7月23日『静かな毒』

一之瀬家の玄関チャイムが鳴ったのは、遊びやら部活やらで愛衣が全員送り出した後だった。

「え、ら、来夢くん?!」

玄関に立っていたのは、来夢だった。顔と首に大粒の汗が張り付いていて、顎を伝う汗を手の甲で拭った。

「なんで、図書館は?」

「留宇に頼んできました」

「と、とにかく入って! 今日だって猛暑日なんですから!」

手を引いて中に促すと、ぐらりと来夢の体が傾いた。あ、と声を上げる前にその体を抱き止めた。

「来夢くん? しっかりしてください、来夢くん!」

顔色が真っ青で、体が熱い。熱失神を起こしかけていた。こんな時に限って誰もいないのだから、運がいいのか悪いのか。来夢の体を抱き上げようとするけれど、気を失っているせいか重たくて簡単に持ち上がらない。仕方なく引き摺るようにリビングまで運んだ。

「ほらほら、アンタたちそこどいて!」

ソファーでごろんと横になっていた猫にウサギに犬たちを追い立てて、クッションで足を高くして来夢を寝かせる。冷凍庫から出してきた氷枕を首の後ろに当てて、濡らしたタオルで顔周りの汗を拭い取った。

ローテーブルに置いた彼のメガネを、桃子がちょいちょいと戯れついたのを叱ると同時に、瞼が震えてうっすらと目を開いた。

「気分はどうですか」

「……まだ頭が痛いですね」

冷やした濡れタオルを首筋に当てると、ふぅ、と細い息を吐いた。

「すみません、突然押しかけて……」

「こういうのは慣れてますので、大丈夫ですよ」

定位置を奪われたネザーランドドワーフの梅吉うめきちが、抗議をするように来夢の服の袖をがじがじと噛み始める。反対に柴犬の桜子さくらこは、当然の来訪者にリードをくわえて持ってくる始末だ。

「こーら梅さん、結衣に言いつけますよ。はいはい、さっちゃんのお散歩はもう少し気温が落ち着いてからね……もーもー? 具合悪い人の上に乗っちゃ、めっ!」

のしっ、と乗っかった桃子を抱き下ろす。もう一匹猫の吹雪ふぶきがいるが、警戒してテレビの裏に隠れてしまった。

ゆっくりと状態を起こすのを手伝って、水で薄めたスポーツドリンクを手渡すと、舐めるように少しずつ飲み始める。

「でもどうして来たんです? 今日も図書館へ行く予定だったのに」

半分ほど飲み進めたグラスをテーブルに置いて、そのまま愛衣の頬を撫でた。なにか小さく呟いたけれど、聞こえなくて聞き返した。すると今度はその端正な顔を近づけた。

「二人きりになりたくて」

そう呟いた唇が、自分のに重ねられようとして、慌てて両手で彼の口を塞いだ。

「あの……見られてます、猫に……」



一体何がどうなっている?

エアコンの効いた自室に来夢を招いたはいいものの、来夢の足の間に座らされ、後ろから抱きしめられていた。お腹に手を回されて、猫がするみたいにぐりぐりと肩に頭を擦り付けてくる。

「だって、留宇とか、十六夜いざよいさんとか、若月わかつきさんとか……ここのところずっと誰かと一緒にいるじゃないですか。昨日だって、悠馬くんと仲良さそうでしたし……それで……二人きりの時間がないなと思って……なんか、やだなと思って」

首にかかる吐息とともに聞こえたのは、まるで静かな毒みたいに独占的で、でも純粋な彼の気持ちだった。

思い返してみれば、夏休みになって星空図書館の来館者が増えたことで、来夢のクラスメイトと顔を合わせることが多かった。新しく知り合った人もいれば、愛衣の読み聞かせを聴きにくる子どもたちもいる。閉館後のティータイムがあるとはいえ、同じ空間にいるのに別々に行動している時間の方が長いのは確かだ。

「……そうでしたね。それで、寂しくて来ちゃったんですか」

「はい」

「来夢くんのクラスメイトさんたちって、とても魅力的で良い方ばかりで、お友達ができるのが嬉しくて、ついそっちを優先しちゃってました。放ったらかしにして、ごめんなさい」

癖のある髪を撫で、回された腕に手を添える。「謝ることじゃないです」と言うけれど、抱きしめる腕の力は強くなる。

「どうしたら許してくれます?」

「今日、このまま二人っきりがいいです。誰にも邪魔されたくない……」

どくんと胸が跳ねた。こんな熱烈なことを言われるのは初めてで、平静を装っていてもじわじわと顔に熱が集まっていく。

「邪魔なら入りませんよ。嵐志は友だちと岐阜の方に行ってますし、結衣は昨日からお友だちの帰省についていって、帰るのは明後日です。兄さんたちは部活ですけど、今日は静岡に遠征と言ってたので、帰りは八時をすぎるでしょう。ずっと一緒にいられますよ」

ぴく、と来夢の肩が跳ねる。

「お顔、見せてくれませんか」

ようやくお腹に回されていた腕が緩み、息がしやすくなった。

体を捻って顔を合わせて、今度は息が止まりそうになる。

花みたいに整った顔がいつもより近くに感じる。そういえばメガネをリビングに置いてきたままだ。長いまつ毛に隠れた目は、夜が迫る街で迷子になってしまったような、置いてけぼりにされたような切ない色をしていた。そんな顔されたら、いやでも二人きりでいたくなってしまう。

まだ熱の残る額、少しひんやりした鼻先と順番に触れ合わせて、最後にそっと唇を重ねた。

さっきおあずけした分長く、今までしたことないくらい深かった。

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