第2話「深夜残業の向こう側は異世界でした」

 問い。

 深夜残業の向こう側は、変わり映えのしないいつもの日常か。

 答え。


 ――残業の向こう側は異世界でした。


「さて、記念すべき公僕六号君。まずは君の名前を訊こう」

「せめて少しはぼかして欲しかった……」


 少女の言葉にげんなりできるうちは大丈夫。

 そんなよくわからない安心のしかたをしながら、俺はふいに窓に薄く反射した自分の姿を見る。

 見慣れた黒い髪。顔つきは変わらない。


「目が……」


 しかし一点だけ、おかしな点があった。


「……青い」


 それはもはや瑠璃色るりいろとでも呼ぶべき深さで、人種の違いとして説明するにはあまりに不可解な色だった。


「大丈夫?」

「あ、は、はい」

「ちなみに私の名前はアールシャ。アールシャ・アールライト。みんなは私のことを〈室長〉と呼ぶけど、せっかくだから君にはアールシャと呼んで欲しいな」


 俺は、いぜんとして白髪の少女――アールシャに腕をつかまれたまま、空飛ぶ書類だらけの部屋の片隅にインターン学生よろしく立たされている。


「で、もう一度訊くけど君の名前は?」

「……夜刀見ヤトミ・シンラ」

「夜刀見・シンラか。かっこいい名前だ」


 少女は感心したように小さくうなり声をあげた。


「名前はシンラの方?」

「あ、そうです」

「ちなみにどう書くの?」


 そう言いながらアールシャが近場を通り過ぎようとしていた紙とペンをつかまえて俺に渡してくる。

 俺はなされるがままそれを受け取り、紙の上に自分の名前を書いた。


「なるほど、そう書くんだね」

「いや、ちょっと待ってほしい」


 文字を書いた。名前を書いた。だがそれは俺の知っている文字ではなかった。


「自分で書いた文字が信じられない?」


 英語とも、ラテン語ともつかない奇妙な字体。見たこともない文字だ。

 それなのに、俺にはその意味がわかった。。


疑似神族アルターにいじられているね。間違いない。君は〈特務官候補〉だ」


 アールシャが確信したようにうなずいた。


「あまり深く考えないほうがいいよ。頭の中の言語基体をいじられることは往々にしてある。そしてこの場合、不本意ながらあったほうが良い特典だ」

「はあ、わ、わかりました」


 納得はまだできそうにないが、この現象についていくら考えても明確な答えが出せそうにない。俺はいったん自分の描いた文字について考えることをやめ、再びアールシャの顔を見た。


「ところでシンラ、私に敬語は使わなくていいよ。たぶんくらいだろうし」


 同い年。年端もいかない少女に言われると変な気分になる。

 しかしその言葉にはなにかしらの意味があるのだろうと思った。

 そう思わせるくらいには、アールシャの佇まいは妙に大人びていた。


「じゃあ、そうさせてもらうよ、アールシャ」

「うん」


 あらためて名前を呼ぶと、アールシャは少しうれしそうに笑った。


「さて、もろもろ説明してあげたいところだけど、〈赤い死神〉が出ちゃったからね」


 それがどういう存在なのかはわからなかったが、この事務室の様子からも今が慌ただしい状態なのは間違いなさそうだ。


「あの、一個だけ聞いておきたいことがあるんだけど」


 それを承知のうえで、俺は一つだけアールシャに訊ねた。


「ん、なんだい?」


 そもそもの話。


「ここ、どこなんですか……」


 俺が質問をすると、少女――アールシャは腕を組んでまた小さくうなった。


「……うーん、毎度のことだけどどう説明したものか悩むな」


 目を閉じ、しばらく考え込む素振りを見せるアールシャ。

 しばらくして彼女は目を開き、その赤い瞳を俺に向けながら言った。


「シンラは、世界が複数あると言ってそれを信じることができる?」

「世界?」

「そう。君はついさっきまで別の世界にいて、とある事象のせいで一瞬のうちに世界を渡った」

「信じられる信じられないで言えば後者だけど……」


 しかし事実、それをいったん信じなければ目の前の光景を説明できない。


「俺、世界を渡ったの?」

「うん、渡った」


 端的すぎる回答。


「まあ、聞くより見た方が早いと思う。実は今から〈大変動〉後のダンジョンのマッピングに行くんだけど――」


 さっきからやたらと聞き慣れた単語が聞こえてくる。

 ダンジョン。まるでゲームだ。


「ダンジョンってあのゲームにあるような?」

「おお、ゲームまでわかるんだ。これなら話が早そうだ。――そう、おおむねシンラが知ってるダンジョンだと思ってもらってかまわない。誰が作ったのかわからない。中にはたまに財宝が詰まっている。そしてときに罠や敵対するモンスターによって、人々に手痛い死が与えられる」


 復活の呪文は使えるのだろうか。


「唯一異なるのは、その規模だけ。ダンジョンは放置すると世界を崩壊させる」


 とんだダンジョンがあったものである。


「さっきも言ったとおり、これから実際にダンジョンにもぐる。で、もしよかったらシンラも一緒に来てみる?」


 この、ピクニックにでも行くかのような気軽さで言った彼女のことを、俺はのちにほんの少しだけ恨んだ。

 そしてそれ以上に、『たしかに見て体験した方が早い』と今までの価値基準で返事をしてしまった自分をたいそう恨んだ。

 このあと俺は半分夢見心地のまま、彼女のいう〈ダンジョン〉へと旅立つ。

 やがて俺が〈ダンジョン〉から帰ってきたとき、すでにブラックな公僕ではなく、言うなればその次段階にて最終形態――


 深淵闇アビスブラックとでも呼ぶべき立派なダンジョン対策室の公僕になっていた。

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