走馬燈
ナイフは右脚のふくらはぎに刺さっていた。
「藤井くん、逃げるつもりか?まだ話が終わってないよ」
芳川が四つん這いで少しずつ迫ってくる
逃げなくては……
そう思い立ち上がろうとするも、焦りのあまり足がもつれる。
仕方なく
その間に、ナイフが脚からすっと抜ける感覚があった。
しかし、今はそのことよりも屋上からの脱出が最優先だ。
上半身は出入口の内側に辿り着いた。非常灯が幻想的に空間を照らしているように思えた。
早く逃げなくてはという焦りばかりが先行して、進む速度が遅く感じる。
その瞬間、背中に重圧を感じた。芳川が自分の上に乗っかってきた。
身体の芯がキュッと絞まって息苦しい。手や足にかいていた汗が瞬く間に引いていく。
心が恐怖と絶望で埋め尽くされた。
突如、髪を掴まれ、頭を無理やり持ち上げられる。
「まだ、話が終わってないよね?」
次いで、掴まれた頭を地面に叩きつけられる。
「スタンガンで気絶したと思ったか?残念、してませんでしたぁ」
「可哀想な中学生相手に散々実験したからな。悶絶する程の苦痛と身体の痺れはあるが……それだけだ」
駄目だ、怖い、怖い、怖い、怖い。
頭が変になりそうだ。どうすればいい、どうすれば……。
「目茶苦茶痛かったよ。やってくれたな、藤井くん……倍返ししないとな」
頭に強い打撃を受けた。視界に火花が散った。
二回、三回、四回……数えるのも億劫になるくらい後頭部を殴られる。
いつまで続くんだ……早く終わってくれ。
意識が朦朧としてくる。しかし、再び髪を掴まれ、頭を持ち上げられる。
「まだまだ、これから本番なんだから寝るなよ」
そういった芳川の顔は非常灯が逆光になってよく見えなかった。
だが、声の感触から興奮と高揚をしている事だけは伝わってきた。
「なん……だ、なんで、こんな事を……」
苦痛から逃れるために何でもいいから時間稼ぎをしたかった。
「まだ、喋る元気があったか。かんたんな話だよ」
芳川が沈黙する。おそらく数秒の間だったと思う……だが、永遠に感じるくらい永く感じた。
「面白いからさ。人間が壊れていく様は最高のエンターテインメントだと思わないか?」
芳川の乾いた声に自分の死を確信する。
その瞬間、SNSの通知音が響く。
殺伐とした空間に聞こえた間の抜けた音が……俺には救いの音に聞こえた。
芳川が俺の頭を離し、ダッフルコートを漁り、スマホを取り出す。
「如月か……うぜぇな」
横目でチラリと見えたスマホの背面にオレンジのロゴが見えた。myPhone……か。
そういえば、部室棟の画像をEXIFリーダーで見た時に載っていた機種もmyPhoneだったな……
こんな時に考えることじゃないと思ったが、頭の中をここ数が月の出来事から、子供の頃の記憶まで呼び起こされるようで止まらなくなっていた。
……これが走馬燈というやつか。
『悟、何ぼーっとしてるんだ?俺の話をちゃんと聞け』
死んだはずの父親が見えた。いよいよ、走馬燈から彼岸に到着したらしい。
父さんは極めて真面目な顔をしていた。
どこかいつもヘラヘラしている印象があったから、こんな真面目な顔をしていることに驚いた。
眩しいくらいの日差しが縁側に射し込んでいた。俺はいつの間にかそこに座っていた。
これは我が家……か。
心地よい日差しとゆるりとした風が肌を撫でる。
今どき、縁側がある家は珍しい。でも、そこは父親のこだわりでもあった。
春は桜で花見をして、夏は花火に蚊取り線香。秋は銀杏を肴に晩酌と洒落込む。正月は羽子板をして、餅食って……。
縁側にはそんな夢が詰まっているんだとよく聞かされた。
父さんが俺の顔を見ながら諭すように話す。
『悟……大した話じゃねぇんだがよ。まだ、こっちに来るには早いな。もう少しジジイになったら会おうぜ』
無理だよ……父さん。今、殺されそうなんだ。
笑っちゃうけどさ、走馬燈って本当に存在したんだな。初めて見たよ。
父さんが少し申し訳無さそうな顔をした。
なんで、そんな顔するんだよ。
『悟……お前はちゃんとやることはやった。だが、まだやってないこともある』
『お前は死んでなんかいない。生きてりゃ大体なんとかなる! 』
はっとする。
頬が冷たい……。
自分がリノリウムの床に横たわっていることを思い出した。
芳川はスマホを操作しているのか、今のところ動く様子はない。
右を確認する。
ある……あるぞ。そうだ、あるぞ!
