Episode1.理想郷—2

 わざわざ制服に着替えることははせずにそのまま定期券を持って駅に向かう。

 人がまばらな電車を乗り継ぎ、一時間ほどかけたどり着いた場所に、人はいなかった。降り注ぐ眩い光を遮る雲はない。

 光に照らされて建物自体はそのままあった。正門から、校舎、見上げると屋上まで今まで通りだった。ただ、がらんとしている。休日だからではないだろう。部活動の生徒もいなかった。

 一通り見渡して屋上を目指した。階段を登るにつれ夢の場所に近づき、胸が押さえつけられているように感じる。心臓がばくばく動いた。

「あっ」

 肩を上下させながらそっと開けた屋上のドアの先にはやはり黒髪の女性、恵理香が立っていた。彼女を見つけて、目を逸らした。予想していたことではあったけれど何と言えばいいのかわからない。

 そう黙り込む私に対して「ありがとう」と 先に口を開いたのは彼女の方だった。その言葉を聞いた時、頭が空っぽになった。

 どうしてそんなことを言うの。的外れにも程がある。私は傍観者の一人で、恵理香に危害を与えていた人だ。彼女を捨て、他の人についたのに、何と罵られてもおかしくないのに、その感謝の言葉だけはあり得なかった。

「あなたが、写真を撮ってくれたから。私は死なずに済んだの」

 そういう彼女は不安定な笑顔をしていた。彼女にしては、綺麗な彼女にしてはそれはとても歪だった。

 写真と言われて手中の携帯に目を落とす。中に保存されている気味の悪い写真が思い浮かんだ。確かに私の意識が途絶えたのはシャッターを押した時だったと思う。

 本当、だったのか。起きる前に見ていた光景は。恵理香は死を選んでいたのだ。一気に血の気が引いた。その上、私の撮った写真が関係しているなんて。怖くて怖くて仕方がない。 知らぬ間に手が震えていた。

「そう。あなたの写真のおかげで私は幸せになれる。この世界は以前と違って私の味方がたくさんいる。前は従姉妹しか私に優しくしてくれなかったのよ! でももう前のように抱え込まなくていい。母も、姉も、友達だって私を」

 愛してくれる、と恵理香は言った。声には涙が滲んでいた。

「私ね、この学校に行かなくても良くなったのよ。目を覚ましてびっくりしたわ。母も父も家にいた。私にとっても優しかったのよ。だから美湖には感謝しなくちゃいけないわ。その携帯に忌まわしい過去を封じて私を救ってくれたんだもの」

 恵理香は一気にそう捲し立てた。美湖には嫌味にしか聞こえなかった。罪悪感が溢れ出て、美湖の口を塞いでしまう。 恵理香が私の名前を以前と同じように呼んだことがさらに一層美湖の胸を締め付けた。

「そんなこと——」

 言わないで。

「私は恵理香を傷つけたのよ。止めなかった。何か一つでもあなたのために動いていたら、声をあげていたら、恵理香は屋上になんて行こうともしなかったでしょう」

 美湖が恵理香を突き落としたも同然だった。彼女が頼れる人は私しかいないとわかっていたはずなのに。

 二人の間をあたたかくも強い風が吹き抜ける。天気はうららかな晴れだが、美湖の周りは荒れていた。

 耳鳴りがする。ついこの間の光景が蘇った。屋上は音に包まれていた。飛び降りろと徴発するような怒号。異質な雰囲気に飲まれた喚き声、泣き声。学校中が声に圧迫されていた。

 そんな中、恵理香は静かだった。泣きそうな、今にも壊れそうだったのに。

 彼女の周りには美湖以上の声がある。中傷は誇張され、泣き声は空っぽの演技に映ったことだろう。もちろん私も演者の一人、ただの裏切り者だったのだろう。

 あんなに恵理香を傷つけたのに、彼女の自殺すら夢だと思って、まだ大丈夫だと思って、何も無かったことにしようとしていた。 そんな自分の愚かしさがむき出しにされ、突きつけられた。

 恵理香を愛する、彼女に優しいこの世界でも、恵理香は幸せになれないだろう。フラッシュバックするいじめの記憶は彼女から安心を奪うに違いない。その彼女から平穏を奪い去る敵は美湖が生み出したのだ。

