7月27日『渡し守』

その翌日、閉館後の星空図書館には小豆あずき聖蘭せいらんが残ってくれていた。

愛衣は昨日、小豆に文夜の霊を呼んでほしいと頼んだのだった。死者の魂を呼び起こすことには多少抵抗があったが、一度文夜と話してみたかったのだ。

話を聞いた来夢も頷いてくれたが、聖蘭を見るなり苦い顔をしたのだった。

「話はわかりました。で、なんで聖蘭まで残ってるんです?」

「なによ、私がいちゃいけないわけ? 小豆をひとり残しておけなんかいけないわよ」

小豆を抱き寄せて聖蘭はべーっと舌を出す。

「小豆ちゃん。あの二人、いつもああなんですか?」

「えーっと、夢川むかわくん、学校に来ないから私も接点がなくて知らないんだ……」


「それじゃ、小豆ちゃんお願いします」

「うん! わぁに任せて!」

赤い宝玉がついた数珠をぱっと構え、軽く咳払いをする。

「『死者の国を彷徨さまよう魂よ、我の声に応えよ!』」

凛とした詠唱が響き、小豆の足元に魔法陣が広がる。三つの赤い宝玉が怪しく輝き、すうっと収束していく。

けれど、幽霊らしき影はどこにも見当たらなかった。

「あれ?」

小豆も不思議そうに辺りを見回して、首を傾げた。小豆にしか見えないと思ったが、どうやらそうでもないらしい。

「あれ? あれれ? おっがしいなぁ、失敗したことはないはずなんだけど……」


「わっ!!」


小豆の顔に垂れ下がるように誰かが逆さ吊りになっていた。それを見た瞬間、小豆の表情が急速に恐ろしいものを見たような形相ぎょうそうに変わっていく。


「ぎゃああああああああああああッ!!!!?!」


小豆の悲鳴が図書館内に響き渡った。


「あっはっはっは!! こりゃ参った! 驚かそうと思ったら、逆にこっちが驚かされちまった! これがミイラ取りがミイラになるってやつか、でら笑える、腹痛てぇ死にそう!」

逆さ吊りになってふわふわ浮かんでいる少年は、腹を抱えて一頻ひとしきりにバカ笑いしていた。なんというか、日記に書かれていたような知的で爽やかで頼れるお兄ちゃん、というイメージが音を立てて崩れた。これじゃあイタズラ坊主と言った方がしっくりくる。

「わ、すげえ。俺と同じ目の色! っていうか、みんななんかカラフルだなぁ。今じゃこれが普通なのか?」

愛衣の目の前に降り立ち、物珍しそうに愛衣の顔を覗き込んだり、図書館の内装を見て回ったり、一気に螺旋書架の最上階まで飛び上がって天窓のステンドグラスを叩いたりしていた。

「俺の母方のばあちゃんがロシア人でね。この目の色はその遺伝。なんなら髪も銀色になってほしかったんだけど、クォーターならこんなもんか」

ふわっとまた愛衣の目の前に降り立った。

「そんで、俺を呼び出して、なにが聞きたいんだ?」

「え?」

「『死人に口なし』っていうだろ。その死人に口を割らせるって、よほど君たちに知りたいことがあるってことだら。違う?」

あれ? なんだか急に雰囲気が変わった。

「文夜さん」

「あれ、俺の名前知ってるの?」

「これに書いてありました」

千燈の日記帳を胸の前に掲げて見せると、はっと目を瞬かせた。

「あぁ……せんせーのところにいた……喋らなかった子の」

愛衣は一歩前に進み出た。

「一之瀬愛衣です。貴方を呼んでほしいと頼んだのは私です。お話してみたかったんです、文夜さんと」

「俺と?」

「はい。私も物語を書く身なので」

そう言うと、文夜はぱちぱちと瞬きして、花が咲くみたいに笑みが広がっていく。こうした創作の仲間に初めて出会えた、とでも言うみたいだ。目は口ほどに物を言う、とは本当だった。

「文夜さんは、この書きかけのお話を、どういう結末にしたかったんですか?」

ぱらぱらとページをめくる愛衣の手元を見ていたけれど、途中であっと声をあげた。

「そっか。俺、ちゃんと完結させてなかったんだっけ」

何も書かれていないページを覗き込んで、なんだか感慨深そうにひとりごちた。

「じいちゃんが読書家でさ」

ふと、思い出したように文夜は螺旋書架を見上げた。ぐるりと縦に一回転して、愛衣の頭の上でふよふよと自由に浮かび始めた。

「いろいろ読んだよ。純文学に大衆小説、ミステリーに時代小説にライトノベル、ちょっとむずかったけどノワール小説も。どれも面白いよ。面白いんだけど……なんだけどさぁ、なんだか、怖い」

「怖い、ですか?」

「だって……救われない話が多過ぎる」

視線を彷徨わせて、文夜は寝返りを打つようにごろんと宙で転がった。

「物語ってさ、想像で、創造でしょう? 行ったら自分の思うままじゃん。好きな世界を好きに作れる。多少の相互性は必要だけど、それでも自分の好きなものを詰め込める。素晴らしいことなんだよ。他の人をおとしめたり、殺したり、もしくは自分自身を傷つけたり、救われなかったりするのを、どうしてわざわざ想像するのかなって。どうしてそれを面白いって思えるのかなって考えてさ」