なら、やることは決まっている。
「芳川……部室棟の盗撮……犯人はお前だな」
沈黙があたりを包む。
「そうだ。それがどうした?」
芳川は自分が有利な立場にいることで油断をして"YES"と取れる返事をした。
「画像に情報を残したのは失敗だったな……バケツ落下事件……の警告画像もお前だな?」
「それは僕じゃない。今更、そんな事を聞いてなんの意味がある?」
腫れた顔が少し痛かったが思わず、ニヤリと笑ってしまった。
「関係者以外知らない情報に即答……か。自分がバケツ落下事件の犯人だと言っているようなものだ」
迂闊な発言に気がついたのか、芳川が舌打ちをする。
「してやったり……みたいに思っているみたいだが、何も証拠は残っていない」
確かに大部分は残っていない。だが、走馬燈を見たことで思い出したのだ。
芳川が持っているmyPhoneが如月が持っていたものと機種が同じだった事を。
「裏サイトに画像をアップロードしたのは……山井じゃなくて、如月だな」
山井は芳川に何かしらの弱みを握られていたのかもしれない。
いいように利用されて懲戒免職になった山井が少しだけ気の毒になった。
「ご明察、さすが名探偵。確かにそれは如月が撮影して裏サイトに投稿したものだ」
そういうと、芳川は立ち上がり何かを拾って戻ってきた。
また、俺に馬乗りになると俺の頬に冷たい何かを押し当てた。
「お前はここで死ぬ。真実は藪の中だ」
それがナイフだと気がついた。
だが、刺されたわけでもないし、死んでもいない。つまり、諦めるなければ、大体何とかなる。
なら、するべきことは信じて待つことだろう。
「芳川……そんなに俺たちが怖いか?」
「あっ?」
空気が張りつめる。
「バケツ落下に、自宅へ投石、ゴミ屋敷の崩壊……そして山下の階段転落事件……」
芳川は黙って俺の話を聞いているのか動きはない。
「今までは全て事故に見せかけて事実を葬ってきた。だが、病院での出来事や、今の状況は異常だ……必ず足がつくぞ」
芳川が鼻で笑った。
「つかないさ……僕は今まで上手くやってきた。これからもそうだ。俺の罪は室伏が被ることになる」
「人殺しを素人の隠蔽工作で誤魔化せると思っているのか? 」
「試してみるさ。人を殺すのは初めてでね……」
芳川がまた興奮を始めたのか息が荒くなる。
狂人と化した芳川には人間の言葉は通じないのかもしれない。
何故、芳川は急にこんな凶行に及んだのか……。
ふと、閃いたことを口に出してしまった。
「……如月にふられたのか? だから急にやることが雑に……」
慌てて口を噤んだが遅かった。
今までで一番長い沈黙だった。この小さな空間から音が消え去ってしまったかと、錯覚する程の静けさで失態に気がついた。
しまった、これは悪手だ。
ナイフが首筋に向かって移動する。
身体が芳川の太ももで固定されて、俺の頭を抑えつける左手の力が強くなった。
自分の右目から視界の端に僅かに見える芳川は化け物にしか見えなかった。
「勘違いするな……僕がふってやったんだ。もういい、死ね」
もう、……駄目だ。
父さん、ごめん。
俺はもう……。
「♫♪♬♫♪♬♫♪♬♬♫♪」
軽快な音楽が屋上の出入口を囲う狭い空間に反響していた。
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