第6話 電話の告白

 あの日広瀬と別れた後、純は銀座とは反対方向に歩いた。

心の中で、これまでの二年余りが次々と思い出のページをめくるようにまわっていた。

ふと気が付くとそこは勝鬨橋かちどきばしだった。橋から見下ろす隅田川。対岸に見えるのが中州の島、佃島つくだじまだ。十年振りに外から眺める故郷の町……東京中心部近くにありながら郷愁を感じさせる不思議な町。

 川風か海風か、僅かに湿った風が男の髪を揺らして行く。暫くたたずむと男は橋の半ばできびすを返した……


「あの時、衝立ついたての後ろに君が居たのか」

 男はあの時の風を首筋に感じながら、電話の向こう側にそう訊いた。


「うん」


修羅場しゅらばを見られたって訳だ」


 修羅場と云う生々しい言葉を使ってみたが、僅か一週間前の出来事がこの時の純には遠いことのように思える。


「そんな…… ただ私、あの時じゅん君を困らせていたあの人が憎かっただけ。自分勝手な人って思った」


 黒谷くろたには困ったように言い訳した。


 あの日からの純は、既に手遅れではあったが広瀬の気持ちを何度も考えてみた。


「あれは……俺も悪かったんだ。明菜の気持ちを分かってやれなかったのは俺だから」


「そういう所があったのかも知れないけど」

 静かな口振りに、黒谷は心なしか物足りなさを感じていた。


「どの辺から話を聴かれちゃったのかな」

 不意に純はそう訊ねた。


 黒谷はあの時の状況を思い浮かべてみる。

「もんじゃタウンという言葉で、地元の話かなとついつい聞き耳を立ててたら、じゅん君の名前が出て来て、もしやって思ったらずっと聞き入っちゃって……ごめんね」


「いいんだ。あんな、人の居る所でケンカする方がどうかしてるんだから」


 状況は黒谷のまぶたに今まさに浮かんでいる……結婚の話が出るほど仲が深いこと、何故か純が佃島を避けていること、階段口の前で女の背中が震えていたこと、どうしてと叫んだ純が酷いショックを受けていたこと……そのシーンは黒谷たちの座敷の真ん前で行われていたのだ。


「階段降りていく所も見ちゃった」


「そうなんだ……」


「じゅん君とても寂しそうにしてたから、後ろから抱きしめたくなった、あの時」


「同情されるようじゃお仕舞いだな」


「そんなこと言わないで」声は消え入りそうだ。


「心配してくれて、電話番号まで調べてくれて、俺を慰めようとこうして掛けて来てくれた。そういうことか」


 黒谷は電話したことを悔やんだ。

 沈黙が純に正気を取り戻させた。


「ごめん。あの時の感情が蘇っちゃってさ。黒谷に電話もらって本当に嬉しかったよ。俺、もう大丈夫だから心配しなくていいよ。黒谷は自分の恋人だけ大事にしてやって」


「恋人なんて居ない」


「まさか」


「付き合った人は居たけど、随分前のことだし」


「黒谷がずっと空家なんてな」


「そんな下品な言い方しないでよ」


「ごめん‥やなヤツだな、俺って」

 すっと素直になれた。やや間を取ってから黒谷が問い掛ける。


「じゅん君、同情だとか思わないで聞いてくれる」


「何」


「来週の土曜日、東京湾花火あるんだ。その日何か予定ある」


「特に無い」


「だったら二人で見に行かない」


「俺、佃島にはあまり行きたくない」


 隅田川の花火も、東京湾の花火も、昔は佃島から眺めたような気がする。それはそれで綺麗だった筈だが……


「私、お台場から見てみたいの。レインボーブリッジと花火って素敵でしょ」


 明るい口調に純がつられる。

「そうかもな。台場からの方が一般的だよね」


「じゃあ約束」


「本当に同情じゃないな」

 慰めならお断りだが黒谷には会ってみたい。


「そんなんじゃないよ。さっき告白したでしょ」


 純は戸惑う。

「何を」


「わからないなら良い」


「何だよ、はっきり言ってくれよ」

 告白されたっけ? 純は二人の会話を思い出してみる。その間は黒谷には居心地が悪かった。


「いやよ、鈍い人は、キ・ラ・イ」


「分かったよ、どこで待ち合わせする」


 告白と言われて悪い気はしない。その後二人は現在進行形の恋人同士のように暫しおしゃべりを楽しみ、混雑が予想される花火当日は、お台場の自由の女神像の前で午前の内に待ち合わせることにした。


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