ぴょんと起き上がるように跳ね上がって、大きく両手を広げる。

「だから、俺は綺麗な話を書こうと思った。優しい話を書こうと思った。悲しくても、希望がある話を。あの子が少しずつでもいい、外に出てきてくれるような、世界はそんなに意地悪じゃないんだって話をね」

重たく苦しい暗闇に、灯りが差し込んでいくように文夜の声が明るくなっていく。

そしてこう言い切った。

「どんな結末にするか? そんなの決まってる。俺の書く話は、ハッピーエンドしかありえない」

強くて優しい声で語られたそれは、宣誓だった。

もうすでに亡くなっているというのに、彼の表情や声からは生命の希望に似た一条の光に満ちている。この人は本当に千燈さんのことだけを丁寧に思って、祈りを込めて物語を書いていたのだ。

「千燈さんは、あなたが亡くなったこと、とても悲しんでいました。突然来なくなったものだから、『文夜さんは、物語はどこに行ってしまったの?』って書いてありましたよ」

「あの子がそんなふうに書いてるなんて。こんなの読んだら続き、書かなきゃなって思うよな、普通」

でも、と手を透かしてみせた。半透明な手のひら越しに、彼のスカイブルーの瞳が見えた。その奥には螺旋書架に収められた本が透けて見える。

「俺は、できれば君に書いてほしいんだけど……」

文夜は言いづらそうに語尾を濁した。何か引っ掛かることでもあるのだろうか。

「君たちさ、本を読むなら、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』って話知ってるでしょ」

もちろん知っている。来夢もこくりとひとつ頷いていた。

「なら、こう言われてるのも知ってるよね。『永遠の未完成』。なんか、そういうのもいいかなぁって思って。宮沢賢治も意図して未完成にしたわけじゃないし」

軽やかに愛衣の前に降り立った文夜は、愛衣に向かって人懐っこい笑みを浮かべた。

「だから、書く書かないは、君に任せる」

「え、任せるって……そんな」

文夜は、期待に満ちた目で愛衣を見ていた。書いてほしいという文夜の願いじゃなくて、君ならどうする? と問いかけの答えを待っているように輝いていた。

来夢に視線を送ると、真偽を見極めようと文夜を真剣な眼差しで見据えている。

「俺は元気になってほしかったし、一緒に遊びたかった。あの子の声、聞いてみたかった。打ちのめされたこの世界を、もう一度きちんと見渡せるように。愛せるように。だから元気になれるような話をたくさん書いた。でも、それは単なる俺の祈りにすぎない。たとえ同じような雰囲気の話を書くとしても、君と俺の物語は全く別物だから」

「……少し、考えさせてください」

簡単に、はいともいいえとも言えない。

いいよ、と文夜は特に気にせず、にっこりと微笑んだ。

その時だった。

かりかり、と図書館の玄関から小さな音が響いたのだ。

来夢が扉を開けると、そこにはお行儀よく前足を揃えた北斗が、ちょこんと座っていた。今日の花は、ブルースターだった。

「あ! ほっけ〜、元気にしてたか〜?」

背中に触ろうとして、するっと手が北斗の体をすり抜けた。

「あ、そっか。触れないのか」

果たして北斗には文夜の姿が見えているのだろうか。でも文夜の方をじっと見つめているから、何かしらの気配は感じているのかもしれない。

「ねぇ。ちょっと彼女さん借りてもいい?」

ふと思い出したように文夜が質問したが、即座に来夢は「嫌です」と答えた。

「えー! ちゃんとサイズも密度も変えずに返すからさー」

「ダメです」

「ちぇ。じゃあ君でいいや」

文夜は悪戯を仕掛ける子供みたいに、無邪気に肩を組むように来夢に飛びついた。

「ちょっと、貴方ねぇ!」

「ねーぇ、彼氏さんお借りしてもいーい?」

「ちゃんとサイズ密度そろえて返してくださいね」

文夜はヒュウと口笛を吹き、来夢は愛衣ちゃん?! と困惑の表情をあらわにした。

なにやら耳打ちして、あっさりと来夢を返してくれた。

北斗が身を翻して、扉を通り抜けて、また森の中に帰っていく。それを見送りながら、文夜は少し寂しそうなに眉根を寄せて、淡い笑みを浮かべた。

「話ができてよかった。ありがと。君たちはいい人だな」

さっきより、文夜の体が透けている。

小豆の能力が切れかかっているのか、それとも文夜が満足したのか。

どちらにしても、お別れだった。

「そんじゃ、さっき言ったこと、頼んだよ」

来夢に向かって手を合わせ、これからのことが楽しみだと言わんばかりの笑顔を浮かべて両手を振った。

「またね」

その言葉を合図に、彼の姿はどんどんと淡くなって、やがて背景と同化して、消えてしまった。本当に消えてしまったのか、見えなくなっただけで、どこかでこちらを見ているのか。

気づいたら、来夢が隣に来て、そっと手を握ってくれていた。

なんだか、心があったかくなった気がした。

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