世界を内包する。

譜錯-fusaku-

Episode1.理想郷—1

 九月十六日。

 空はどんよりと重く曇っている。

 屋上と校庭には人が集まり、重い空気がビリビリと震えている。

 その中心に恵理香は立っていた。彼女は縁に立って藍色のスカートをはためかせ、静かに下をじっと見つめている。

 落下防止のフェンスは無い。それが事態の異質さを際立たせていた。

 人だかりに混じって美湖は震えながら恵理香を見つめていた。



 横家美湖と橋本恵理香は平たくいえば友達だった。小・中と交流があった。親友とまでは行かないまでも、仲は良かったのだ。時折二人で話を交わし、移動教室もいつもとはいわないまでも一緒だった。

 二人ともあまり人付き合いが得意な質ではなく、お互いの他に友達と呼べる人もいなかった。

 要するに、余りモノの寄せ集めだったのだ。仲良い友人同士でグループが作られ、そこに入ることができなかった美湖たちは次第に周りから孤立していった。そこで、しょうがなく自衛のために仲良くなったようなものだ。

 しかし、それほど冷めた関係でもなかったのも事実。互いに心の拠り所となり、おかげで大過ない中学校生活だった。

 美湖はそのまま続くと思っていた。恵理香のことは嫌いではなかったし、高校になっていきなり彼女に代わる友人ができるはずはなかった。各々バラバラに進学していく中で、同じ高校に入った美湖たちは、仲良くなる条件を兼ね備えていたからだ。

 美湖と恵理香。それ以外が完全に変わってしまった高校の教室で、そのままの関係が続くと思っていた。

 それを壊したのは気にかけたことも、話したこともないクラスメイトの一言だった。


「恵理香ってさ、暗いよね」


 それはなぜか美湖に投げかけられた言葉だった。彼女はクラスの中心で、他にも話し相手はいたはずだった。

 いきなりだったからだろうか。美湖はその蛇のような言葉にはっきりと反対の意を示せなかった。戸惑っただけなのか、周りを囲む女子の威圧に耐えられなかったのかは知らない。相手はそれに満足したようににっこりと微笑んだ。そして言った。

「美湖ちゃん、今度遊びにいこう」

 美湖は思わず頷いた。それが始まりだった。

 そうして二人の親交はなくなった。全く脆いものだった。あの頃の根拠のない信頼はどこへいったのか。美湖も元に戻ろうとしなかったのだから、何かを変えてみたかったのかもしれない。美湖は新しい仲間と関わり、時々恵理香を気に掛けていながらもそのメンバーと毎日を過ごした。 変化と刺激に満ちた日々はとても楽しかった。これまでにないくらい。

 そして、当然のように一人になった恵理香は虐められた。美湖とは正反対だった。こうまでに変わるのか。そんな純粋な驚きが胸に満ちたほどだった。

 もともと温厚で地味な彼女は常にどこかピリピリしていたクラスの格好の的だった。美湖は何もせず、時折彼女がこちらに向ける視線にも、全て無視を貫いた。虐められるのが怖かった。そんなありふれた理由だった。 変わった世界を守ろうとやっていたことだった。

