第10話 佃島のしこり

「大人になった今頃は恋人だっているだろうし」


「どうかな。恋人の話は聞いた事はないけど」


「悪かったね。蘭ちゃんの話ばかりしちゃってさ」

 嫉妬の匂いを嗅ぎつけた純は、黒谷の妹の話を強引に切り上げることにした。


「良いけどぉ」

 話に合わせるように口先をすぼめて黒谷は答えたが、その表情にはほっとした気分が混じっていたようだ。


 残り少なになったボトルから黒谷のグラスにワインを注ぐ。


「さあさあ、もう一杯やってくんな」


「うん。でも一ついても良いかな」


 見つめる黒谷に少し身構える。


「じゅん君が佃島を避けている本当の理由を知りたいの」


 あの時から気になって仕方が無かったのだ。訊いておかなければ純との仲が順調に進んだとしても、広瀬明菜のようになってしまう自分が見え隠れしていた。


「言ってもいいけど、怒るなよ。今はそのことについて俺、何も思ってないから」

 言いたくは無かったが一方で言ってみたい気持ちもあった。


「どういうこと。約束するから言ってみて」目が真剣になる。


「中学卒業と同時に、親父の転勤の都合で俺は佃島を出て行った」


「うん」


 二人の耳には最早もはや、花火の喧騒けんそうは聞こえなくなっている。


「黒谷は地元の高校へ進み、俺は八王子の高校へ進学した」


「うん」


「俺は新しい高校へ慣れて来た頃、五月だったかな。黒谷に会いたくなって佃島に一度だけ戻ったことがある」


 純は黒谷の反応を待った。黒谷はかなり驚いた様子を見せる。


「本当に」


「本当さ。その時もんじゃタウンの通りで原田と出合った」


「はらだ?」


「一組の原田仁志」区切るようにはっきりと発音した。


「はらだひとし君て」フルネームを聞いても知らない名前だった。


 純はやや首を傾げながら先へ進めた。

「黒谷は同じクラスになったこと無いのかな。その原田から聞いたんだ。黒谷だったら高校で新しい恋人ができて、二人は今評判のカップルなんだって。お相手は両国中学出身の、その世界では名前が売れてるサッカー部。だから黒谷百合と会わない方がお前の為だって……」


「誰なの、その人」そんな話は一度として聞いたことが無い。


「誰って」純は固まった。


「だから、そのサッカー部だよ。そんな人知らないよ」黒谷の言葉が強くなった。


「何だって」


「原田君にだまされたんだよ」呆れたが純の人の良さに愛着すら感じた。


(騙されやすいままだし)


「そう・な・の・か……」

 腹が立つよりもむしろホッとした。


「どうして本人に会って確かめなかったの」

 純自身の為にも自分の為にもしっかりしてもらいたかった。人の良さも大事だが信頼関係はもっと大事なことだから。


「できる訳無い。そんな恐ろしいこと」


 とんでもないと言う様に頭を振る純にカチンと来た。


「じゅん君は黒谷百合を信じていなかった……そういうことだよね」


 詰問する黒谷に魅了された。姉さん気質あねさんかたぎが好きなのだ。姉に叱られた弟のように純は弁解する。


「怒らないって約束だったろ。俺がバカだったよ」


 情け無い純をむしろ可愛いとさえ思い鉾先ほこさきゆるむが釘は刺しておかなければならない。


「怒ってはいないけど これだけは言わしてね。黒谷百合はそれほどうわついた女じゃありませんから、そこの所よろしく」


「はい。黒谷は決して浮ついた女ではありません」


「誹謗中傷に気をつけ、本人に確認すること」


「勇気を出して本人に確認します」


「いいわ。その時のことは勘弁してあげる」


 しおらしくしていた純は、黒谷の笑顔に安心して質問を投げ掛けた。

「会うのは正直怖かった。だからあの時黒谷の家に電話してみたんだ。でも電話は通じなかった」


 当時、しつこいストーカーの嫌がらせに黒谷百合は悩み家族全員が心配していた。


「家の電話番号変えたことがあったよ。丁度その頃変なヤツに付きまとわれて、しょっちゅう無言電話が掛かって来ていた。あれが原田君じゃなかったのかな」


「そうかも知れないな」

 再び落ち込んだ純は呟いた。

「誤解だったんだな、全部俺の」


「良いじゃないの。こうして誤解が解けたんだから」


 昔のことなんだから忘れた方が良いよと黒谷は言った。

しかしながら原田の一件は古傷の痛みを鮮やかに思い出させた。

原田とは一年二年と同級で仲も良かった。アイツも百合が好きだっただけなんだ……そう思って忘れてしまえば良いのか。佃島に対する偏った感情のしこりは、解け掛かっていた所で再びしこってしまった。

(佃島、狭くて息苦しい街だ……)

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