7月24日『ビニールプール』

「遅れてごめんなさい、来夢くん」

夏休みなのに、スクールバッグに制服姿の愛衣が九十度に頭を下げた。夏休みでも水泳の授業はあるみたいで、それが終わってから駆けつけてくれたのだという。

「いえいえ。走ってきたんですか? 汗がすごいですよ」

ハンカチで額の汗をぬぐってやろうとすると、彼女はひゃっと悲鳴をあげて後ずさった。

「ええっとっ、すみません、お見苦しい姿を……あの、汗臭いので制汗シート使ってから、近づいてもらえると……ありがたい、です」

だんだんと小さく弱々しくなっていく声に重なって、肩を縮こませる姿が小さく見える。

しまった、と表情筋が固まった。

「す、すみません、僕としたことが……あの、僕の部屋使ってください。その間に紅茶を入れてきますので」


銀色のトレイに、アイスティーの入ったポットとガラスカップのセットを二つ乗せて、部屋の扉を叩いた。

「愛衣ちゃん、僕です。入ってもいいですか?」

扉の向こうでばたばたと物音がして、少ししんと静まってから、どうぞ、と小さな声で返事が聞こえた。

「すみません……お騒がせしました」

「いえ、こちらこそ失礼しました」

そんなやりとりを十回ほど繰り返して、押し問答だと苦笑いして終わった。

「愛衣ちゃんは水泳得意なんですか?」

「得意というほどでは……軽く百メートルなら……」

とはいうものの、いつもより会話が続かない。冷房を効かせているのに顔がやたらに赤かった。昨日、二人きりになりたくて家に推しかけたのも原因の一端だろう。

それでも愛衣はアイスティーをちびちび飲みながら、なんとか会話を続けようとしてくれていた。

「昔は父が用意してくれたビニールプールがあったんです。今は猫や犬たちの、水浴び場になってるんですけど。でも海、というより川に行くほうが多かったですね」

「川にですか」

「塩分もないので、水がサラサラしているんです。山の中にあるから、海よりも冷たくて気持ちがいいんですよ」

「文夜さんがいた田舎の方にも、綺麗な川があったみたいですもんね。蛍が飛ぶくらいですもの」

「釣った鮎を持ってきてくれたって、千燈さんも書いてありましたね」

「来夢くんは、もう日記を全部読んだんですよね? どんなことが書いてあったんですか?」


『今日は少し遅くまで温室で本を読んでいました。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』です。星の綺麗な夜には、ぴったりのお供です』


『今日、平沢くんに『銀河鉄道の夜』を読んだことを話すと、俺も読んでみようかな、と言ってくれました。平沢くんは、朝刊の新聞を配ってから、一時間も自転車を漕いで学校に通っているそうです。学校が終わってからも、小学校の子どもたちの面倒を見ているので、あまり本を読んでいる時間がないのだとか』


『今日、思い切ってスケッチブックに「文夜くん」と書いて、見せてみました。すると彼は「あれ、俺名前言ってないんだけど?」ととぼけて見せました。それから嬉しそうに、覚えてくれてありがとう、と言ってました。文月の夜に生まれたので「文夜」って名前なんだそうです』


少しずつ交流が深まっていく様が描かれている。

そんな中で、あるページから不穏さが滲み始めた。


『一体どうしてしまったんでしょう。夕刊が来る時間を随分と過ぎても、文夜くんは来ませんでした。待っている間、泉鏡花の『夜叉ヶ池やしゃがいけ』も、フーケーの『ウンディーネ』も、エンデの『はてしない物語』も読み終わってしまいました』


『今日、朝刊は文夜くんの弟さんという方が持ってきました。こっそり聞いてみたところ、昨日から文夜くんは家に帰っていないそうです。どこへ行ってしまったんでしょう』


そこから、一週間分ページが開いていた。

愛衣の表情も次第に曇っていく。


『あぁ、なんということでしょう。文夜くんはもう戻ってこないのです。さっき、弟の葉光ようこうくんがやってきて、叔父さんに早口で話されているのを、立ち聞きしてしまいました。目の前が真っ暗になって、その場に座り込んで動けませんでした。胸が張り裂けそうです。物語が、終わってしまう』


『山の中の滝壺で、溺れた子どもを助けて、そのまま沈んでしまったそうです。私に向けてくれたあの向日葵のような笑顔も、美しい言葉が並ぶ物語のお手紙も、一緒に沈んでしまいました』


『文夜くんのお葬式がありました。私よりも背の高かった文夜くんは、小さなおこつになって、冷たい色をした骨壷の中に、収まってしまいました。夜、どうしても眠れなくて、ほっちゃんを抱いて泣きました。涙が枯れるというくらいに泣きました』


『今日のお昼、お母さんからお電話がありました。「そろそろ声は出せるようになったか」、「勉強は怠らずにやっているか」、「遊び呆けていないか」と厳しいお言葉を次々に掛けられました。夏休みが明けたら迎えに来ると、それまでに私は「普通」にならないといけないそうです』


ぎゅ、と肩のあたりの服を掴んだ。

少し離れていた距離は、いつのまにかぴったりとくっついて、愛衣は辛いことを我慢する時みたいに眉を寄せて、食い入るように日記のページを見ていた。


『お願い、お願いです。文夜くんを返してください。物語の続きを返してください。そうでないと気が狂ってしまいそうなのです。私はジョバンニじゃないから、この業火の世界を歩いて、本当の幸せを探しになんて行けない』


『あらゆる夢はいつか覚めるもの。ならばどうして私に夢を見せたのですか。鏡に映る花も、水に浮かぶ月も、手に届かないものはどうしてこうも美しいのですか』


『物語の続きをください、彼を返してください』


そのとき、千燈の声が急に穏やかになった。


『とても嬉しいことがありました。この時期になって、蛍が飛んだのです』


『私の名前「千燈ゆきほ」は、「幾千いくせんあかり」……蛍を表しているんだと、叔母さんが教えてくださりました。そして、かつてこの地域では、蛍の光は亡くなった人の魂であり、蛍となって愛しい人の元にお別れを言ってから、お空へ還って星になるのだと言われていたそうです。おかしいと言われるかもしれませんが、文夜さんがお別れに来てくださりました。

そのあと、私は温室に籠って、花束をつくりました。文夜さんの瞳の色に似た御空色の花を集めて、それに合う淡い色合いの花を添えて。

この花束も、いつかきっと枯れてしまうでしょう。でも大丈夫。なん度も作り直してみせます。そう、文夜さんと約束しました。この花束を見れば、きっと貴方を思い出します。

いつまでも忘れません』


これで終わりです、と日記を閉じると、愛衣がそっと肩口に顔を埋めてきた。本を読んでいるだけで、自然と表情に喜怒哀楽が浮かぶ愛衣は、きっと千燈の心情を直に感じとっているのだろう。

そっと髪を撫で付けると、まだ残るカルキの匂いがふわっと浮かんで消えた。

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