の話をしてくれた”。友人を高校在学中に亡くした明里の姉にとって、高校時代は忌まわしいもの以外の何でもないはずなのに。
「忘れちゃったのね」
そうつぶやいて、志穂は明里のスマホを放った。
携帯は宙を舞い、川に小さい音を立てて落ちた。パシャン、カシャンが混ざり合ったような音がかすかに聞こえた。見ていた人はいなかった。
落ちたスマホに目を向けず、志穂は明里めがけて駆け出した。心臓が高鳴った。もちろん走ったからではない。
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