「ごめんなさい」

 やっと、やっと美湖の声が出た。

「こめんなさあい」

 周りを包む混乱の声に消えないように。精一杯叫んだ。

「ああぁ」

 ぼんやりと曖昧な、光に満ちた彼女が見える。かくんと折れてしまいそうな足でやっと立つ。

 あんな圧力の中で立っていた。恵理香がわからなくなった。

 その気持ちを想像する。それさえ烏滸がましい気がした。

 空は依然青い。美湖の周りを吹きまわる声の嵐は混乱から嘲笑へとその姿を変えていた。

 眩い光が大きくなる。恵理香がこちらに向かって歩を進めていた。一歩、一歩。藍色の制服が揺れる。

 目の前の表情のわからない恵理香から差し出された白い手。痛々しい傷が残るそれは、生気がないように青白い。

「みこ、あなたの携帯を、ちょうだい」

 ほっそりとしたその声は、幻聴の中でもはっきり聞こえた。

 ポケットから取り出し、震える手で手渡す。

「みこがシャッターを押したから世界は変わった。でも、この携帯にはカメラ機能がまだ残ってる」

 しゃっくりが混じって弱々しい。

「みこにそれは押させない。もう、元の世界に戻りたくない。みこがどんなに嫌でも、元になんて戻らせない」

 泣きながらそう言って携帯を受け取った彼女は、ゆっくりと屋上の端へ歩いて行く。

「美湖には感謝してもし切れないわ」

 恵理香が本心を隠せたのはここまでだった。

「私にした仕打ちをその目に、心に、刻みつけてくれたんでしょう。でも、この携帯は壊さなきゃ。あなたがこれを見て罪悪感を覚えるのだとしても。だから、私を忘れないで。絶対に」

 そう。許してもらえるはずなんてない。彼女が心の中の百パーセント私に感謝していうなんてありえない。むしろほとんどが憎悪であるだろう。溢れんばかりの美湖への憎悪を抑えて恵理香は美湖に感謝の言葉を述べている。

 だから、この世界は美湖に多くの苦しみを負わせる。恵理香の望み通りに。でも恵理香が幸せでいられるなら。それでなくてはいけない。 彼女を苦しませたのは紛れもない美湖なのだから。

「私にとってのこの世界での一番のニュースはなんだと思う?この世界はね、この高校の生徒だった人はあなたと私しかいないのよ。お母さんに聞いて初めて知ったわ。もう私はいじめられないの。あいつらがいないのよ」

 そう話せるのは美湖しかいなかっただろう。なぜ美湖がここにいるのか。その理由がわかった気がした。彼女にとって、苦痛でなく、かつ復讐とも言える世界の象徴。

 悲しそうな顔で喜びを口にする彼女は一歩ずつ歩を進める。そして、橋に辿り着いた彼女は手を伸ばした。

 景色が自殺しようとしていた彼女のものと重なる。でもこれからは正反対なのだ。彼女はこれから幸せな生活を送る。その第一歩が今なのだ。

 そしてこちらを振り向いた。

 そのスマホを、そのまま、屋上から捨てる。

 スマホが恵理香の手を離れた。一瞬遅れて彼女は両手で顔を覆って崩れ落ちたように見えた。長い黒髪がふわっと浮き上がり、スカートが広がる。 眩しい光を通して彼女の様子がぼやけた。強がっていたに違いない。本心を並べ立てるのさえ辛かったのだろう。

 光を反射した液晶画面がくるりと周り、校庭へ落ちていく。その様子を、私は静かに見つめていた。

 そして小さくもはっきりした音。カシャンという世界が壊れる音がかすかに聞こえ、あたりは一瞬静かになった。



     +++



 それから美湖は再び、群がる生徒のナイフのような声の嵐に引き戻された。青かった空は曇天に変わっていた。

 恵理香の願いを裏切って、世界は、戻った。

 がらんとしていた校舎には人が戻り、先程まで光に包まれていた屋上は人だかりができている。怒声が響いていた。真っ黒だ。

 その中で、美湖は何もできなかった。ただ茫然と立っていた。恵理香の姿を眺めているうちにハッと思い出してスマホを出した。校庭に叩きつけられたはずのそれは傷ひとつなかった。黒い画面ではなくなっていた。まるでさっきまでの出来事をただの夢としてかき消すかのようだった。

 勝手な願いを込めてシャッターボタンを狂ったように連打する。パシャパシャと乾いた音が怒号にかき消された。

 しかし記録されるのはぼうっと立っている恵理香と、取り巻く人々の狂乱ぶりだ。それだけ。

 世界が暗転することも、屋上が再び静かになることもなかった。

 これが運命だったのだろうか。恵理香の願いは聞き入れられず、一瞬のすぐに壊される希望だけが与えられた。美湖に与えられたのは彼女に謝る機会だけ。後悔は増幅され、よりはっきりしただけだった。

 こんなものなら、なければ良かった。

 そう思ったのは美湖だけだろうか。

 真ん中にいる恵理香は、こちらを向いて、目を大きく見開いた。

 一陣の風が吹いた。短い髪が美湖の視界を覆い隠す。

 その直後、視界が戻った時にはすでにそこから一つの光が消えていた。そして周囲に静寂が訪れた。

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