 そして今、美湖は周囲を圧迫する雰囲気に耐えられなくなっている。



 叫び声が響き渡る。誰も心の声を隠そうとしなかった。

「恵理香っ、やめて」

 美湖も周りに混じって同じように泣き叫ぶ。彼女はこちらをチラッと振り向き、また目を戻した。そして周りの喧騒がまるでないかのように静かに屋上の縁から身を乗り出した。

 それを見て美湖は咄嗟にポケットから携帯をとり出す。そのままシャッターボタンに指をあてた。恵理香が一瞬こちらを振り向く。大きく心臓が跳ねる。

 そのまま、写真を撮った。なんのためかわからない。聞かれれば何となくとしか言答えようが無いだろう。自分に思い出させるためかもしれない。美湖の罪を、刻みつけるため。


 パシャ


 その乾いた音は怒号の飛び交う屋上でもなぜか際立っていた。そして、シャッター音の余韻が消えぬうちに世界は黒に塗りつぶされた。



     +++ 



 ぱっと目を覚ましたのはアパートの寝室の上だった。カーテンを開けると眩い光が差し込んできた。明るい日光に拍子抜けした。

 どうやら夢だったらしい。軽く胸を撫で下ろす。背中は寝汗でベタベタだ。早く着替えなければならない。

 それにしても、あんなに真に迫る精巧な夢を見たのは初めてだ。もしあれが現実だったら、考えるだけで恐ろしくなる。友人の恵理香がいじめられているのは本当だ。それが徐々にエスカレートしていることも、美湖が何もできないでいることも。だから断片を思い出すだけでも恐ろしい夢だった。とても、怖かった。

 着替えが終わり、ちらっと携帯に目をやる。土曜日の時刻は午前十時。

 スマホをもち視界に入る髪を耳にかける。ショートカットなのですぐに落ちてくるが、美湖はその仕草が癖になっていた。

 悪夢にため息をついてロックを解除した。しかし画面は以前と全く違っていた。スライドしても変わらない。普通ならば検索エンジンや様々なアプリケーションが表示されるはずだ。

 問題は再起動しても変わらなかった。真っ黒い画面の真ん中にはカメラのアイコンと写真アプリのみが表示されている。

 全身の毛が逆だった気がした。これはいくらなんでもおかしい。それに、写真のアイコンは今朝の夢を想起させた。恐る恐るそれをタップする。大きく表示されたのは一枚の写真。ブレが酷く、見れたものではないが、それは紛れもなく夢のなか美湖が撮った写真だった。

 青い制服を着た髪の長い女性、恵理香が屋上から身を乗り出し、今にも飛び降りようとしている様子。

「ひいっ」

 咄嗟に携帯から手を離す。夢の情景がフラッシュバックする。動悸がなかなか治まらない。何が起こっているかわからない。

「な、んで」

 掠れた声は虚空に消えた。恐怖が一気に湧き上がってくる。

 夢ではなかったのか。それとも今が夢なのか。何もわからずに混乱するばかりだ。

 とりあえず誰かに電話をしようとしたところで気づく。この携帯には連絡アプリが表示されていない。再び手に取って開けても同じだった。不気味な画面。

 ひとまず公衆電話を使おう。どたばたと家を出る。人がいないわけではなかった。いつも通り近所のお婆さんは犬の散歩をしていたし、ジョギングに励む中学生の姿も見受けられた。ただ皆が自分のことに集中しているようだった。美湖だけが周りに関心を持っているようで、異質だった。

 走り回ってやっと見つけた一台に小銭を入れてボタンを押した。微妙にずれて鳴るプッシュ音が焦りを掻き立てる。

「はい」

 怪訝そうな顔で電話に出たのは母だ。ほっとして返す。

「お母さん、ちょっと聞いて欲しいんだけど」

 小さな沈黙が挟まる。

「えっと、すみません。番号間違えていらっしゃいませんか」

 言葉に凍りつく。そんなはずはない。間違いなく母の番号だ。

「私に娘はいません。では」

 混乱のうちに電話は切られた。どうしようか。何もわからずしばらく呆然としていた。

 直接話をするにしても、家に行くには遠すぎる。それに、今の感じでは追い返されるだけだろう。

 少し考えて友達に電話をかけた。聞き入れられるかは疑問だったが、とりあえず誰でもこのことを話したかった。

 いくつかの回線接続音が鳴った。

「お探しの電話番号は、現在使用されておりません」

 聞こえてきたのは無機質な声。友人たちに際しては、電話すら繋がらない。携帯がないのか。美湖のようになっているのか。はたまた——。最後については首を振ってかき消した。そんなはずはない。ありえない。

 それが一番可能性が高いことは携帯を見た時点で頭ではわかっていたはずなのだけれど。

「はあ」

 ため息をついて空を見上げる。

 何をするべきか。考えついたのは学校に行くことだった。 正確には考え直した、だろう。その考えは、ずっと前から持っていたはずだ。

 これがただの夢か現実か、どちらにせよ確かめなくてはならない。どうやら一連の不可解な現象は夢の写真が原因になっているようだから。

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